ブログ「毎日の生活で感じたこと」の引用です。
2020.08.13
カテゴリ:感動
もうすぐ終戦記念日…
しかしほとんどの日本人は、大東亜戦争の真実を知らずに過ごしています。
真実を知らなければ、自虐史観から逃れることはできません。
そこでおすすめは、8月10日配信の『サンケイ・ワールド・ビュー』
サンケイ・ワールド・ビュー#6 終戦75周年特別企画
(なお、ハンカチのご用意をお忘れなく)
沖縄集団自決問題で冤罪と戦い続けた、元陸軍少佐・梅澤裕氏。
「不要な死は必要ない」と、温情のある戦いをされた方。
大陸では、空に発砲・銃声をとどろかせ、中国兵を降伏させました。
後ろに爆雷のある『マルレ』は、通常敵艦に体当たりする水上特攻。
「若い部下を、俺は死なせなくない」と、必死で作戦を考えた梅澤氏。
敵艦の手前でUターンし、遠心力で爆雷を投げる訓練を何度もさせました。
米軍が上陸する省昭和20年3月、朝鮮人軍夫に海岸に集まってもらい、
「日本軍と共に戦うか、米軍に投降するか」を、たずねます。
下を向き、米軍に投降するしぐさをする朝鮮人軍夫たち…
「じゃあ、また生きていたら会おう!」と、彼らに別れを告げました。
戦後『軍の命令』にしなければ、島民たちが援護金がもらえないことを知り、
「私の命令があったということで、島民の命が救われるなら。」
赤松嘉次陸軍大尉・梅澤裕元陸軍少佐は、あえて十字架を背負いました。
『軍命令の集団自決』を確立させたのは、
1950年8月出版の「鉄の棒風」(編集:沖縄タイムス社 朝日新聞社)
これは、日本軍と沖縄県民の分断工作のために書かれた本。
米軍の命令で書かれたことを、執筆者が口を滑らせています。
この本は1970年に第2版が出版されましたが、米軍に対する謝辞が削除。
沖縄県民が米軍を憎むように仕向けるため、意図的に削除されました。
この本の中では、梅澤さんは戦死したことになっています。
実際に梅澤さんがお亡くなられたのは、平成26(1918)年(享年97歳)
梅澤さんに直接会ってお話を聞いたところ、
朝鮮人慰安婦の方は、戦後東京六本木で飲み屋経営、羽振りがよかったそうです。
この本を補強する形で出されたのが、
1970年9月発売の大江健三郎氏著「沖縄ノート」(岩波新書)
大江氏は、沖縄での取材は一切行わずに、この本を書きました。
中国へ行き「日本軍はひどいことをした」と吹き込まれ、帰国後に執筆。
多分、中国の『歴史戦』の一環だったのでしょう。
赤松大尉にフォーカスを当て、大江氏の欺瞞を暴いたのが、曽野綾子氏。
1973年5月「ある神話の背景ー沖縄・渡嘉敷島の集団自決」(文芸春秋)
座間味の梅澤さんにフォーカスを当て、実際がどうだったのかを書いたのが、
2015年2月大高美貴著「強欲チャンプル 沖縄集団自決の真実」(飛鳥新社)
長年沈黙してきた梅澤さんですが、
「そろそろ本当のことを話してもいいのでは?」との周囲の声を受け、
2005年「沖縄ノート」に対し、名誉棄損の裁判を起こします。
自決命令があったことは認めないが、名誉棄損は認めないとして棄却。
なんともわかりにくい裁判結果でした。
この裁判のことを、人民日報が「軍命令確定」と嘘の記事を掲載!
