狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

上陸前夜の出来事 座間味の宮平さん、8年前にも証言していた!

2008-03-04 07:54:05 | ★集団自決

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座間味島の宮平秀幸さんの証言は「軍命あり派」、「軍命なし派」両陣営に衝撃を与えた。

1月26日、27日の二日に渡って「集団自決の真実の探求」で、秦郁彦、藤岡信勝、中村粲、皆本儀博、知念朝睦、鴨野守氏ら学者、ジャーナリスト、関係者の40余名が、「集団自決」の現地調査のため座間味、渡嘉敷両島を訪問した。

その成果が当時15歳で伝令をしていた宮平秀幸(78歳)さんの証言である。

調査団に同行したジャーナリストの鴨野守氏が雑誌『諸君』の4月号にその取材の成果を寄稿しているという。(沖縄では未着)

タイトルは、次の通り。

特集●沖縄戦・集団自決 語られざる「真実」
目撃証言
「住民よ、自決するな」と隊長は厳命した
少年兵が見た決定的場面。深い霧に包まれた座間味島集団自決の真実が、いま明らかになる   鴨野 守(ジャーナリスト)

以下に広告が掲載されております。http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/

沖縄では未だ発売されていないが(5日予定)、特に「軍命あり派」にとっては衝撃だったようで、早速これにイチャモンをつけるブログも登場している。

いわく、「今まで黙っていたものを、今頃になって」とか

「突然、証言を始めた新証言者」とか、唐突に現れた証言者の告白なんて「眉に唾をつけて聞くべき」と。

まぁ、こうでも言わなきゃ批判の術が無いのだろう。

ところがこの宮平さんの証言は唐突でもなんでもない。

戦後終始一貫して同じ証言を続けていた。

動画の証言でも分かるように、何度連絡しても地元の新聞は「不都合な真実」は取材もしなければ当然記事にもしなかっただけの話。

地元紙の記事にならない証言者は今でも多数ご存命である。

宮平さんの姪の晴美氏が地元で脚光を浴びる前の2000年12月15日(『母の遺したもの』の出版は同じ年の12月)、

毎日新聞の取材班が座間味島に集団自決の取材に訪問して、当時71歳の宮平秀幸さんに取材していた。

取材したのが朝日でなく、毎日だったことが幸いして宮平さんの証言は地元紙がしたように握りつぶされること無く記事になった。

翌年の連載戦記特集の一環として、5月から6月にかけて座間味の取材記事が毎日新聞に掲載された。

その時も、宮城初江氏を含む村長一行と、梅沢隊長のやり取りをそばで聞いていた宮平氏は次のように証言していた。

夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。>(毎日新聞 2001年5月10日)

当時は「集団自決訴訟」が起きる5年前で沖縄集団自決の問題は一部研究者を除いて現在ほど注目を浴びてはいなかった。

毎日新聞には「軍の命令はなかった」という取材結果が掲載されたが、地元紙が一度も取材さえしない宮平さんの証言はほとんど省みられることは無かった。

訴訟の前だったので一般には「集団自決」の存在のみに関心は集まり、「軍命があったかどうか」にはあまり関心を持たれていなかった。

その後、宮平さんは地元新聞のデタラメな報道に、何度も沖縄タイムス、琉球新報に証言すると連絡しても黙殺されたという。

宮平さんの悲憤の言葉は動画の中で語られている。

 【動画】集団自決の衝撃の新証言

「悲の序幕」~ 記憶に激戦の光景
戦争悲劇の語り部、宮平秀幸さん=座間味で
 現在の座間味島は冬に回遊してくるザトウクジラ、初夏の海亀産卵、夏は遊泳やダイビングに釣りなどの観光客で賑わう。
 いつ戦いがあったのか、どこで住民集団惨死があったのか、その気配すら感じさせぬ豊かな自然と穏やかな時間がある。
 民宿「高月」の主人、宮平秀幸さん(71)は船の機関士だったと言うがっしりした体格。だが、その背中と大腿部には砲弾破片による傷痕、記憶には激戦と住民惨死の光景が焼き付いといる。「僕が初めてグラマン戦闘機を見たのは1944年10月10日。島に来ていた陸軍の特攻舟艇部隊慰問会準備のため島民や兵隊が浜にいた。
10時すぎだったか、向かいの渡嘉敷島上空から3機の飛行機が飛んできた。皆は日本軍だと思ってバンザイしたり手を振っていたが、松の木に登った僕の目の前には翼の星のマ―ク。「アメリカーだ」の叫んだら[何を言うか、引きずりおろせ]と兵隊が走って来た。
とたんにダダダダと機銃掃射。皆はクモの子を散らすように逃げたが、港にいた船数隻は炎上したり沈没。沖縄本島との連絡船も・・・」。
 米空軍1600機による沖縄初空襲の余波である。孤立した特攻秘密基地の島は軍の厳重な支配下におかれた。
 だが、生活の自由を奪われた島民たちのの思惑はどうであれ、これらの出来事は地獄への悲劇の序幕にすぎなかったのだ。かっていた。
 
                                    写真~戦争悲劇の語り部、宮平秀幸さん=座間味で                                          
毎日新聞 2001.5.10

 

 

上陸前夜」~ 自決の手助けを頼む

忠魂碑前広場
集団自決の場とした忠魂碑前広場
 山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。
 3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。
 戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。
 「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。
 夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。
 この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。   
                
               
                               写真~集団自決の場とした忠魂碑前広場
                                                      
毎日新聞 2001.6.28

http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/133/index.html
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta_bak/back02.html

宮平秀幸さんの講演会が次の日曜日(9日)に開催されます

詳しくは⇒沖縄県民へ講演会のお知らせ

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2 コメント

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ずっと (ヒロシ)
2008-03-05 07:38:53
沖縄のマスコミや左翼にとって不都合な真実はずっとスルーされていたわけですね。
Unknown (狼魔人)
2008-03-06 13:24:53
ヒロシさん

そろそろ「真相隠し」も年貢の納め時だと思いますよ。

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