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去る日曜日に行われた「伊藤玲子講演会」の状況を主催者側から連絡がありましたのでメールをそのまま引用します。
《120人ほどで、会場(100人を予定)が満員でした。
今回の特徴は教育関連の運動を進めている団体の方々や国会議員、県議、市議や元職の方々の参加がこれまでより多かったことです。
伊藤玲子先生は、教育現場に立ち入り、学校や教師を変えるのは市議会議員だと言っておりました。
市議は学校現場に赴き、授業をみて、子供たちを良く見なければならないと言ってました。
また、日本が精神的に荒廃してしまったのは、日教組の戦後教育が元凶です。
私は日教組を解体するまでは死ぬに死ねない。
日教組を潰すまでやると言っておられました。
来月の初旬には女性塾の立ち上げのために来県されるとのことです。》
◇
『うらそえ文藝』が沖縄タイムスと琉球新報を告発してから間もなく5ヶ月になる。
同誌編集長の星雅彦氏とドキュメンタリー作家上原正稔氏が沖縄タイムスと琉球新報のこれまでの虚偽記述を訂正し謝罪せよと告発したのだ。
その間、両氏は沖縄二紙をはじめマスコミ各社を招いて記者会見までしたが、名指しで糾弾された沖縄二紙は完全なる沈黙でこれに答えている。
漏れ聞くところによると、両紙とも当初は何らかの対抗手段を考えていたようだが、正面からの論戦となるとウソ記事を書いた手前、タイムス、新報側に理がないとでも思ったのか、頬被りで読者の記憶が消え去るのを待つ作戦に変更したと聞く。
彼らが実行した唯一の対抗手段は兵糧攻め。
星、上原両氏はともに沖縄タイムス、琉球新報に寄稿して生計を立てていた沖縄の文化人。
両紙は彼らを取引停止処分にしたのだ。
星氏によるとこれまで定期的に依頼されていた原稿は何の前触れもなく別の人物に振り返られたという。
9月29日に県庁前広場で行われた「県民集会」の主旨は「(歴史を歪曲した)検定意見の撤回」だという。
だとしたら、政治家である文科大臣に専門性を有する検定意見撤回を要求する前に、
星、上原という沖縄の知識人の「軍命は間違い」という告発に明確に答え、「軍命の有無」を検証した後、
その結果を持参して要請行動を起こすのが筋ではないのか。
そのような検証の論議を避け、「県民集会」と称して、シュプレヒコールするだけで文科省に「検定撤回」を求めてよいものか。
そもそも当日の集会で配布された「大会宣言」とも言うべき「集会アピール」に明らかな間違いがあるではないか。
異論を受け付けぬ言論封殺魔として有名な芥川賞作家目取真俊氏は、自身のブログでこの間違いのある「集会アピール」をそのまま引用し、誤りを指摘するコメントは一切受け付けていない。⇒「9.29県民大会決議」を実現させる県民集会
おかげで集会に参加した人たちの中にも「集団自決(強制集団死)」の記述を削除させるための検定意見を付した」という誤った情報を信じた人が多かった。
大会実行委員はこのような事実誤認で参加者を誤誘導しなければ運動も出来ないほど追い詰められているのだろう。
彼らが追い詰められるのも、わからないわけではない。
「11万人」というウソの数字をもって文科省に「検定意見撤回」を求めたが、拒否されているし、大阪高裁でも「集団自決の軍命令」は事実上否定されたのだ。
最後の手段は、徒党を組んで文科大臣に撤回を迫るという、法治国家にあるまじき恥ずべき手段しか残されていないのだ。
大会実行委員会のメンバーはちょん髷ジーさんを見ても分かるとおりの、暇を持て余した年寄り集団である。
もしかしたら、彼らは意見の相違はともかく明らかな事実誤認さえ判断できない「ある種の状況」に陥っているのではないか。
沖縄タイムスと琉球新報は、ちょん髷ジーさんのお仲間が、デタラメの「集会メッセージ」を引っさげて文科省に要請行動を起こす前に、星、上原両氏の告発に真摯に答える義務がある。