『「沖縄ノート』勝訴に、なぜ誰も注目しないのか』と。
(誇らしげに記事にすることからして、中国が関与した可能性濃厚)
平成25年3月31日、大澤さんに会い、裁判を起こした理由を尋ねると、
「大江健三郎がこの本で、いくら儲けたとかで起こしたのではなく、
戦友の名誉と日本の将来がかかっているからだ。」
梅澤さんが一番つらかったのは、
真実を言いにくい雰囲気に、飲み込まれた戦友たちが多かったこと。
そんな中、一人だけ梅澤さんを信じてくれた人がいました。
「カワムラという男が、ずっと俺を信じてくれた。
『梅澤は、住民自決の軍命令を出すような人間でない!』
俺をずっと支え、座間味まで来て、俺を励ましたくれた。」
当時を思い出し男泣きする梅澤氏の姿に、長年のつらさが伝わってきました。
大高美貴「この本を、手渡しできなかったことが残念でなりません。」
中国の『歴史戦』に対し、産経新聞大阪正論編集長:小島新一氏が発言。
日本軍の名誉を回復させる戦いは、今も続いています。
これを僕らが引き継いで、やっていかなければならない。
しかしほとんどの日本人は、大東亜戦争の真実を知らずに過ごしています。
真実を知らなければ、自虐史観から逃れることはできません。
そこでおすすめは、8月10日配信の『サンケイ・ワールド・ビュー』
サンケイ・ワールド・ビュー#6 終戦75周年特別企画
(なお、ハンカチのご用意をお忘れなく)
沖縄集団自決問題で冤罪と戦い続けた、元陸軍少佐・梅澤裕氏。
「不要な死は必要ない」と、温情のある戦いをされた方。
大陸では、空に発砲・銃声をとどろかせ、中国兵を降伏させました。
後ろに爆雷のある『マルレ』は、通常敵艦に体当たりする水上特攻。
「若い部下を、俺は死なせなくない」と、必死で作戦を考えた梅澤氏。
敵艦の手前でUターンし、遠心力で爆雷を投げる訓練を何度もさせました。
米軍が上陸する省昭和20年3月、朝鮮人軍夫に海岸に集まってもらい、
「日本軍と共に戦うか、米軍に投降するか」を、たずねます。
下を向き、米軍に投降するしぐさをする朝鮮人軍夫たち…
「じゃあ、また生きていたら会おう!」と、彼らに別れを告げました。
戦後『軍の命令』にしなければ、島民たちが援護金がもらえないことを知り、
「私の命令があったということで、島民の命が救われるなら。」
赤松嘉次陸軍大尉・梅澤裕元陸軍少佐は、あえて十字架を背負いました。
『軍命令の集団自決』を確立させたのは、
1950年8月出版の「鉄の棒風」(編集:沖縄タイムス社 朝日新聞社)
これは、日本軍と沖縄県民の分断工作のために書かれた本。
米軍の命令で書かれたことを、執筆者が口を滑らせています。
この本は1970年に第2版が出版されましたが、米軍に対する謝辞が削除。
沖縄県民が米軍を憎むように仕向けるため、意図的に削除されました。
この本の中では、梅澤さんは戦死したことになっています。
実際に梅澤さんがお亡くなられたのは、平成26(1918)年(享年97歳)
梅澤さんに直接会ってお話を聞いたところ、
朝鮮人慰安婦の方は、戦後東京六本木で飲み屋経営、羽振りがよかったそうです。
この本を補強する形で出されたのが、
1970年9月発売の大江健三郎氏著「沖縄ノート」(岩波新書)
大江氏は、沖縄での取材は一切行わずに、この本を書きました。
中国へ行き「日本軍はひどいことをした」と吹き込まれ、帰国後に執筆。
多分、中国の『歴史戦』の一環だったのでしょう。
赤松大尉にフォーカスを当て、大江氏の欺瞞を暴いたのが、曽野綾子氏。
1973年5月「ある神話の背景ー沖縄・渡嘉敷島の集団自決」(文芸春秋)
座間味の梅澤さんにフォーカスを当て、実際がどうだったのかを書いたのが、
2015年2月大高美貴著「強欲チャンプル 沖縄集団自決の真実」(飛鳥新社)
長年沈黙してきた梅澤さんですが、
「そろそろ本当のことを話してもいいのでは?」との周囲の声を受け、
2005年「沖縄ノート」に対し、名誉棄損の裁判を起こします。
自決命令があったことは認めないが、名誉棄損は認めないとして棄却。
なんともわかりにくい裁判結果でした。
この裁判のことを、人民日報が「軍命令確定」と嘘の記事を掲載!
