昨年12月、中川(酒)は「原爆投下は犯罪」と断じたが、
マスコミは「核は論議もしてはいけない」と、これを封殺した。
原爆投下に対して対極の久間発言が出たのを機に「原爆投下」について考えて見たい。
【久間氏の発言要旨】 朝日新聞7月1日より抜粋
日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。
◇
「しょうがない」発言で防衛大臣が辞職というドタバタ劇で、安倍首相は支持率を落としたと言われる。
が、図らずも「従軍慰安婦」の米下院議決に大きな反撃を加えたことになった。
「しょうがない」発言は、この発言を機に日本国内で広まった原爆投下への反発をアメリカ側に伝えることになった。
それが結果的に慰安婦法案の審議に間接的に反撃したことになる。
久間氏が、最初の弁明で「アメリカ側の見方を紹介した」と言ったことは重要である。
アメリカが背負う原罪はと問えば血塗られた歴史を辿ることになる。
コロンブスがアメリカ大陸を“発見”した時から先住民を虐殺し、土地を奪って新国家建設が始まった。
アメリカは原罪の上に成り立った国とも言える。
その後も黒人をアフリカから輸入して奴隷とし、メキシコから土地を奪い、更にハワイ、フィリピンと略奪の歴史は続く。
第二次世界大戦での東京を始めとする都市部への無差別爆撃、そして広島・長崎への原爆投下で無辜の一般市民を大量虐殺した。
だが、これをアメリカは原罪として認めることは無い。
アメリカは自己の罪には甘く、他国の罪には容赦が無い。
他国の60数年前の戦地売春婦問題に謝罪決議をする、というクダラン事案にも正義ヅラをする。
そして日米同盟を維持したいのであれば、戦前の日本が悪の権化であり、それをアメリカが解放したのだという歴史認識を日本に求めているのだ。
日本に対する罪の意識は戦前の日本を悪の帝国にすることによって救われる。
慰安婦問題に関する米議会調査局の報告書の中で、
これ以上の謝罪要求や公式の賠償を求めれば、「日本側は東京大空襲の無差別虐殺や原爆投下の被害への賠償を求める可能性もある」と指摘している。
これらは、アメリカが本音では東京大空襲や原爆投下などが人類に対する罪として捉えていることを示している。
だが、建前上は東京裁判史観を日本に押し付け、戦前の日本を悪であったとすることで、原爆投下も止むを得なかったとして自分自身の罪の意識から逃れているのである。
ところで「しょうがない発言」の要点は
「日本が負けると分かっているのに原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も降参するだろうと。そうすればソ連の参戦を止めることができる」というくだりだ。
が、これはいみじくも久間氏が言うとおり、米国の論理であり、そうした見方を裏付ける客観的な史料が乏しく、研究者の仮説の域を出ていない。
次に、「ソ連の参戦を止めることができると」や、「ソ連が侵略しなかったため、日本がドイツのように東西で仕切られなくて済んだ」としているのも勝手な理屈だ。
長崎での原爆投下の日の8月9日深夜からソ連が中立条約を一方的に破棄して参戦し、満洲をはじめ樺太や千島列島などを占領している。
この8月9日と言う日付に注目して欲しい。
ヤルタの密約で、ドイツ降伏の3ヵ月後ソ連は参戦すると約束している。
ドイツが無条件降伏文書に署名したのが1945年5月8日。
ソ連はドイツ降伏の正確に三ヶ月後、8月9日の深夜に日本への参戦を果たしていたのだ。
ソ連は日ソ中立条約の破棄には躊躇しなかったが、日本への参戦には義理堅く約束日を護ったわけになる。
日本がポツダム宣言の受託した1945年8月15日以後もソ連の侵攻は止まず、9月2日、ミズーリ号上で降伏文書に調印するまで領土の略奪が続いた。
久間発言の「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのはソ連が侵略しなかったため…」は久間氏が歴史の一面しかみていない証拠だ。
4月10日のエントリー「縄張りに手を出すな! 新グレート・ゲーム」で次のように書いた。
<大戦終結の年の2月、ウクライナ黒海沿岸の保養地ヤルタの古城に三人の連合国指導者が集まった。
「戦後処理」と言えば聞こえが良いが、実は三匹の肉食獣による獲物の分捕り合戦だった。
スターリンは対独戦終結後、バルト三国を始めとするヨーロッパを傘下に治める確約を獲得した。
東アジアでは必死で抵抗する日本にてこずるアメリカの要請を受けて対日参戦を約束した。
スターリンにとって「日ソ中立条約」などは唯の紙切れに過ぎなかった。
スターリンは敗戦間際の日本に喧嘩を売り、火事場泥棒的に南樺太等の北方領土略奪した。>
ソ連はアメリカの原爆投下に関係なく、その年の2月のヤルタ会議で日本への参戦をアメリカに約束していた。
ヤルタ会談は、1945年2月にソ連クリミア半島のヤルタで行われた、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによる米英ソ首脳会談のこと。
この会談でアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定も締結し、
ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、これがその後も日本とソ連両国の間の長年の懸案となった、いわゆる「北方領土問題」の原因となった。
◆極東密約(ヤルタ協定)
主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保、などが決められた。
ヤルタ協定に従って、ドイツ降伏3ヵ月後にソ連は日本に宣戦布告。広島に原爆投下されてもなお抵抗を続けていた日本軍は、ソ連参戦の翌日にポツダム宣言受諾を決めた。(ウィキペディアより)
◆ドイツ無条件降伏文書正式発効
1945年5月8日、ベルリン郊外のカルルスホルストにてドイツ代表カイテル元帥がソ連に対する無条件降伏文書に署名。しかし、アジアでは日本がまだ絶望的とも言える孤軍奮闘をしていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます