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「鬼畜米英の捕虜になったら男と子供は八つ裂きにされ、女は強姦された後焼き殺される」
戦時中の沖縄でこのような話が住民の間に流布していたことは事実である。
この事実には次のような話がもっともらしく連なる。
「このようなデマで住民をパニックに追い込み「集団自決」を引き起こした責任は日本軍にある」
だがこの説には大きな事実の歪曲がある。
沖縄の住民は単なるデマで「鬼畜米英の残虐行為」に脅えていたわけではない。
彼らは信頼できる情報を得て、米兵の残虐行為に脅えていたのである。
鬼畜と思った米兵が住民に食料を与えたり、けがの手当てをしてくれた事実であるが、
米兵が住民に対して蛮行を行わなかったというのはサヨク勢力が捏造した神話である。
大陸で起きた通州事件等の中国兵の日本寄留民への残虐行為の情報が沖縄出身の大陸帰りの帰還兵や従軍看護婦によって伝えられ、これが敵の捕虜になる恐怖を増幅させた。
これに対して、
「大陸で民間人に残虐行為を行ったのは中国兵であり、沖縄戦での米兵はやはり人道的であった」
このようなイメージは『鉄の暴風』を主とする沖縄マスコミによって作られていくが、
米軍による残虐行為は、恥を知る被害者達が固く口を閉ざし続けたため沖縄側の記録に残っていないだけに過ぎない。
県立沖縄史料編集所専門員・大城将保氏の著書『改訂版 沖縄戦』には次のような記述がある。
≪本部半島のあるでは、米海兵隊が上陸した直後に、じゅうの婦人が手あたりしだいに米兵の毒牙にかかっている≫
≪戦闘中の婦女暴行事件は地域の例外なくいたるところで多発しているが、真相はおそらく永久に秘密の闇に葬りさられることだろう≫
恥を知らないどこかの国の元売春婦の婆さんたちは今でも理不尽な補償要求で金をくれと騒いでいるが、
恥を知る沖縄の被害者たちのほとんどが「事実」を墓の中まで持ち込んだ。
だが皮肉なことに「事実」はアメリカ人の書いた戦記に登場する。
アメリカ人ジョージ・ファイファーが書いた『天王山』(早川書房)によると沖縄本島の本部半島の運天界隈では本島上陸の20日後にはもう既に兵士の強姦事件防止のため海兵隊長公認の「売春宿」が設置されていた。
「キャット・ハウス」と呼ばれたその売春宿では13歳くらいの女の子まで三十セントで米兵の相手をさせられていた。(「天王山」(上)258ページ)
さらに同じくアメリカ人のヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』にも沖縄戦で壕から出てくる住民を米兵が焼き殺す残酷な記述があり、GHQによりその日本語訳版の出版が禁じられるというおまけまで付いた。
沖縄人が書いた米軍賛美の『鉄の暴風』が米軍の推薦を受け、
その一方アメリカ人が米軍の残虐性を記述した『アメリカの鏡・日本』がGHGの発禁処分になった。
当日記はこの事実を嘗て「歴史の皮肉」と嘲笑した。
⇒続々『鉄の暴風』のいかがわしさ◆渡嘉敷女子青年団 匿名座談会
沖縄本島での米兵による住民への鬼畜行為は時系列的に言って渡嘉敷、座間味両島の「集団自決」の後の出来事である。
両島の「集団自決」は大陸における中国兵の鬼畜行為より、むしろ前年7月に陥落したサイパン戦での米兵の鬼畜行為の方が迫り来る現実として、帰還したサイパン在住沖縄人によって恐怖をもって語られた。
米軍が撮影した「バンザイクリフ」に身を投じる婦人の記録フィルムは有名だが、
沖縄人ならあのシーンを見て身投げする婦人が沖縄出身者であることは容易に推察できる。
サイパンで米軍に追いつめられて自ら命を断った日本人のほとんどが沖縄出身者であることも戦後あまり語られない事実である。
沖縄戦の前年のサイパン戦を生き残った沖縄出身者が、「サイパンでの米兵の蛮行を沖縄の親戚・知人に怒りと恐怖で伝えた」という記録は確認できないが、
少なくとも「サイパン⇒東京⇒沖縄」という情報経路で、「サイパンの悲劇」が沖縄に伝えられていたことは容易に想像できる。
7月9日に米軍はサイパン島の占領を宣言した。
サイパンで住民を自決に追い込んだのは日本軍の直接的命令でも無ければ、「タテ構造」による間接的 命令でもなかった。
米軍の残虐行為を目の当たりに見た恐怖心によるパニックが、住民達を自決へ追い込んだ。
『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』(田中徳裕著ー立風書房)から米兵の鬼畜行為の一部を抜粋する。
(「沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防」の孫引き)
≪三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕らわれの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。 婦女子が全員、素っ裸にされた。 そしてむりやりトラックに積み込まれた。≫
≪婦女子が連れ去られたあと、今度は滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。 ガソリンがまかれ火がつけられた。 飛び出してくる老人や子供たち。 その悲鳴・・・。 米軍は虐待しません、命が大切です。 早く出てきなさい・・・。 あの投降勧告は一体なんだったのか。 常夏の大空をこがさんばかりに燃え上がる炎と黒煙。 幼い子供が泣き叫び、絶叫する。 断末魔がある≫
