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■八重山日報社 9月24日
≪検証 玉津改革㊤≫
教科書問題
” 権限と責任 ”取り戻す
玉津氏、従来の方法「拒否」
「順位付け」「絞り込み」ー。
一般住民にはなじみがなかった教科書選定の専門用語が、長期間にわたり、新聞紙面を賑わせている。
発端は、八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長が着手した選定方法の改革だった。
激しい賛否両論を巻き起こした「玉津改革」を振り返る。(敬称略)
♦教科書の選定方法
「絶対、こんな方法で教科書を選んではいけない」
今年5月、昨年の小学校教科書選定の資料を始めて見た玉津は、その「あいまいな内容」に驚いたと振り返る。
教科書を選定する八重山採択地区協議会は、教科事に3人の現場教員を「調査員」に任命。約1ヶ月にわたって各社の教科書を調査研究
させ、報告書を提出させる。委員は報告書を参考資料に、最終的には自らの判断で教科書を選定する仕組みだ。
しかし、玉津が見た資料からは、調査員が事実上、教科書を「選定」し、協議会は事後承認していただけという実態が浮かび上がった。調査員が作成し、昨年7月、協議会に提出した「答申書」。各社の教科書に1位から最下位までの順位を付けた上で、1位の教科書1点を「採択教科書」として絞り込み、報告する内容だった。
調査員が選定した「採択教科書」は、3市町の教育委員会で、全教科とも選定通り採択されていた。
文部省(当時)1990年の通知では、採択権者である教育委員会の責任が不明確になるとして、教職員が投票などで教科書を決定することがないよう求めている。
玉津は「『順位付け』も『絞り込み』も、教職員の投票と本来的には同じ」と指摘。従来の教科書選定方法は、文部省の通知に反していると感じた。文部省通知についての玉津の解釈は、のちに反対派から、「曲解だ」と批判される。
しかし文科省幹部は9月13日、自民党文部科学部会で「さまざまな調査研究があって、推薦とかいろんな意見があっても、それが教育
委員会の決定を縛るというのは好ましくないと、従来から指導している」と説明。玉津の解釈を裏付けることになる。
♦調査員の説明責任
「順位付け」「絞り込み」は2005年の中学校教科書選定でも行われており、長年の慣習として当然視されてきたことがうかがえる。
玉津を不審がらせたのは、調査員がなぜ、こうした「順位付け」を行ったのかという説明が、現存する報告書に書かれていないことだった。玉津はのちに、調査員独自のコメントを書く欄を報告書に設けることになるが、従来の報告書では、そもそも調査員の「説明責任」も不十分だった。
05年当時の関係者のメモによると、調査員の委嘱状交付式で、当時の教育長はこうあいさつした。「(調査員の職務は)八重山採択地
区に最適な教科書を選んでもらおうということです」。
調査員が教科書を選ぶなら、協議会の役割とは何なのか。「調査員が教科書を選ぶのはおかしい。協議会の権限と責任で選ぶ」。玉津の胸中に、改革への決意が芽生えた。
一方、歴代教育長らでつくる「子どもと教科書を考える八重山地区住民の会」は、「子どもの実態をよく知っているのは教員。専門家が1ヶ月間も教科書を調査研究した成果を尊重すべきだ」と」批判。教科書は調査員の意見に基づいて選ばれるべきだと主張し、玉津と鋭く対立した。
☆
教育長に就任した玉津氏は、これまで長く続いた極左前市長が残した教育界の負の遺産を目の当たりにして愕然とする。
独裁前市長の庇護の下歴代教育長が教科書採択権を私物化し、沖教組の言いなりなってきた現状の改革に乗り出した。
>当時の教育長はこうあいさつした。「(調査員の職務は)八重山採択地区に最適な教科書を選んでもらおうということです」。
「当時の教育長」とは「子どもと教科書を考える八重山地区住民の会」のメンバー人であり、いわゆる「ゾンビの会」の1人である。
>歴代教育長らでつくる「子どもと教科書を考える八重山地区住民の会」は、「子どもの実態をよく知っているのは教員。専門家が
1ヶ月間も教科書を調査研究した成果を尊重すべきだ」と批判
何故彼らが「住民の会」などを騙って必死に玉津改革を妨害するのか。
理由は、いたって単純、玉津改革によって、己が過去に犯した「悪事」の露見を恐れたからだ。
彼らが極左前市長の庇護の下、「違法な教科書採択」をしていた事実が明るみに出るのを極度に恐れたのある。
悪事露見の恐怖に怯えた歴代教育長の面々は、長年の眠りから覚め、墓石を倒してこの世に彷徨い出てきたのである。
明日の八重山日報の続編を期待しつつ、事のついでに一方の八重山毎日の「発狂・社説」を比較吟味してみる。
これまで散々扇動したことはケロッと忘れ、落城寸前の断末魔で、冒頭から県教委に下駄を預けるようでは無責任ではないですか、八重山毎日さん。
■八重山毎日新聞・社説 9月24日
はしごを外された県教委
ー再び頑張ってもらうしかないー
想定外のことは、想定外のことで対応しなければ収まりがつかな
い。そう臨んで、文科省と連携しながら収拾策を練り、収めたのでは
なかっただろうか。だが、収めたつもりのものが否定された。3市町
教育委員協議会の決議のことである。
▲不当介入に当たらない
大城県教育長の「はしごを外され困惑している」に無念さが伝わ
る。収拾策の実務を取り仕切ってきた狩俣義務教育課長にあってはな
おさらであろう。八重山教育事務所もそういう思いであろう。これで
は文科省は信用できないーの声が聞こえてきそうだ。
この一連の県教育庁の助言を不当介入というが、それは当たらな
い。県教委は県内の教育に関わるあらゆる出来事に責任を持たねばな
らない。その立場にある。教科書無償措置法における県教委の市町村
教育委員会への指導、助言、援助の役割は大きく、かつ明確。
期限が迫る中、3教育委員会は、自身のことを自身で収めきれない