さもなくば恥を晒した「11万人集会」の次には、デタラメな「集会メッセージ」を持参した年寄り集団が大勢東京に押しかけ、再び全国に恥を晒すことになる。
琉球新報 金口木舌 2008年6月23日
座間味島に住む宮平春子さんは、63年前の沖縄戦で「強制集団死」を免れた。村助役と兵事主任を兼ねる兄は、父親に「軍からの命令で玉砕しなさいと言われている」と告げた後、妻子と共に命を絶った
▼兄夫妻とは別行動を取った春子さんは、父親を含む残された家族と逃げた。しばらくして、村の有力者に父が詰問された。「お前は村の親分なのに何でここまで生きてきたのか。恥を知れ。いつまでも生きていないで、死ね」
▼父は元村長で、当時産業組合長だった。詰め寄る村の有力者に対し、こう言った。「自分は子や孫もたくさんいて、どうしても子どもや孫たちには手を掛けきれないから、恥を捨ててここまで逃げてきた」
▼社会学者の上野千鶴子さんは、当時の日本には「『死ぬため』だけに思想があって、『生き延びるための思想』がなかったことが問題」と指摘している(12日付本紙文化面)
▼沖縄に配備された日本軍の目的は、沖縄の防衛ではなく、本土の決戦準備が整うまでの時間稼ぎだった。日本軍は「軍官民共生共死」という表現で、一般住民に軍と運命を共にし死ぬよう求めた
▼かつて生き延びることが「卑怯(ひきょう)者」と非難され、「死ぬための思想」がはびこる時代があった。この先、そんな時代にならないように、「命どぅ宝」という沖縄戦の教訓を心に刻みたい。
◇
上記コラムで登場する宮平春子さんは、「集団自決」訴訟で「軍命があった」証言する被告側の重要証人である。
宮城晴美氏は、母の遺言を綴った「母の遺したもの」を出版し、それが原告側の「軍命不存在」の証拠となると態度を一変、法廷証言のわずか一か月前に母の遺言を踏みにじって証言を翻した。
その証言変更の根拠となったのが宮平春子さんの証言であると言うから言葉を失う。 宮平春子氏が「集団自決を命令した」とされる当時の村役所助役・宮里盛秀氏の妹であり、彼女の証言が「親族の証言であることは措いても、「春子証言」はこれまで春子さんの父盛永氏の「自伝」にも記されていたことであり、特に新しい証言ではない。
宮平春子さんの証言が「身内の証言」や「古い証言」であり、宮城晴美氏が母の遺言を踏みにじるほどの重要証言とも思われないが、
何よりも問題なのは「春子証言」は本人が直接見聞きした証言ではなく、伝聞証言であるということである。
>村助役と兵事主任を兼ねる兄は、父親に「軍からの命令で玉砕しなさいと言われている」と告げた後、妻子と共に命を絶った
つまり春子さん自身が直接「軍命令」を聞いたのではなく、身内が聞いたという伝聞である。
「春子証言」については、沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面に詳細が記されているので一部抜粋引用する。
前記のとおり宮城晴美は、過去にも宮平春子から綿密な聞き取りを行い、これに基づいて『母の遺したもの』の白眉ともいうべき場面を記述している。自決の覚悟を固めた助役の盛秀が、幼い子供達を膝間付いて抱擁し、盛永に、十分な親孝行ができなかったことを詫び、水杯を交わして壕の外に出て、忠魂碑前に向うも途中で引き返し、結局、自決を免れたシーン(甲B5 p216~219)は、宮平春子の証言に基づくものである(調書p43~47)。
これだけの場面を描くのには、相当の聞き取りを要することが推測される。しかも、その場面には、盛永の『自叙伝』から「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着換えて集合しなさい」との盛秀の言葉が挿入されており、そこから宮城晴美が、予め『自叙伝』を読み込み、そこに記載された盛秀の言葉を強く意識していたことが推認できるのであり、宮平春子からの聞き取るにあたっては、このことについて宮城晴美が質問するのを忘れていたなどということはありえない。
