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❸『鉄の暴風』もう一人の執筆者、牧港篤三の告白
敗戦直後の昭和24年。
交通手段も通信設備もすべて米軍により破壊された。
そんな沖縄で出版された『鉄の暴風』には、数々の謎をはらんでいる。
先ず、第一の謎はこれだ。
何故素人同然の太田記者に沖縄タイムスは『鉄の暴風』の執筆という重責をゆだねたのか。
交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で素人の太田氏が「(集団自決の)体験者」を集めることが出来たのか。
当時の沖縄では、交通・通信等全ての手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられない。
昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。
住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。
太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。ちなみに当時の又吉那覇市長の名ににちなんで「又吉通り」とよばれていた。
その頃の那覇の状況は、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。
太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。
「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
■三ヶ月の取材
三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も「米軍の支援」を考えれば、納得できる話である。
余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国際通りに面した映画館「国映館」の近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。
その後同ホテルは廃業したが、現在の浮島通りにその名前を残している。 浮島ホテルは当時としてはそれほど大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。
このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。
当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」(沖縄タイムス)が集め、「社」のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。
ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。
『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。
≪なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい≫
米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。
実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。
彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。
ところが、当時GHQに勤務していたアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。
米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。
沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。
≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)
『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。
著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。
昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。
だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。
沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、その一方敵軍のアメリカに攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。
これは歴史の皮肉である。
【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】
日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。
しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。
以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。
実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。
008年12月11日(木)
『沖縄戦記・鉄の暴風』(沖縄タイムス 昭和25年8月15日 初版)が軍の命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと記述し、さらに『慶良間列島・床敷の戦闘概要』(昭和28年3月28日渡嘉敷村遺族会編集)にも隊長による集団自決命令が出たと記載されている。これらが、『沖縄ノート』(大江健三郎著)など後の書物に子引き孫引きの形でそのまま引用されていった。