状況にあった。そんな中で手をこまねいているわけにはいかないはず
だ。法解釈にまで発展した教科書採択問題を県教委だけで判断、裁定
できるわけはない。文科省と合議することは当然なことだ。
今回の教科書をめぐる混乱は、教科書の採択に関わる「地方教育行
政の組織及び運営に関する法律」「教科書無償措置法」の2つの法律
が整合性を欠いていることによる。つまり法整備がなされていなかっ
た。文科省はその責任を感じなくてはいけない。
▲優位性はないというから
地教行法は昭和33年に、教科書無償措置法は同38年に成立し、
それぞれ何度か改正され今に至っている。「地教行法」は地方公共団
体教育委員会の業務全般に関わる法律。成立年度からして前者は、後
者より上位にある法律と言えよう。
「地教行法」は、第23条(教育委員会の職務権限)第6号におい
て「教科書その他の教材の取り扱いに関すること」と明記し、教育委
員会の「管理、執行」を促している。そういう見解に立てば、竹富教
育委員会の言い分は通る。
一方、教科書無償措置法の本法に当たる「義務教育諸学校の教科用
図書の無償に関する法律」は、教科書無償化のための調査会を設置し
文部大臣に建議する。その調査会の委員は文部大臣が任命する。
そのようなことがあって「教科書無償措置法」ができた。
時系列を追い、法制定の目的を考えれば文科大臣の意向をないがし
ろにするわけにはいかない。その見方に立てば、石垣、与那国両教委
の主張に対して理解できる。
地教行法23条(教育委員会の職務権限)のいう「管理、執行」を
そのまま「採択権」と解釈していいかーの見解がある。もし、ないと
すれば誰に採択権があるかーなどの疑問が残る。法の不備、不明瞭さ
は研究してぬぐわなければならない。解釈の齟齬(そご)は協議して
埋めないといけない。
文科省や学識者は、両法律に優位性はないという。そのため、県教
委は文科省から助言を得た。それが全教育委員による3市町教育委員
協議会での協議、採択ではなかったか。
▲政治の介入は許されない
収束したかに見えたものの、後日、中川文科大臣は、その収拾策と
協議事項は「整っていない」との無効記者会見を開く。さらに森文科
副大臣も補強する。「はしごを外された」と困惑をするのは当然なこ
とだ。
なぜこういう急転直下の採択再逆転になったのか。玉津市教育長が
東京・永田町の自民党本部に乗り込んで行っての同党文部科学部会議
がそうさせたのではないか。会議は「日本の前途と歴史教育を考える
議員の会(古屋司会長)との合同会議。「ー議員の会」は「新しい歴
史教科書をつくる会」系の教科書を推進するグループ。つまり育鵬社
の採択を求める立場。会議司会は義家弘介参議院議員が務めた。義家
氏は玉津教育長に文書を提供し、これが3市町教育委員協議会で使わ
れている。一方に偏したこれらの動きは、明らかに教育への政治介入
だ。法理に反する。
文科省はここに至るまでのことを精査し、県教委と再度話すべき
だ。沖縄の自治を裂いてはいけない。今回の混乱は全国で、あるいは
立場を変えて起こりうることである。八重山をモデルケースにしたく
ない。
☆
万策尽きたら、今度は「政治介入」を持ち出してくる。
当日記は前からこのスタンスである。
政治家が教育問題に関心を持つのは当然であり、教科書問題に関心を持たないほうがおかしい。
参考⇒大阪教育条例案 教委の役割を問い直す議論を(9月25日付・読売社説)
それでも、一応八重山毎日をまじめに反論すると、こうなる。
13日の自民党文部科学部会の「合同会議」に玉津教育長が参加したことで、何としても自民党の「政治介入」を匂わせたいつもりのようだが、八重山毎日は何の権限も持たない野党の研究会議に玉津教育長が事情説明のため招致されたからと言って、民主党政権の文科大臣に「政治介入」して法律を曲げてでも見解を変更できると本気で考えているのだろうか。
今回の教科書騒動は「政治問題」ではなく「法律問題」だ。見当違いも甚だしくて、大笑いである。
>この一連の県教育庁の助言を不当介入というが、それは当たらない。
>県教委は県内の教育に関わるあらゆる出来事に責任を持たねばな
県は8月8日に選定予定の八重山協議会に委員の増加を求め、拒否されると強引に選定日を延期させた。さらにオブザーバーとして参加したはずの9月8日の全教委協の協議では県の狩俣課長がヒトラーも驚く強権を発動し強引に多数決で「育鵬社不採択」を決議した。
狩俣課長が強権を発動した「協議」の詳細について八重山日報が既に暴露してあるので当日記の読者なら周知のことである。
>県教委は文科省から助言を得た。それが全教育委員による3市町教育委員協議会での協議、採択ではなかったか。
県教委は文科省の助言を自分の都合のいいように曲解したのではないか。 その証拠に教育委員による3市町教育委員協議会での協議の前に義家議員が文科省に確認し確認文書にしたためた「義家メモ」によると、3市町教委協の協議に何の法的根拠もないことが一目瞭然ではないか。
八重山毎日の記者もアジビラのような社説を書く暇があれば、読解力の研修が先ではないのか。
>玉津市教育長が東京・永田町の自民党本部に乗り込んで行っての同党文部科学部会議
がそうさせたのではないか。会議は「日本の前途と歴史教育を考える議員の会(古屋司会長)との合同会議。
社説では「不都合な真実」は伏せられているが、この自民党主催の「合同会議」の目的は関連法規の確認であり、会議には玉津氏の他に文科省幹部、狩俣課長も参加しており、騒動の経緯を説明している。
この会議の詳細も当日記では暴露してあるが、ここでは参考のため他のブログ草莽崛起ーPRIDE OF JAPANさんから「合同会議」での文科省幹部や狩俣課長の発言を引用する。
≪自民党部会、八重山教科書採択問題について
by 日本会議地方議員連盟 2011/09/14
9月13日午後、自民党文部科学部会と歴史教育を考える議員の会合同会合が開催され、2時間にわたって文部科学省の統治能力のなさと、沖縄県教委の指導内容の問題点について議論がなされました。
(中略)
概要は以下の通りです。
自民党議員の発言
「8月23日の採択地区協議会の決定は公文書として整えられており、手続上瑕疵はない」
「採択地区協議会が決めた内容に従う義務が、全構成自治体にある」
「竹富町のごね得と、沖縄県教委のごり押しを許してはならない。いつまで放置するのか。最早文科省が前面に出るしかない」
「指導すべき自治体は竹富町であり、指導すべき内容は地区協議会の決定に従いなさいということである」
これに対して、文部科学省の初等中等教育局審議官は、次のような答弁を行いました。
「石垣市と与那国町の決定は、法と手続きに則っている。一方、竹富町の決定は、法と手続きに則っていない。そのため、同一教科書不採択の違法状態にある」
「臨時総会による協議は、石垣・与那国の合意なく多数決採択がなされ、協議は成立していない」
「現段階で残されているのは8月23日の採択地区協議会答申であり、それが今なお有効である」
「どういう指導・助言ができるのか検討中である」
「法令上文科省には是正指導の権限がある」
一方沖縄県教育委員会の狩俣義務教育課長は、採択協議会の答申の有効性は認めたものの、今後の竹富町への指導については明言を避けました。
「8月23日の採択地区協議会の答申は生きている」
「答申は有効だが、行政執行がストレートに繋がるのか、必ずしもそうならない」
「我々は、裁判を覚悟しなければならない立場にある。我々は(竹富だけでなく)3者を指導して意見一致を求める立場である」
また、同席していた、玉津石垣市教育長からは、採択地区協議会でしっかり議論して結論を出した。しかし竹富町教委は、自分たちで教科書の選択までやって、東京書籍を採択したことは由々しき事態である。かつ9月8日の協議会は、各教育委員会の合意がないままに進められており、その採択は無効であることが語られた。≫
■引用終わり。
もう一つ、石垣市在住の読者が八重山毎日社説を読んだ感想をメールして下さったので紹介する。
≪「はしごを外された県教委 -再び頑張ってもらうしかない-」
結局お上の一声には勝てぬから、県教委に下駄を預けようという虫のいい話です
結びに
「一方に偏したこれらの動き(自民党文部科学部会議)は、明らかに教育への政治介入だ、法理に反する。」
「沖縄の自治を裂いてはいけない。」
外交配慮が教科書記述を左右するのなら
国際政治は影響力を及ぼせるのに
自国の教育に政治家が口をはさめないなんてそんな馬鹿なことがあってたまるもんですか
政治は教育に介入して当たり前だと思っています
国会議員は「外交」「安全保障」「経済」「社会福祉」「教育」をベースに法整備をする仕事です
そもそも、政治問題化させたのはマスコミです
問題収拾に政治が力を発揮すべきであり、その法に則った指導に「政治介入」とは。。。
自分から政治問題化しておきながら、厚顔無恥もいいとこです≫
せっかく八重山日報の秀逸な連載特集の後で、引かれ者の小唄同然の八重山毎日・社説にスペースを割いてしまったことをお詫びし、再度八重山日報を読み返して口直しにして頂きたい。
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[抗議先]
強引にルール変更をした沖縄県教委に抗議を
沖縄県教育委員会 教育長・大城浩
TEL:098-866-2741 FAX:098-866-2750
E-MAIL:kyouiku1@pref.okinawa.lg.jp
八重山地区採択協議会の決定に従わなかった竹富町教委に抗議を
竹富町教育委員会 教育長・慶田盛安三
TEL:0980-82-2276 FAX:0980-82-0643
E-mail: takekyo@orange.ocn.ne.jp
[激励先]
採択地区協議会の答申を守り、育鵬社採択を決定した石垣市教委と与那国町教委に激励を
石垣市教育委員会 教育長・玉津博克
TEL:0980-82-2604 FAX:0980-82-0294
E-MAIL:kyouiku@city.ishigaki.okinawa.jp
与那国町教育委員会 教育長・崎原用能
TEL:0980-87-2002 FAX:0980-87-2074
E-MAIL:kyouiku@town.yonaguni.okinawa.jp
藤岡信勝著 『教科書採択の真相』 《かくして歴史は歪められる》 PHP新書 より。
【第六話】 「中国共産党の教科書批判キャンペーン」
1982年6月26日、文部省から前日発表された高校教科書の検定結果について、新聞各紙がいっせいに報道した。そのなかで、実教出版の 「世界史」 の教科書で、検定前の 「日本軍が華北に侵略すると・・・」 とあったのが、検定後には 「日本軍が華北に進出すると・・・」 に修正された、という報道が特に注目を浴びた。当時の風潮では、文部省の検定を批判するのが新聞記者の仕事のようになっていた。
同日、中国の新華社電は簡単なコメント抜きの報道を行ったが、翌日には中国共産党の機関紙 『人民日報』 が、「歴史を歪曲し侵略を美化する日本の教科書」 と題する記事を掲載した。6月30日にも、『人民日報』 に短い記事が掲載された。しかし、それから19日間、中国はこの問題について何の報道もしんかった。問題が終わったかに見えた。
ところが、7月20日になって、『人民日報』 に 「この教訓はしっかり覚えておくべきだ」 という短い評論が掲載されたのを皮切りに、突如として、堰を切ったような日本批判が始まった。批判の強さは次第に激しくなり、膨大な量の対日批判の洪水となり、8月10日ころにはピークに達した。
二つの疑問がわく。第一に日本の教科書検定は毎年行われている。この年に限ったことではない。それなのに、なぜ、この年だけこれほど激しい対日教科書批判が起こったのか。
第二に、『人民日報』 がなぜ、「19日間の沈黙」 の後に、対日非難のキャンペーンを猛然と開始したのか
この問題に関する田中明彦、井尻秀憲らの研究を総合すると、これは要するに中国共産党内の権力闘争と深く関係していたのである。小平は、当時すでに中国共産党の実力者だったが、改革・解放路線を採用し、西側から資本を導入して経済建設を進める方針を推進していた。党内にはまだ、華国鋒など文化大革命時代の気分の残っている頑固派の幹部もおり、は、さらに権力基盤を固めなければならなかつた。9月1日からは、中国共産党の党大会 (12全大会) が設定されていた。そこで、は、歴史教科書問題で日本をスケープゴートにして、党内で点数を稼ぐ材料にすることを思いついたものと思われる。「19日間の沈黙」 は、そのための時間かせぎだったと考えられる。7月20日の 『人民日報』 の対日氏批判キャンペーンの開始も、が直接にゴーサインを出したといわれている。(井尻秀憲 「日中関係」、田中浩編 『現代世界と国民国家の将来』 1990年 御茶ノ水書房、所収)
田中明彦は、中国共産党の教科書批判キャンペーンが、青少年の共産党離れに対処する 「愛国主義教育」 キヤンペーンと連動していたことを指摘している。8月1日、中国共産党は 「全国の軍民、とくに青少年が中国共産党を愛し、社会主義の祖国を愛し、人民の軍隊を愛することを内容とする愛国主義教育」 を繰り広げるよう号令した。それには青少年に中国民族がいかなる苦難の深みから開放されたかをわからせる必要があり、「日本軍の残虐行為」 などを教材として 「精彩に富む形式」 で教えることが目指された。そうした分析に基づき、田中は、おそらく、「日本に対し教科書の内容から 『誤り』 を取り除かせるための説得」 であった以上に、「国内に対する 『独立自主の対外政策』を示す機会であり、青少年への歴史教育と共産党への支持調達のための機会であった」 と結論づけている。(『教科書問題』 をめぐる中国の政策決定)岡部達味編 『中国外交ー政策決定の構造』1983年国際問題研究所、所収)
「近隣諸国条項」 の制定
そんなこととはつゆ知らず、9月に訪中を予定していた鈴木善幸首相は、もし中国から訪中を拒否されれば、秋の自民党の総裁選で再選されることをめざしていた自分の経歴に傷がつくことを心配していた。そこで、宮沢喜一官房長官に支持して、この問題をおさめるように求めた。
宮沢は、8月26日、『歴史教科書』 についての官房長官談話」(宮沢談話) を発表し、「我が国が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 と表明した。
9月14日、文部大臣から 「教科書検定調査審議会」 に対し、「歴史教科書の記述に関する検定の在り方について」 諮問が行われた。社会科担当の第二部は、委員の反対を抑え込んで 「南京事件」 など11項目について、検定意見をつけないことで合意した。
11項目の内容は、中国関係では、「侵略」 と 「南京事件」 韓国関係では、「侵略」 「土地調査事業」 「三・一独立運動」 「神社参拝」 「日本語使用」 「創氏改名」 「強制連行」 の七件、その他で 「東南アジアへの進出」 「沖縄戦」 である。
1982年11月24日、文部省は 「義務教育諸学校教科用図書検定基準」 および 「高等学校教科用図書検定基準」 を改正し、「第三章 各教科固有の条件」 の「2 選択・扱い及び組織・分量」 のなかに「(5)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること。」 という一項目を付け加えた。これが、「近隣諸国条項」 と呼ばれているものである。
この文言だけを見れば、格別問題とするにあたらないように思えるかもしれない。「国際理解と国際協調の見地」 は大切なことであり、日本としてもこれを踏まえなければならないのは当然と思えるからだ。
しかし、「近隣諸国条項」 の実質的な意味は、先の11項目に検定意見をつけないこと、すなわち、中国・韓国から文句をつけられそうなテーマについては、左翼学者が書き放題に放任する (さらにのちには、書かない著者には書かせる) ということなのである。その証拠に、この年検定中の、中学校歴史教科書には、早速、満州事変と日華事変について、「侵略」 の語が一挙に多数の教科書に登場した。「近隣諸国条項」 こそは中国と韓国の一方的な歴史解釈を日本人に強要し、歴史教科書に書かせる装置であり、そしてついには、1996年に、「従軍慰安婦の強制連行」 という、まったくの捏造された嘘を中学校の教科書にまで登場させる元凶となったのである。
「近隣諸国条項」 の制定は、二重の意味で不当なものであつた。第一に、「侵略」 を検定によって 「進出」 に変えられたという報道は、実は誤報だった。だから、この事件は、「侵略・進出誤報事件」 とよばれている。第二は、
それは、日本の教育主権を売り渡す行為だった。「当時の鈴木首相と宮沢官房長官は、独立国家の主権とは何かということに極端に無自覚であったからなのか、マスコミや中国・韓国の圧力に抗し切れなかったからなのか、ともかく、日本国家の教育主権を外国に売り渡したのである。
「新編日本史」 への外圧検定事件
「近隣諸国条項」 によって、日本の検定制度はまったく変質してしまったといっても過言ではない。それは、日本の国益と尊厳を守り、日本の教育を共産主義勢力の浸透から防衛する装置であることをやめて、むしろ、国益を損ない、尊厳を失い、自国の歴史を卑しめる装置に変ってしまったのである。
それを実証するテストケースが1986年の外圧検定事件である。保守系の団体を糾合した民間組織である 「日本を守る国民会議」 (現在の 「日本会議」 の前身の一つ) は1982年10月、教科書を批判しているだけでは事態は変らないとして、日本国民の教育に相応しい、高校用の日本史教科書を編集する方針を決めた。教科書は、「新編日本史」 として原書房から発行され、1985年度の文部省検定を受けた。