晴美は、この点を問う反対尋問に対し、聞き取りが春子の作業中になされたとか、他の仕事に追われて忙しかったと陳弁するが、『母の遺したもの』の白眉ともいうべき感動的場面、しかも《盛秀助役命令説》をうち出すにあたって最も重要な場面を書くにあたってなされた取材が、そうした杜撰なものであったとは到底信用できるものではない。
すなわち、『母の遺したもの』に書かれた盛秀が壕に戻ってきてから盛永と水杯を交わし、壕を出て忠魂碑前に向う場面が、宮平春子に対する取材に基づくものであるという晴美の証言は、相当の時間をかけて綿密になされたはずの取材のなかで宮平春子は、陳述書に記述された「軍の命令がすでにでた」との内容の発言はしなかったことを意味しており、春子の新証言なるものの信用性に対する最大の弾劾である。
更に、その証拠価値については、盛永の『自叙伝』(乙28)における盛秀の言葉との齟齬のことを吟味しなければならない。『自叙伝』では、「軍」という主体がなく、盛秀の「今晩 -中略- 命令があるから」という予想を語ったにすぎない(結局、その後、出る予定だった命令が、現に出されたという記述はない)。春子の陳述書(乙51)では、「軍から」、既に「命令で -中略- 言われている」とされている。
そのときの言葉は、盛永は盛秀から直接告げられており、春子はそれを傍観していたに過ぎない。そのときの盛秀の言葉が、春子のいうようなものであったとすれば、そのことを直接聞いていた盛永が書き漏らすはずがないのである。
軍命令があったとする春子の新証言は、60年もたった後に突如出てきたものであり、しかも盛秀が盛永に語るのを傍観したというものである。しかも、これまで晴美の綿密な取材のなかでも一言も話されたことがなかったのであるから、春子の証言自体、その信用性は甚だ疑わしいといわざるをえない。
さらに指摘すれば、宮城晴美は、盛秀の言ったという言葉についての盛永の『自叙伝』の記述も、宮平春子の新証言も「同じことが基本的に言われている」との旨証言した(宮城調書p49)。
そうなのである。宮平春子の新証言に新味はないというべきであろう。
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父が元村長で兄が村助役という続柄の方は村の中ではかなりの中心人物の一人と言う事になります。
なぜ父親とともに逃げる事が出来たのでしょうか。
それでも軍の命令があったと判断する知識人って、、、
琉球新報の記事中の
>>かつて生き延びることが「卑怯(ひきょう)者」と非難され、「死ぬための思想」がはびこる時代があった。この先、そんな時代にならないように、「命どぅ宝」という沖縄戦の教訓を心に刻みたい。
は、ちょっと疑問に思うのです。
なぜなら、疎開や捕虜になり助かった人は、沖縄県で約40万人います。亡くなられた方も、軍の疎開勧告に応じなかった人が大部分です。
先の戦争で多くの方が亡くなられたことは、悲しいことです。でもそれは沖縄だけでなく日本が等しく被害を受けたのです。
今回の裁判でいろんな事を教えられました。
沖縄のマスコミも、「根こそぎ動員」「軍官民共生共死の方針の下。」などいい加減止めたらどうでしょう。ネタのばれたマジシャンみたいです。
「うらそえ文藝」への沈黙は沖縄二紙の敗北宣言だ、ということを良識ある読者は知っています。
でも彼らが誤ることは太陽が西から出るより確立は低いでしょうね。(笑)
がじゃっちさん
不買運動を起こすまでもなく、最近購読を止める人が増えているようですよ。
生き残るため仲間内の「プロ市民新聞」を模索しているのでしょう。
涼太さん
沖縄紙はキャンペーンのウソ記事の他にも、このようなコラムで読者の洗脳を図るのが得意のようです。
ネタのばれたマジシャンほど惨めなものはありませんが、ネタを教えても信じようとしない愚かな観客ほど始末に終えないものはありませんね。