■曽野綾子の疑問
渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長の自決命令に対する疑問について曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにしている。
曽野氏は軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われた最初に記載したのが沖縄タイムスの(鉄の暴風)、これを基に作成したのが『渡嘉敷の戦闘概況』と推測している。その理由として『渡嘉敷の戦闘概況』に『鉄の暴風』と酷似する文章、表現が多数見られ、偶然の一致であはあり得ないこと、引用した際のものと思われる崩し字が『渡嘉敷島の戦闘概況』に見られうることを挙げている。さらにこれを基に作成されたものに『渡嘉敷島における戦争の様相(渡嘉敷村・座間味村共編)
■後でウソであることを確認した自決命令
ところが、『渡嘉敷島の戦闘概況』には記載のある部隊長の命令『渡嘉敷島における戦争の様相』には記載されていない。渡嘉敷島が作成した資料にはこれほど重大な事実が、不注意で欠落することは考えられない。 結局『渡嘉敷島の戦闘概況』作成当時には部隊長の自決命令を確認しないまんままであったが、『と化し敷島における戦争の様相』作成当時には部隊長の自決目命令がないことが確認できたから、記載から外したことは明らかである。つまり渡嘉敷村も隊長命令が無かったことを認めている。
■豊平良顕―沖縄タイムス元社長
沖縄タイムスの豊平良顕から依頼され『鉄の暴風』を作成した太田良博は証言者二人の話をもとに作成したと語っている。
証言者は当時座間味村の校長の山城安次郎氏と南方から復員して帰っていた宮平栄治氏であった。しかし、宮平氏は事件当時南方にいて、現場を見ていない。
また山城氏が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である。座間味島の集団自決を目撃したとしても、渡嘉敷島の集団自決の目撃者にはなり得ないのは明白である。
しかも太田氏はこれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷島の集団自決を含む沖縄全体の戦史を三ヶ月で作成したと言い。「時代が違うとと発言しますと見方をも違う」と発言します。見方が違ったから事実があったりなかったりするのでは戦史としての意味はなく、単なる物語と言われても仕方がない。
■地元出身ー知念元少尉の証言
地元出身の知念元少尉の証言は、決定的であった。
曽野綾子氏をして「見てきたような講談」と言わしめた知念元少尉はこう証言している。
「西山A高地に人知を移した3月27日地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食料を確保して、持久体制を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している」とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり,慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」という記載がある。
■『鉄の暴風』の」問題部分
曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにし『鉄の暴風』の渡嘉敷島の集団自決に関する問題部分をさらに詳しく挙げると次の通りである。
➀直接体験者でない山城安次郎と宮平栄治からの伝聞証拠い過ぎないものを基に作成している。
②『鉄の暴風』と『戦闘概要』『戦況報告書』は記載内容が酷似しており、別の文章とは思われない程の類似性があること、結局、子引き、孫引きであり、最初が間違えていれば、次々と間違いが繰返される構図である。
③『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないこと。
④将校会議の開かれた地下壕で知念少尉が聞いたという赤松隊長の自決命令がないこと。
⑤渡嘉敷島への米軍上陸が昭和20年3月27日午前9時であるところ、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦況報告書』は何れも3月26日と記載しており、多くの人の命日となった集団自決が3月28日であるところ、前日の米軍上陸の期日という重大な事実を偶然しても3件とも間違えたのは不自然である。
⑥自決命令を村長に伝えたはずの安里順駐在巡査が自決命令のなかったこと明言している。
■著者太田氏の大ウソ
太田氏は、伝聞証拠でないことを示す証拠を明らかにするとして沖縄タイムス(昭和60年4月8日付)上で反論を開始した。
『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する証拠を誰に聞かれて取材したかと曽野氏に聞きかれた時、太田氏は「ハッキリ覚えていない」と答えたことを認めるものの(4月9日分)ただ、宮平栄治氏と山城安次郎両名が、沖縄タイムスに訪ねてきて赤松隊長の暴状について戦記に載せてくれと頼んだことは認めている。
さらに太田氏は、『鉄の暴風』は沖縄戦の全容の概略を伝えるための者であり証言集ではない。だから名前を記録しなかった。あるいはさらに一度に多数の人に会って事情を聞いたので、誰であったかいちいち覚えていないという。
しかし、生死の境をくぐってきたばかりの証言であるから虚偽が介在する可能性がないと決めることは信用性吟味視点が全くなかったことを明らかにしているし、そもそも誰が証言したかは明らかではないということは、住民の証言の信用性を確認する方法がないことに他ならない。
加えて、太田氏は「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、実体験者であない者の伝聞証拠を採用するはずがないという。(4月10日分)
■曽野氏「新聞ほどウソつきはいない」
沖縄タイムス出生の秘密!「新聞が嘘つくはずないさ~」はキケンです。【2】