≪残虐な行為は壮絶をきわめた。 日から逃れようとする子供老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ付き返す。 かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、中で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。 二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真っ二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。 「ギャッー!」という悲鳴。 人間がまるで帰るのようにまたさきされて殺されていく・・・。 彼らは、それをやっては大声で笑った。 不気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた≫
鬼畜米兵は子供を八つ裂きにこそしなかったが赤ん坊を「真っ二つに引き裂いた」ことは上記記述に生々しい。
渡嘉敷島、座間味島の島中を米艦隊に包囲され、
連日連夜打ち込まれる艦砲射撃から逃げまどう住民はパニックに陥り、自決の誘惑に駆られた。
彼らをパニックに追い込んだのは日本軍の命令ではなく、彼らの脳裏に浮かんだ大陸での中国兵やサイパンの米兵により住民に加えられた蛮行の光景であった。
その光景は単なる噂で形作られた曖昧なものではなく、信頼できる親戚・縁者からの生の情報によって形作られた輪郭のはっきりした光景であった。
「集団自決」を引き起こした原因は日本軍の命令ではなく、中国兵や米兵の残虐行為への恐怖によるパニックであると思う方、
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参考エントリー:米兵蛮行の象徴 「ボンベの鐘」
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痛いとこを突いてきましたね。(笑)
仰るとおり、該当部分は確認できる史料を基に書いたわけではなく、傍証から類推して、ちょっと筆が走ってしまったと言うのが本音です。
当時沖縄に「サイパンの悲劇」が伝わっていただろうと類推する根拠は、
①それまで県民の「県外疎開」に無関心だった大本営がサイパン陥落の直前、7月1日に、急遽長少将を沖縄に派遣し、7月7日には県外疎開の閣議決定にこぎつけた事実と、
同時に沖縄に派遣された防空総本部の川嶋三郎氏が次のように書き残している事実です。
「(住民非難は)サイパンが5万の島民に困ったのだから、沖縄本島は住民42万、しかも面積がはるかに大きい・・・」(川嶋三郎「米軍進攻直前の沖縄に派遣されて」-「戦さ世の県庁」に孫引き)
と、サイパンの「軍民混在の悲劇」を知って焦る様子記録されています。
当時は公式には「対馬丸の悲劇」も伏せられてはいましたが、「悪事万里を走る」で当時の沖縄住民が事実を知っていたように、
「サイパンの悲劇」も、「サイパン⇒沖縄」という情報経路はともかく、すくなくとも「サイパン⇒東京⇒沖縄」という伝達経路で県民は知っていたと判断したわけです。
②昭和19年12月8日の「沖縄日報」には、
照屋・日本基督教団沖縄支部長、安里延・県学事課学官、志喜屋・海南中学校長、稲福・県立ニ高女校長その他の県人が,
揃って「米人の残忍性、獣性」を糾弾する記事があり、「科学的な野蛮人」との記述も見えます。
③http://www.geocities.jp/torikai007/war/1944/saipan.htmlには次のような記述もありますので、沖縄県民が「サイパンの悲劇」のあらましは知っていたと判断したわけです。
<「サイパン島玉砕」は,次のように述べる。
清沢洌『暗黒日記』
1944年7月19日「米英が鬼畜であるとの宣伝が行き渡っている。浦河から苫小牧までの汽車で挺身隊が乗った。その隊長が曰く『大西洋憲章というものをチャーチルとルーズベルトが作ったが日本人を皆殺しにすると決議した。男も女も殺してしまうのだと声明した。きゃつ等に殺されてなるものか」、これが汽車中の演説である。また日本人に子を生ませないように、睾丸をとるとか、或は孤島に追いやるとかいうことも、一般人の間には信じられている」
」 また清沢は、この時期の新聞記事をたくさん日記に添付しているが、それらの記事のほとんどが、米国が日本人の抹殺を企図しているという内容を扇情的に記しているものなのである。それに『毎日新聞』なぞは、「社会欄に大きく、『殺せ、米鬼を』と特別活字で書いている」(1944年3月13日)>
当日記は学術論文の類ではありませんが、正確を期すため本文の一部を訂正しておきます。
◆涼月さん
援護ありがとうございます。
リンク頂いた史料もそうですが、沖縄は予想以上に「南方帰り」が多く、私の知人の父親も南方帰りで子供の頃「南方の悲劇」をイロイロ聞かされた記憶があります。
少なくとも当時の沖縄で「サイパンの悲劇」が密かに語られていたのは事実だと考えています。
『米軍の上陸を目のあたりにしたその日,南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした.焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした.』
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm
当時の状況を見れば米軍上陸後のサイパン島から還ってくるということはほとんど考えられないことですが、ただ米兵の行為についてはそれまでにフィリピンやソロモンで戦ってきているわけですからまったく知らないということはないかと。
サイパン戦について研究している者です。
> 沖縄戦の前年のサイパン戦を生き残った沖縄出身者が、サイパンでの米兵の蛮行を沖縄の親戚・知人に怒りと恐怖で伝えた。
とありますが、サイパン陥落後、その生き残った沖縄出身者の方々は、どのようにして帰国されたのでしょう?
ほとんどが捕虜収容所に終戦まで入れられたはずですが、サイパン陥落後、船に乗って沖縄まで帰られたのでしょうか?
其れがうまくいけば、次に朝鮮を攻めれば簡単に落とせると考えていました。
其れが琉球人の強烈な抵抗に遭って、琉球人や朝鮮人が日本と一体となって戦っている事を悟り、予定していた朝鮮への攻撃は中止されました。