『「沖縄ノート』勝訴に、なぜ誰も注目しないのか』と。
(誇らしげに記事にすることからして、中国が関与した可能性濃厚)
平成25年3月31日、大澤さんに会い、裁判を起こした理由を尋ねると、
「大江健三郎がこの本で、いくら儲けたとかで起こしたのではなく、
戦友の名誉と日本の将来がかかっているからだ。」
梅澤さんが一番つらかったのは、
真実を言いにくい雰囲気に、飲み込まれた戦友たちが多かったこと。
そんな中、一人だけ梅澤さんを信じてくれた人がいました。
「カワムラという男が、ずっと俺を信じてくれた。
『梅澤は、住民自決の軍命令を出すような人間でない!』
俺をずっと支え、座間味まで来て、俺を励ましたくれた。」
当時を思い出し男泣きする梅澤氏の姿に、長年のつらさが伝わってきました。
大高美貴「この本を、手渡しできなかったことが残念でなりません。」
中国の『歴史戦』に対し、産経新聞大阪正論編集長:小島新一氏が発言。
日本軍の名誉を回復させる戦いは、今も続いています。
これを僕らが引き継いで、やっていかなければならない。
水上特攻出撃地は、九州南部海岸線の岩壁の洞窟などに良く見かけられます。
同じく、フロートを装着した水上機の格納洞窟もあちこちに在りました。
特に、沖縄の次に米軍が侵攻予定の鹿児島宮崎両県の志布志湾沿線に配備が多かった。
志布志湾沿線住民は米軍上陸に備えて、山中のどこかしこに壕をこさえた。一帯は火山灰堆積地層のシラス台地なので雨水に脆弱であり、危険なのだ。
ただ、こう言うのは大平洋戦争での戦略じゃ在りませんから、まったく無意味で在ることの声を上げられなかった時勢でした。
沖縄行特攻機作戦も最初から同じ運命でした。
特攻初期は戦略を後押しする決め手の一つでしたが、米軍が沖縄侵攻前にゼロ戦特攻に備えて、世界初の近接信管付艦砲弾をデュポン財団が開発していたから艦載した。
近接信管 艦砲弾が特攻機の10m圏内に達したら近接信管センサーが感知して起爆する、起爆で艦砲弾の破片がマッハ3で四方に飛散して特攻機を壊すことが出来る。
海自の護衛艦主砲76mm速射砲弾16kgも、銀色砲弾の先端に金色の近接信管が装着して在る。自艦艇に飛来する巡航ミサイルを撃墜するためだ。
この近接信管装着艦砲弾のことを日本政府が知ったのは、戦後で在りアメリカ進駐軍からだった。
特攻機を見届ける役目で教官機が特攻に随行する。
特攻機は目標艦を見付けたら、高度2000mまで下降する。これを米軍が判っていたのだ。
高度2000mから、特攻態勢の背面飛行に切り替えて急降下することになる。
背面飛行? 終戦日が特攻予定日で難を逃れた操縦士曰く「背面で急降下なら途中で想い直しても操縦桿が利かないから」とのこと、背筋が寒くなる。
特攻教官曰く「特攻機が高度2000mに降下したら、みんな撃墜されてしまうんだ」と、撃墜の理由が判らないとした。
実際には、高度2000m時に狙撃も同然だった。
沖縄行特攻機が是も非もなく戦略外になっていた。
特攻教官曰く「その内1機のゼロ戦が火を噴きながら敵駆逐艦の艦尾に定規で直線を引いた様に向かっていたのが見えた、当たった」として、少し鳴き声になって来た。
そして、「操縦士は〇〇少尉、未だ16歳だったんだ」と嗚咽が慟哭に変わり、 NHK終戦記念番組がそこで終わった。
元水上特攻大佐の梅澤裕氏【不要な死は必要ない】
同じ信念で、渡された特攻志願書に自分の名前だけを書いて、「司令官に突き返してやった」と官舎で帰宅時に長男に怒りをぶちまけた福岡県三井郡大刀洗陸軍飛行場の教官がいた。
「俺は若い人たちに空中戦で生き延びる術を教えて来た、それを特攻なんて・・・」と、怒りが収まらない親父の不満を受け止めた長男のとばっちり。
この長男こそが、宇宙戦艦ヤマト原作者の松本零士先生でした。
戦後、手塚治虫先生が高校2年生の松本零士さんを強制的に弟子兼スタッフにした。
松本零士先生の回顧録、「手塚先生に人気の女の子シリーズが在るでしょっ あれは僕が書いたんだ」とのこと。
松本零士先生、実は戦艦よりも美少女漫画を描かせたら一番でした、小学生のときから。
なお、松本零士先生の実父元飛行教官は戦後2度と操縦桿を握らなかったので、家は赤貧から脱却出来なかった。
そのため、中学生の時から大人になったら漫画家になり家族を養うと決めていたとのこと。
【1970年9月発売の大江健三郎氏著「沖縄ノート」(岩波新書)】 ・・・ 酷い作文でした。
講釈師、見て来た様な嘘を吐きを地で行った大江健三郎ノーベル文学賞作家。
しょせん、嘘で創り上げて来た偽りの名声とした虚像に過ぎないことが判った。
虚像ゆえに、いつの日か正義の一撃が下されることになる。
大江健三郎氏と違って、単に市井の梅澤氏と松本氏でも、主張に於いて明確な正義感に基づく真理が在る、だから人の胸を打つわけです。