狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

➀集団自決、沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪 

2021-05-05 12:03:20 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

長年書き溜めた「集団自決」関連の記事をサルベージして、編集の上集大成を記録しようと決意した。

本記事はそのスタートである。

             ★

沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪 2009-08-28 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
沖縄戦「集団自決」の謎と真実

このアイテムの詳細を見る

沖縄タイムスが沖縄戦に関して多くのデマを流し沖縄戦を歪曲したことを書いてきた。

沖縄タイムスの歴史歪曲の罪は大きい。

『うらそえ文藝』が、過ちを訂正して謝罪せよと告発に踏み切ったのは、良識ある県民の意志を肌で感じたからであろう。

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

続く

⇒最後にクリックお願いします


コメント (3)   この記事についてブログを書く
« 安全保障上の懸念!豪州、中... | トップ | ②高嶋伸欣琉大教授の妄言!ひ... »

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (amai yookan)
2021-05-05 21:07:35
>わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

■    ■

この那覇市職労ってどんなん?何者?朝〇人の集団?

これを明らかにする必要ありですな・白日の下に晒し

・透明性を確保するのがデジタル時代の現代に課せられた課題でしょう

・現状みたいにホッタラカシにしてたら沖縄は金輪際復活しないし・死に衰えるのだ。

これからのデジタル時代の政治家は ●能力と信念を「透明性を持って発信」し、

●若者に未来を指し示す事によって・若者の票を獲得出来なければ政治家・議員として成立しない。この事を肝に命じないと

●「沖縄は得体のしれない集団(=オール沖縄)に乗っ取られている」(=仲井眞知事の名言)この混乱・矛盾から抜け出す事はできそーに無い。
子供たちと平和学習 (宝味)
2021-05-06 07:15:34
60年間で集めた沖縄戦の遺品10万点超 5/6(木)  沖縄タイムス
https://news.yahoo.co.jp/articles/65978585f1b5d206dd3a8627b51dbff1ac910a7a

遺骨収集ボランティアの男性へ
真実の沖縄戦を掘り起こす「平和学習に使ってほしい」
https://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/ad9975a415d3a49bc979a4970c280db9
【現地取材なく想像力駆使で「沖縄ノート」を書く大江健三郎作家】 これは知らなかった、酷過ぎる。普天間基地取材も無く「後から住み出した」とする百田尚樹作家と同じレベルだった。 (坂田)
2021-05-06 08:47:21
もう一度申し上げます、著名作家が小説家を志した理由を、恩師が「お前は嘘を吐くのが上手いから小説家になれ」と叱咤されたのが動機で在ったと回顧した。本人がマジで言うからショックでした。

大江健三郎氏「沖縄ノート」、はなから可笑しい「講釈師、見て来た様な嘘を吐き」レベルでした。

百田尚樹作家が、普天間基地が出来た後から人が周りに住み出したとする情報をネットで収集したと言い訳したが、大の大人の真っ赤な嘘で在ること。

普天間をネット検索したら、同時に、「600年前からの沖縄の古都、首里王も輩出した」と載っているは在りませんか。

百田尚樹作家さん、貴方はどこの国のネットを検索したのでしょうか。「中國の百度」を検索ですか。


ここで、なにゆえ普天間に米軍が飛行場を建設したのか経緯を申し上げます。

先ず、沖縄侵攻に拠り本土をB29で空爆する飛行場をアメリカ政府が沖縄に求めていたこと。

グアムから遠い東京だが、沖縄からなら2時間余で済むから一日で二回も空爆に出かけられる。

そのために、偵察機で沖縄本島を隈なく撮影し解析にて飛行場最適地が普天間で在ることを見付けた。

空撮精密写真、同時に沖縄本島座標地図を作製。精密写真に縦横180mの網を被せて縦ABCDE横12345の様に番号をふることで、この網目一つ一つに艦砲弾を正確に着弾させることが出来る。

艦砲弾、民謡「艦砲の喰え残さ」の様な雨あられなんて実際はアメリカ軍には在りません。

だから、日本軍が首里から本島南部に逃走した時に、逃走経路を正確に艦砲射撃が追いかけて住民を巻き込み犠牲が多かったこと。

先に隠密上陸していた米軍偵察部隊が日本軍の逃走経路を現認解析して、沖合の軍艦に艦砲着弾地座標番号を指示していたからだ。

米軍の艦砲射撃は座標地図に基ずく精密着弾で在り、陸軍も座標地図で無駄なく砲撃します。

なお、陸上自衛隊も射程距離30kmの155mm榴弾砲車両群に着弾地座標番号の指示を出すのは、先に再前線に扮装して忍び寄った2人の計測員斥候役で在ること。この戦術は今も変わりません。


①内陸部で海抜61m在り、自然災害に強いこと。

②普天間地域の高低差が10mしかないこと。

この②の件で、3000m級飛行場建設が容易であると判断されたこと。


なお、にわか普天間飛行場建設と言えど重爆撃機B29を離着させる滑走路は、基礎を2m要した。

そして工事着工後に判ったことが、一帯が本島南部特有の隆起サンゴ礁石灰岩で在ったから、地下が鍾乳洞が蜂の巣状縦横無尽に走る構造で在ったこと。

沖縄地上戦終結6月23日の1か月以上前から普天間飛行場建設造成工事が開始された、素早いのだ。

その時の現場写真を西日本新聞が数年前に報じた、沖縄本島2紙が報じることがない写真だ。

その白黒写真で、日本人が観たことが無い近代重機の数々、ユンボやブルが白い石灰岩を掘り起こして平に造成しダンプが移送する様子を見て、なぜ近くの北谷町砂浜に強襲揚陸艦がずらっと上陸していたのか理由が判った。

普天間に飛行場を建設するために、本国から重機を強襲揚陸艦に満載して北谷町砂浜に上陸した訳だ。

そのための第一次段階が、普天間を空爆と艦砲で開墾したことに在った。その後の記念写真も在る。


ともかく、大江健三郎氏がドキュメント小説を現場を調査もせずに脱稿していたなんて、絶筆の間違いではないのだろうか。

視よっ「嘘を吐くのが上手い小説家」を徹底すれば大江健三郎作家の様にノーベル文学賞を受賞だ。

そして、嘘吐き作家の共通点が続いた。嘘がばれても知らん振りのままで、詫びの一言もないこと。


福岡高裁那覇支部で、琉球新報が渡嘉敷島の集団自決は「軍令に因る住民の集団自決」で在るとした報道が嘘で在ると判決したから、琉球新報が上告を断念したこと。最初から嘘を承知の上で報じた訳だ。

爾来、琉球新報と沖縄タイムスの沖縄地上戦の“真実”報道から、「軍令に因る集団自決」の熟語が消えた、代わりに「集団自死」とする主語も無い意味不明な熟語がまかり通っていること。反省が無い。

渡嘉敷島の住民に因る集団自決事件の生存者で在る大城正光氏(当時8歳)が「自決に軍令がなかった、米軍に捕まって無残に殺されるよりも、捕まる前に死ななければならないと大人たちが話していた」と、2015年3月27日付(米軍が渡嘉敷島に上陸したのが3月28日)西日本新聞11面に証言した。家族を思う故に子や親を手にかけたこと。

この報道を、ヤフー電子版ニュース沖縄タイムス記事投稿欄から何度も報道を願い出たが無視だった。

そして5年後の昨年3月に、沖縄タイムスが大城正光氏の弟の証言を報道した、初の報道だが兄の証言よりもかなりソフトで脚色の感が在ったこと。

沖縄の新聞社の姿勢が良~く判った体験でした。

コメントを投稿