1986年5月24日の 『朝日新聞』 は、社会面の見開き2ページを使った大きな教科書関連記事を掲載した。見出しは 「゛復古調゛の日本史教科書/日本を守る国民会議/高校用作成めざす/原稿本で教育勅語礼賛/建国神話・三種の神器も」 というものであつた。
「日本を守る国民会議」 の『新編日本史』 が恐ろしく右翼的な教科書であるかのような印象を与えるための誹謗記事であった。その記事は、文部省の教科用図書検定調査審議会(検定審) の内部でも疑義が出て紛糾していると伝えていた。しかし、まだ、検定作業中で、国民の誰も知りえない教科書の内容を、一新聞社が勝手に暴露して批判し、検定結果に影響を与えるキャンペーンをはるというのは、かってないことだった。
むしろ、それをあてにして、外圧を誘導するために書かれた記事であるといってもよかった。朝日の記事がでてから三日後の検定審では、それでも 『新編日本史』 の合格を決定した。
日本政府は、中韓に対しては、その教科書はまだ検定作業中であると答え、文部省に対しては、再検討を命じた。こうして、正規の手続きで検定に合格した教科書に対し、以後四回にわたって、文部省から違法・不当ともいうべき超法規的な修正要求が繰り返された。
『自らの歴史を自らの手に取り戻すために』 −− 近隣諸国条項を廃棄し、自律への路を歩め
雑誌 「正論」 平成十三年三月号 より。
はじめに
昭和五十七年は忘れもしない 「教科書検定虚報事件」 の発生した年で、六月末から九月上旬にかけての、あの長く暑かった夏の記憶は今でもありありと脳裏に再現できるほどに鮮やかである。
でも本年から数へてみればあれは十九年もの昔の出来事だった。二十年に近い、この短からぬ年月を、我々日本人はあの忌まわしい虚報事件の後遺症に悩まされ続け、そして昨平成十二年の秋の外務省による教科書検定介入事件の如くに、今でもあの呪ひに祟られて苦しむといふ事態が生じもする。感慨なきをえない。
平成十二年秋の事態を、仮に 「中学校歴史教科書検定不合格裏工作事件」 とでも、長い名をつけて呼んでみるとして、この事件と、昭和五十七年夏の 「検定虚報事件」 との間にどの様な因果関係があるのか、そもそも二十年近い歳月を距てて二つの事件がいったいどの様な繋がりの糸で関係づけて論ぜられるのか、少し若い世代の人々にはその辺の事情が最早つかみにくくなっているといふこともあるのではないか。先行する世代の、且つ当事者の末端にともかくも位置していた者の一人として、そのあたりの事情を、次代への中継的地点に立って語り遺しておく義務の如きものがあるのではないか。さう考へて、偶々寄せられた、何か回想記風のものを、との編集部の求めに応じ、二つの事件を結ぶ脈絡とそれへの考察、及びそこから我々につきつけられてくる時務の要求とについて、思ふところを記しておきたいと思ふ。
一) 昭和五十七年の記憶
・・・・・七月二十九日以降、当時の文部省初等中等局長は、検定により 「侵略」⇒「進出」 書き換への指示は事実として存在しなかった、新聞の記事は誤報であるとの旨を、参議院文教委員会等で数回にわたって言明している。そのことは前引の八月十日の新聞報道 (「文部省見解」) を注意深く読めば読み取れるのである。そして 『それにも拘わらず』 八月二十六日に至って、あの禍々しい 「内閣官房長官談話」 は出され、日本政府の責任に於いて教科書記述を是正させる、との約束が中・韓両国政府に通達された。
その官房長官・宮沢喜一の犯した罪 (内閣法及び国家行政組織法に違反の疑ひ、そして 「外患誘致」 といふ明白な国家反逆の行為) については、本誌 「正論」 平成九年三月号の拙論 「「漢奸」の精神病理」 の中で、筆者が平生自らに加へているたしなみの埒を大幅に越える口調で糾弾しておいたのだが、勿論文章上の非難弾劾ですむことではない。
爾来二十年に及ぶ日本の教育界への外圧といふ禍害は全くこの時のこの人物の売国的行為に淵源するものである。外交に於ける失策 (しかも意図的な) の責任が個人に対して問はれることがない、この倫理的鈍感の精神風土は昭和十六年十二月七日朝のワシントンに於ける日本大使館の大失態以来、依然として日本国のアキレス腱であり続けている。今後の日本国が是非真剣に考へておかねばならぬ検討課題である。
(二) 「近隣諸国条項」 の呪ひ
昭和五十七年の忌まはしい虚報事件から結果として二つの性質の異なる事態が生じた。一つはこの節で取り上げる 「近隣諸国条項」 であり、他の一つは次節で論及する、自前の歴史観の上に立脚した高校用歴史教科書制作の運動である。
五十七年八月の後半に入って、問題の焦点は文部省と外務省との対立といふ形に絞られてきた。文部省は、当然ながら、検定済教科書に更なる記述変更を要求するのは検定制度の根幹を揺るがすものだ、とて強く抵抗する。
外務省では桜内外務大臣が先頭に立って、「首脳」 と称される人々が <近隣友好諸国との相互信頼> <早急に姿勢を正すことが必要> 中・韓両国の国民感情を <軽く見ると大変なことになる> 等の表現で間接的に記述の変更を主張する。文部・外務両省の対立は、互ひにゆずらぬ形で二週間ほど続くのだが、そこへ八月二十六日の官房長官談話が、簡単に言へば外務省の主張に同調し、これに裏付けを与へる形で発表されたわけである。
談話のポイントは四節に分かれた全文の第二節の末尾にあり、当時の新聞紙面から直接引用してみると、 <・・・・我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分耳を傾け、政府の責任において (引用者注、教科書の記述を) 是正する> といふものであるが、これが要するに日本国の教科書記述を支配せんとする外圧への無残な屈服の表明に他ならないことは、現在のどんな若い読者でも直ちに理解されるであらう。
ところでこの談話は次の第三節の冒頭に以下の如き、恥辱の上塗りとも称すべき対敵迎合的な約束を付け加えていた。曰く、<このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前期の趣旨が十分実現するよう配慮する。