曽野氏はこの点を、新聞社の集める「直接体験者の証言」なるものの中には、どれほど不正確なものがあるか分からない、例えば、朝日新聞は中国文化大革命の時代に林彪失脚の情報が世界に喧伝されるなか、朝日新聞の北京特派員が取材した林彪の健在の誤報を流し続けた例もある、と太田氏を批判している(5月3日)。
結局、太田氏の曽野氏に対する批判は、弁解と些細な揚げ足取りと論理のすり替えに終始している。
全ての原点である『鉄の暴風』が主張する「渡嘉敷島の集団自決が、の隊長命令」が、全くの大ウソであるあったことを『鉄の暴風』の著者自らが明らかにウソをついたと白状している。
■追い詰められた沖縄タイムス
『鉄の暴風』の記述が大ウソであるととが暴露されると困る人達が続出した。
『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないと記載されていること。
『自決命令がなかったとすると沖縄の言論界は軍と住民の対立構図のもと、軍は加害者で悪、住民は犠牲者で全の構図が崩れる。
軍は住民を守らないということの象徴である「自決命令」が無くなってしまえば沖縄の反軍、反日本という支柱が崩壊してしまう。
さらに命令による自決によって零歳児でも戦傷病戦没者遺族等(援護法)の申請時に集団自決が隊長命令で援護金を貰っている人もいる。
追い詰められた沖縄タイムスの第一は昭和20年3月20日に渡嘉敷島17歳未満の少年と役場の職員に手りゅう弾が配られ、一発は敵との戦いに一発は自決用に配られたという記事が、昭和63年6月16日に朝日新聞に當山真順という人物の語ることとして掲載された。
富山真順という人物は渡嘉敷島の兵事主任で、何度も沖縄戦につい資料に登場しているが、昭和20年3月20日に手りゅう弾が配られたということをそれまで一度も話したことは無かった。
■富山真順の大ウソ、渡嘉敷島史料編(昭和63年3月31日)
渡嘉敷島史料編では富山真順の戦争体験の陳述があるが、「十七歳未満の少年に手りゅう弾を配った」という事実のそのものの記載が全くない。
それが昭和62年になって唐突に手りゅう弾配布を持ち出した。
そして部隊長による自決命令を主張する者は、手りゅう弾を配ることは自決命令を下したことを意味するという論法をたてた。
これが『「沖縄集団自決」の真実』(ワック刊)以降、渡嘉敷島の隊長命令が無かったことを定説化しつつあった流れを、揺り戻す試みとして持ち出された。
富山真順が、これほど重大な事実を当時、経験していたのであれば、昭和63年作成の村史資料編の富山真順の戦争体験の陳述書にも、その他の資料にも当然その事実を記載するべきであった。ところが村史料編などにそれまで全く記載されていない。全く不可解である。
渡嘉敷村史資料編と同村通史編のいずれも戦争編は、安仁屋政照沖縄国際大学教授が記載している。
■証言を変えた証人たち
梅澤隊長の自決命令についても、援護金請求のため、隊長命令があったと虚偽を申し立てたと詫びの証文を入れた宮村幸延氏は島の長老に責められて、その証言を騙されて書かされた」言いだした。
さらに泡盛で泥酔するまで酔わされて書かされた証言だとか、宮村幸延氏の筆跡とは異なるものであり、梅澤氏が書いたものだと言い出す始末だ。
しかし筆跡は明確なものであっり、泥酔した者が書けるものではない、私の文章ではないと後日、書面を寄せた宮村幸延氏の筆跡と極めて酷似した筆跡である。
また証文には梅澤裕の「裕」の文字が間違って書かれている。梅澤隊長が記載したのなら、自分の名前を間違えるはずはない。
ところがこの裁判が始まり、文科省の教科書改訂が平成19年3月20日に行われ、沖縄県市町村議会の抗議運動の中で沖縄県市長村議会は議長らの現地調査があった。平成19年6月24日宮村幸延氏の妹である宮村春子氏が兄の盛秀氏から「軍から命令が出た」と聞いたというのである。
また宮城晴美氏は、自著『母の遺したもの』で同氏の母宮城初枝が厚生省援護課の事情調査で梅澤隊長の自決命令はあったかとの問いに「はい」と答え、雑誌『家の光』に投稿し「梅澤隊長から自決命令が下った」と書いたのはま違いだった」と明確に指摘している。
おそらく、初枝氏は、隊長命令を覆したことから沖縄で批判され、宮村幸延氏は梅澤隊長に証文を出したことから座間味村で遺族会長を更迭され、座間味村だけでなく沖縄の多くの人から非難に晒されたことが推測できる。
『ある神話の背景』で曽野氏の検証的態度を高く評価した大城将氏は、その後、前言を撤回している。沖縄戦で事実を語ることが如何に難しいかを如実に示す例である。
■法廷での大江健三郎
沖縄タイムス著作による『鉄の暴風』で、次々と証言者が証言を変え、沖縄戦で真実を証言することの困難さを思い知らされた。
そんななか、最も重要な証言者大江健三郎氏が証言台に立つことになった。
大江氏と言えばノーベル文学賞でその名を知られ、大江・岩波訴訟の被告として『沖縄ノート』で「屠殺者」「罪の巨魁」など元軍人を散々罵倒しておきながら、いまだに内容を変えず重版を重ねている人物だ。
その最重要証人が証言台に立つというのだ。
これには沖縄論壇の左派「軍命派」も右派「軍命無し派」も、どのような絶対的証言が飛び出すかと、色めき立った。
そして、結局大江健三郎氏は、勝訴した。
『沖縄ノート』で主張した「軍命の有無」ではなく、名誉棄損で敗訴した。
大江氏は勝負(裁判)に負けたが勝負(軍命)に勝った。究極の証言「軍隊の縦の構造」という勝負で・・・。
大江氏を支援し『沖縄ノート』を重版してきた岩波書店も共犯者であり、同じく伝聞記事で大江を扇動した沖縄タイムスも共犯者である。彼らが戦後60年あまり振り撒いてきた「非武装中立」の幻想は、きわめて有害なものだった。結局大江氏と岩波書店は勝訴したが、彼らは裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた。『沖縄ノート』の大部分は、『鉄の暴風』の”見てきたような”嘘を文学的に加工した「創作」である。『沖縄ノート』は、事実に目を伏せる「進歩的文化人」の知的不誠実の証拠として永久に歴史に刻まれるだろう。
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