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高校の歴史教科書に、沖縄戦の「集団自決」に軍命が有ったと記述するか否かで昨年は日本中が大きく揺れた。
ところが、肝心の沖縄の高校に関する限り教科書記述なんて「そんなの関係ねぇ」で、既に地元新聞等を教材にして「軍命はあった」との授業を行っている。⇒授業前10分 教科書検定問題学ぶ/南風原高
教える教師がサヨク教師だったら、教科書の記述など実務上は何の関係もないのだろう。
高校教師の中には、湾岸署の織田裕二刑事よろしく、
「事件は教室ではなく現場で起きた」とばかり、
生徒を「集団自決」の現場まで引きつれて「残忍な日本軍」を吹き込むという熱心な教師もいる。
5月6日の琉球新報の「市町村面」には米田英明琉球新報通信員のレポートとして、沖縄本島の豊見城南高校の新一年生と担任教諭ら258人が渡嘉敷島を訪れて、日本軍に強制された「集団自決」の現場で地元講師の話に熱心に耳を傾けたという記事がある。
「集団自決」は証言するいろんな立場の人の濃密な人間関係が、お互いの証言に呪縛を掛け合い問題を分かり難くしている。
「集団自決」を学習するため、渡嘉敷島を訪れる学生達を教育する「語り部」の中でも、
渡嘉敷中学校の校長を務めた島の名士である吉川嘉勝(69歳)は最も有名な証言者の1人である。
吉川氏は島を訪れる修学旅行生に「平和学習」を指導する語り部をするに留まらず、本島や本土各地を講演して廻り遠く北海道までも講演旅行をする。
参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 (7/5 16:05)
語り継ぐ沖縄の悲劇 札幌 吉川さん講演(12/10)
≪沖縄戦集団自決の生き残りで、沖縄県渡嘉敷村教育委員長を務める吉川嘉勝さん(69)を招いた講演会「沖縄戦-集団自決の真実」が七日夜、札幌市中央区北三西一九の西本願寺札幌別院で開かれた。当時六歳だった吉川さんの体験証言に約百二十人が耳を傾けた。≫
◇
吉川氏は島を訪れた人達への証言、講演会で「軍命はあった」と語っているが、改まった場所での証言とは必ずも一致していない。
吉川氏は、昨年7月6日の「県議団現地聞き取り調査」でも証言しているがそのときは「軍の命令があった、或いは強制があった」とは証言していない。(沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】 )
調査団に対し、証言者・吉川嘉勝氏(68)は
「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」(沖縄タイムス)としか語っていない。
吉川氏は本土各紙にも証言者として登場するが、中でも沖縄タイムスの「集団自決」取材チームの中心人物・謝花直美氏が自ら署名記事を書いた連載特集『命語い(ぬちがたい)』(07年5月28日~12月1日)の中でも重要な証言者として登場する。
(12)「地獄だった」子どもらに歴史伝え (6月17日)
(13)母「生きよう」脳裏に鮮明 (6月21日)
(14)自決と向き合い継承模索 (6月22日)
同じ特集で証言している同姓の吉川勇助(78歳)は当時渡嘉敷村の職員をしており、生き残り証言者の米田惟好村長が亡くなった後、村長への「耳打ち」を軍命令だったとする証言者である。
(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」 (6月14日) <不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。>
砲弾の激しい爆音で通常会話が聞き取れない状況の中、防衛隊員が村長に耳打ちしたのを「目撃」し、「それが軍命だった」と断定する人も人だがこれを何の検証もなく特集に「軍命証言」として掲載する謝花編集委員の執念、いや、妄執にも驚く。
二人の吉川氏は親族と思われるが、二人とも戦後に改姓しており、旧姓は古波蔵である。
ということは「集団自決」生き残りの米田惟好村長も旧姓は古波蔵なので渡嘉敷島の同じ一族だと考えられる。
証言者は体験者だけではない。
渡嘉敷島には戦後生まれでも、物故した体験者から聞いた話を新聞に投稿する人もいる。
源哲彦氏は沖縄両紙の「論壇」に頻繁に登場するその道の有名人である。
さて、突然だが、ここまでに登場した人物を整理してみる。
★米田長惟好元渡嘉敷島村長
★渡嘉敷島の語り部⇒吉川嘉勝元渡嘉敷中学校校長
★元渡嘉敷村職員⇒吉川勇助氏
★米田英明・琉球新報渡嘉敷島通信員
★謝花直美・沖縄タイムス編集委員
★源哲彦氏(渡嘉敷村民)
①米田長惟好元渡嘉敷村長、吉川嘉勝元渡嘉敷中学校校長、吉川勇助元渡嘉敷村職員、米田英明・琉球新報渡嘉敷島通信員、米田英明・琉球新報渡嘉敷島通信員⇒旧姓は皆同じ古波蔵
②謝花直美・沖縄タイムス編集委員は吉川嘉勝元渡嘉敷中学校校長の教え子であり、両者は師弟関係にある。
③これは推測の域を出ないが、「源」に改姓した理由は、戦時中島民の家に民宿等をして島民と親しかった日本兵の名前をもじってつけた。
係争中の裁判で原告側の証人である皆本義博元中隊長は戦後も何度も渡嘉敷島を訪問しており島民との交流もあるが、「皆下」も「源」も同じく「ミナモト」と発音する。⇒皆本義博氏 証人尋問2007年07月27日
「集団自決」の関係者の中には「本土風」の苗字に改姓した人が異常に多いと前に書いた。
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改姓した人は殆どは親の代で改名されており、現在の当主は改名の理由は聞かされていないと聞く。
以上のべた「集団自決」の複雑な人間関係は、渡嘉敷島に限定したが、
座間味島の場合にも同じことが言える。
一つだけ座間味の例を挙げると、昨年の「11万人」集会のクライマックスで生き残り証言者宮平春子氏の証言文を本人に代わって代読した宮里芳和氏は、琉球新報の座間味通信員であり、宮平春子氏の親族でもある。
宮平春子氏の証言で、宮城晴美氏は母の遺言とは逆の証言をした。 更に法廷証言の後、『母の遺したもの』をいとも簡単に書き換えた新版の出版という恥知らずなことを行った。
ちなみに問題の宮平春子氏は宮里盛秀元座間味村助役の実の妹であるが、マスコミはこの入り組んだ人間関係については一切触れていない。
宮平春子証言は去年の「11万人」集会直前に唐突に飛び出してきたものであり、事実上「集団自決」を誘導したといわれる実兄の「無実」を証明した形になっている。
戦前の渡嘉敷村も座間味村も、人口千数百人の小さい離島の村だったのだ。そんな古くから在る狭い共同体だったら、血の繋がりは濃密であるのが自然ではなかろうか。
オレの生まれ育った本島の字(集落)は、人口千人前後の規模だったが、オレの家系の門中はその3分の1くらいを占めていた。これはその集落内での濃密な関係だと言える。
ましてや渡嘉敷・座間味は海に囲まれた小離島である。長い年月、婚姻関係も島内で結ばれるのがほとんどだったのである。新しく島に渡って居住した家族を除いては、皆濃密な人間関係のはずである。
浪魔人どのは、どんな事でも、軍命は無かったの理屈を組み立てる材料にしたがるね。
例えば、「坂口」とう苗字のお婆さんに、珍しいですね、と聞いたら、「いや、これはうちのお爺さん(義父)が変えてしまったのですよ。本当は金城なのに・・・」
と言ってたね。また「宮本」という人に聞いたら、これは作り名で、元は「板良敷」だという人も居た。
戦後、前の代で改姓した人で、元の姓に戻したいと願っている人も多く居るのではないかと思う。