これが問題の 「検定基準」 への 「近隣諸国条項」 追加の根拠となった提言である。ここまで読んで下さればおわかりと思ふのだが、この条項の起草・添加は別に中・韓国の要求に発したわけではない。相手は現行の日本の歴史教科書の記述を 「友好」 的なものに改めろ、と申し入れてきたまでである。
だが官房長官は相手の要求の範囲を越えて、将来の日本の教育界での教科書制作にはめられることになる手枷・足枷を、自ら進んで相手に提供し媚び諂ったのである。
何故そんなことをしたのか。それは九月に予定されていた鈴木善幸首相の訪中の旅を円滑に進め、官房長官としての面目を立てんためである。つまり私利を図って国家の名誉を売ったのである。
今、筆者の手元には昭和五十七年十一月二十五日付の 「文部広報」 第七四七号といふ資料がある。此を見ると前記の官房長官談話が僅か三箇月のうちに 「近隣諸国条項」 の検定基準への添加として結実した経緯がよくわかる。かいつまんで言へばかうである。
八月二十六日の官房長官談話を受けて、当時の鈴木内閣の小川平二文部大臣は、九月十四日付で 「教科用図書検定調査審議会」 に対して、「歴史教科書記述に関する検定の在り方」 について諮問した。九月七日のサンケイ新聞の報道で、一連の紛糾は要するに誤報に基くものだと判明したにも拘らず、である。検定審議会の方も亦誤報のことは聞かなかったの如き態度でこの諮問についての審議にとりかかり
二箇月後の十一月十六日に文相に答申を提出した。(余計な注釈かもしれないが、この時の検定審議会に 「外務省枠」 で加はっていたのが、後に今上天皇御訪中に際して、「お言葉」 の中で 「謝罪」 の意を表明せよと立論したN元大使である)この答申に基づいて小川文相は十一月二十四日付の 「文部省告示」 で、義務教育及び高等学校用図書検定基準の一部改正を布告し、「教科用図書の内容とその取り扱い」 と題する章節十四項の次に第十五項として以下の一項を加へ、この告示は <公布の日から施行する> とした。曰く、<(15)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること> と。
八月下旬に頂点に達していた文部省と外務省の嶮しい対立を当時の新聞(サンケイ) 紙面で辿り返してみると結構面白い。文部省側は、<いま省内には、外務省に対する恨みつらみが渦巻いている> と書かれ、<外務省に頼んだのが間違いだった。・・・外務省は単なる取次ぎ機関だ > といふ文部省高官の言葉が記事になっている。実際我々市民の眼には日本外務省は国の外交を司る機関ではなく、中国からの日本攻撃の取次ぎ所にすぎないと見えていた。一方 <しょせん文部省は二流官庁。事の重大さをわきまえていない> といふかなりきはどい外務省幹部の放言もしっかり記事になっている。
かうして、九月七日付のサンケイ新聞の画期的なおわび広告によって問題紛糾のそもそもの端著が新聞の誤報にあったことが判明したにも拘らず、何とも不思議な経路を辿って 「近隣諸国条項」 は成立した。その成立を自ら要求したわけでもない近隣の両国は、教科書に関はる紛糾が出来する度毎に、十分この条項を利用してその旨味に悦に入っている。
(三) 「新編日本史」 の編纂
五十七年夏の事件は、教育界の枠をはるかに越えて、政治・外交・社会問題としての広汎な関心を民間に喚起した。現在の 「日本会議」 はその頃は 「日本を守る国民会議」 と 「日本を守る会」 との合併以前で、筆者は前者に属していたが、この年の十月三十日に行はれた同会議の 「教科書問題を考へる懇談会」 に出席し、発言もした。黛敏郎氏がまだお元気で運営委員長を務め、自らも常に先頭に立って積極的に行動してをられた頃のことである。
この日懇談会に出席された方のうち二十人の発言録がいま筆者の手元にあるが、黛氏はじめ既に物故された方も何人か居られ、或る、或る種の感慨なきを得ない。夏の事件の衝撃を受けて様々な意見開陳がなされているが、その中に、かかる状況の打開策として最も建設的なのは我々 (「日本を守る国民会議」 を指すとの共通の了解がある) 自身の手で、自らの納得のゆくような教科書を制作することではないか、との意見が見えている。筆者自身もそれを述べた記憶があるが、改めて発言録を検して見るに、そのことを最も明快に、且つ具体的に力強く主張されたのは、当時皇學館大學の学長の任に在られた田中卓博士である。
博士は同時に、日本史を社会科の枠からはづして独立させよとも述べられてをられる。これはやがて実現した。又高等学校に関しては学習指導要領だけを残して自由化(検定なし) せよとのお説もでている。
・・・原書房刊の 「新編日本史」 (現在は図書刊行会刊 「最新日本史」 といふ形をとっている) に関して、筆者はよくその執筆者の一員と思はれているがさうではない。むしろ序文として入れるはずだった 「日本の史学の歴史」 といふ章の原稿が没になった記憶がある。筆者が務めたのは 「監修」だが、これがどういふ役割かといふと、要するに本文の全体を、読みやすい校正刷りになった段階で校閲し、必要とあらば本文の欄外に入朱訂正を施し、疑点や異議を覚えた箇所にコメントを書き込んで執筆者にもどす、といふ作業である。
往々に 「監修」 といふと学会のその専門学科の有力者が 「監修者」 として名前を貸すだけといふ例がある様だが、「国民会議」 の教科書と筆者の場合そんなことはしていない。だから見本本完成のの後、文部省教科書調査官の検定意見を拝聴するために、編集主任の朝比奈正幸氏と共に調査官の許に赴き、問題が紛糾してからは執筆者代表の如き顔をして文部省との交渉にも当たったのである。
昭和六十年の九月半ばには、この日本史教科書は一応所謂 「白表紙本」 の形にまで仕上がり、検定審議会に提出するところまで漕ぎつけた。ささやかな内輪の祝宴を催した記憶もある。編纂の総監督ともいふべき役を務められたのは、その十年ほど前に文部省の主任調査官を辞任された、「家永教科書訴訟」での国側証人として有名な村尾次郎氏だった。村尾氏は後に、一介のドイツ語教師だとしか聞いていなかった汝が国史教科書制作にのり出してきて、しかも結構働くとは全く思ひがけない面白い出来事だった、とて笑はれたものだ。
明けて六十一年の一月末に条件付合格の判定が出、その条件を満した内閣本について、三月彼岸の頃に文部省で二度目の検定意見の伝達といふことあり、私は朝比奈氏と共に文部省に出向いて調査官の意見を聴き、白表紙本に細かくメモを書き込んで修正・改善のための覚えとした。念のために記しておくが、調査官A氏の検定意見は、まさにこの教科書をよりよきものにするための適切な助言の趣に終始し、我々も時に反論や異議を呈しながらも概して穏やかに、相互の意見の妥協点を双方から模索する様な形で訂正要請・勧告に応じていたものである。検定意見の聴取、それに基づいての訂正結果の提出、といふ段取りを踏んで、あとは判定結果の通知を待つのみ、といふ状況になっていた時、奇妙なことに、忘れもしない、、合否判定の発表を三日後に控えた六十一年の五月二十四日であるが、朝日新聞が我々の 「新編日本史」 編纂事業のことを報道した。検定結果の公表以前であるから所謂白表紙本は部外秘の秘密扱ひのはずであるが、朝日新聞はそれを入手し、内容を知っているらしかった。
但しこの第一報を見た時、我々は多少迷惑な扱ひとは思ったが、むしろ話題にしてくれて有難い、といふくらいに暢気に構へていたのである。ところが三日後の五月二十七日、検定結果が公表され、我々の教科書の 「内閣本」 が 「合格」 と決定してからその後がいけなかった。六月に入ると朝日新聞による 「新編日本史」 非難の論調は次第に激しくなり、「復古調教科書」 と銘打って様々な攻撃を加へるようになった。(「復古調」 の刻銘は我々の嬉しく首肯するところであったが、朝日新聞の感覚ではこれが誹謗の意味になるらしかった)。その誹謗に応じてサンケイや世界日報が論説と投書欄とで新教科書擁護の論陣を展開してくれ、なかなかに賑やかな状況を呈することにもなった。或る人の調査によると、六月初めから約四十日間、朝日新聞に 「新編日本史」 非難の記事が載らない日はなかったそうである。
しかし、六月の半ばになって、既に検定合格が
それを今度は文部省が先に立って我々に要求してきている。いづれ背後には外務省が居るのだらうと思はれたが、文部省は外務省と対決するどころか、今度は自らが外圧の取次ぎ機関と化して我々に検定原則違反の記述修正要求をつきつけてくる、といふ形になったわけである。実は五月三十日にも文部省からの再修正要求はあった。ただ我々はそれを訂正洩れになっていた字句の正誤の追加くらいに考へて、それほど重大には受け取らなかった。(中に一箇所、単なる正誤ではない資料の削除要求があった。これは既に 「違法検定」 であった) しかし六月十日の再修正要求は全てが明らかに記述内容に関はることだったから、我々は大いなる疑惑を感じ、緊張した。ことに調査官が、この再修正要求は五月二十七日の合格決定公表以前の段階で出たことにしてもらいたい、といった小細工を弄したことで、逆にこの裏面に何かよからぬ裏工作があるらしいことを推測した。後でわかったことだが、六月七日に中国外務省は北京駐在の日本大使に 「新編日本史」 の合格に抗議する覚書を手交している。この時彼等がこの教科書の白表紙本を手にしてその内容に眼をふれていたとはさすがに考へられない。
朝日新聞の非難の論調に接して、間接的に、これは間違った歴史認識を含む教科書だと判断したとする他に考へられない。
とにかく、当時の総理大臣中曽根康弘首相氏は、この覚書に忽ちしゅう伏した。そして後藤田正晴官房長官を通じて海部俊樹文相に、北京の意向に沿ふ形でこの教科書の記述を修正させよ、と指示した。
文相は、それは検定制度の破壊であるとて抵抗するどころか、唯々諾々と首相の意を奉じて、十日の編者側への再修正要求に及んだのだった。この外圧に屈しての違法の再修正要求の件は、六月十八日に中曽根氏が遊説さきの鹿児島での記者会見に於いて、自分が命令したものであることを自ら白状し、翌十九日の各紙の紙面で大きく取り上げられた。サンケイは社説(「主張」)で 「外圧に屈した教科書検定」 と題する厳しい批判を掲げ、「サンケイ抄」 は中曽根首相を名指して、四年前の土下座の醜態の再演、と断じた。
この段階では朝比奈正幸氏と筆者とが専ら執筆者代表といふ形をとり、国民会議事務局の松村俊郎氏が常に随行陪席して文部省との連夜の交渉に当たったのだが、殊に七月三日の交渉は遂に夜を徹して続き、四日の朝、家庭を持って初めて朝帰りなる経験をしたのも忘れ難い記憶である。呆れたことに、この第三次修正要求に対応しての交渉の最中に、それにかぶせる様にして第四次修正要求が持出された。これは検定審議委員の中の一部の左翼的イデオローグから出た 「便乗要求」 といふものだといふことが後で判明し、その浅ましさに実にやり切れない思ひをした。
私はこれを断固拒否する態度に出たのだが、この強硬さ故に、最後の一点で新教科書の合格がふいになるのではないかとの心配も生じ、黛氏、村尾次郎氏に大いなる御心労をおかけすることになったのは何とも不本意なことだった。
そして何と言っても文部大臣が判子をつかなければ教科書の検定合格は公認されないのだぞといふ脅迫的言辞が間接に伝へられたことで、筆者のこの人物の卑しさに対する不快感は絶頂に達した。
決してその脅迫に屈したわけではないが、妥協に妥協を重ねた形で、七月七日に 「新編日本史」 は最終的に検定合格の認定を得ることができたのだった。・・・
此度の外圧検定事件は、教科書検定制度といふ国の法秩序の一環を、総理大臣、内閣官房長官、外務省が先頭に立って破壊しようとし、この制度をまもるべき責務を負うている文部省に又その責任を果たそうとする意志も勇気も無く、ひとり私共執筆者側の方が検定制度の理念と実施の準則を守ろうとした、さういふ構図になっていたのである。
私共検定を受ける側が検定に抵抗したのではなく、逆に検定の 「あるべき様」 を守ろうとし、且つ守り抜く辞意を明示した。その点で、かの家永訴訟とは正反対の、といふか裏返しの構図である。但し、編纂総監督の村尾次郎氏にしてみれば、家永訴訟の時と比べて、文部省の内側にいるか外側にいるかの位置の違ひがあるだけで、教科書検定制度の理念と倫理とを守るといふ姿勢に於いては見事に首尾一貫していたわけである。その点では全く志を一にしていたはずであるのに、私の対文部省姿勢が強硬に過ぎたために、汝が全てぶち壊しにしかねない、とてこの大先輩には心ならずもひどく御心労をおかけしてしまった。
外圧自体の発源地はもちろん北京政府だが、これの介入を認めてしまったのが、総理、官房長官、外務省といふ国政の最高レベルを貫く権力線なのだから始末が悪い。国権行使の最上層部がどうしてかくも簡単に北京の恫喝に屈服してしまったのかといへば、当面の外交上の思惑といふことももちろんあるが、結局は 「近隣諸国条項」 にひそむ呪縛力の故である。
七月四日のサンケイ新聞も <今回の教科書問題では、政府首脳と外務省が四年前の教科書騒動のあとの宮沢官房長官談話をタテに、終始、文部省に ゛内圧゛ をかけ、これに屈した文部省が検定審議抜きの ゛違法検定゛ を行っている図式がはっきりしてきた> と書いているし、中曽根総理、後藤田官房長官共に、ーー北京からの申し入れは明らかに内政干渉であるが、四年前の宮沢談話が国際公約の正確を有している故に、外圧の受け入れは已むをえない、との趣旨の談話をしていたことが紙上に報ぜられている。その宮沢談話は 「検定基準」 の中の 「近隣諸国条項」 として成分化されているのだから、所詮教科書問題をめぐる外交折衝に於いて日本の手足を拘束しているのは問題のこの条項である。
このことはこの昭和六十一年の事件の際にもちろん既に痛切に認識されていた。渡部昇一氏は七月七日のサンケイ新聞長官 「正論」 欄で後藤田官房長官談話に対する反論の形をとって、明快に、宮沢談話は 「日中共同声明違反」 である故に無効、北京政府からの抗議はその前提が誤報の上に立っているものである故に撤回させるべきである、との論を展開され、七月九日には社説 (「主張」) が、「『官房長官談話』を見直せ」 との標題で、四年前の政府見解は誤報の土台の上に出されたものであるから、「無効」 を宣すべきだ、と説いた。
洵にその通りである。しかしながら、この二つの主張はいづれも、政府によって顧みられることなく、輿論の広汎な支持を得るにも至らなかった。国家の 「あるべき様」 に関しておよそ道理といふものが通用しないといふ点で、昭和六十年前後の日本は昭和二十年秋から昭和二十七年にかけての米軍による占領下の日本と大して変らなかった。占領者が異国の軍隊ならぬ国内の反日勢力である点が違ふといふだけのことだった。
(四) 平成十二年秋の教訓から
・・・「新編日本史」 の編纂 ・制作は別に秘密にしたわけではなく、ただ世間に注目されることもないままに進んでいたただけのことであるが、「つくる会」 の運動は大勢の支持者・賛同者を募って華々しく首途をしたのだから、自然反対陣営の探索の眼も嶮しくそこに注がれていたことだろう。そこで 「つくる会」 の教科書の白表紙本の部外者への流出といった不祥事も、殆ど起こるべくして起こったことと言へる。
十二年の七月末に毎日・朝日の両紙が二種の新教科書のうち 「公民」 の方について、部外者が知るはずのない内容の一部を捉へて、反対陣営からの非難を唆す様な記事を載せた時、やはり来るものが来たな、との感想が浮かんだだけだった。
暴露と中傷はやがて歴史教科書の方にも及び、九月には白表紙本が外部に流出したことを窺はせる内容記述への批判が共同通信から全国に配送され、九月中旬には朝日・毎日両紙が同様の非難の記事を掲載した。新聞紙の記事が又しても外圧導入の呼び水となるといふ、図式は十四年前の昭和六十一年の事件の時とおなじである。
外圧はやはり北京に於いて発生した。前回にこの外圧を中継し増幅して文部省経由で執筆者側に伝へてきたのは外務省ー総理ー官房長官の線であったが、今回は少しく不思議なことに、文部省内部に直ちに外冠への呼応の動きが生じた。文部省内部といってもそれは 「教科用図書検定調査審議会委員」 歴史部会委員の一人に外務省出身者が居り、この人物が対敵内応の発動者だったのだから、或る面から見れば外圧導入の中継はやはり外務省が行ったのだと見てもよい。やがて外務省には不正工作への組織ぐるみの関与があったと見做されるに至った所以である。
この人物が既に周知の通り元インド大使で現在日中友好会館副会長 (会長は後藤田正晴元官房長官) の地位にある野田英二郎氏である。この人のことは産経新聞の本年一月十二日の第三面に、新聞記事としてはおそらく最大限であらう、その経歴と思想と過去の各種の発言にわたっての紹介があるので、本誌ではとくにふれない。不合格工作事件の十月中旬までの経過を詳述して河野洋平外務大臣、後藤田元官房長官、野中広務自民党幹事長等の売国奴的行動を厳しく糾弾した、西尾幹二誌氏の論文 「汝ら、奸賊の徒なるや!」 (「諸君!」十二月号所載) にも野田氏のいかがはしい過去についての十分な情報が提供されている。
以上のように、文部省の、全く筋の通らぬ、命令に対して、再三、説明し、折衝された、小堀桂一郎教授の胸中は察するに余りあります。
以後、小堀教授が、「《朝日新聞》、などいうものは、手に取るのも汚らわしい新聞だ」、と仰られたお気持ちは、痛切な思いとともに、よく理解できます。
P.S.
この文章は、六年前、「チャンネル・桜掲示板」、に、《ファッシスト・後藤田正晴の正体》、の題にて、中曽根内閣の官房長官、私が、中国、(支那・中共)、の三下、下っ引き、と評する、後藤田正晴が、如何に言論・思想の自由を踏みにじる酷いことをしたか、について糾弾した文章の一部です。