狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決、女心と沖縄戦の「定説」

2020-08-11 17:27:22 | ★改定版集団自決

 

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沖縄戦史の再検証のため、過去ブログ女心と沖縄戦の「定説」2009-07-11

をサルベージしてを一部編集の上再掲する。

                ★

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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■女心と沖縄戦の「定説」■
 

「母の遺言」を裏切って、沖縄戦集団自決の真相を捏造した宮城晴美氏の変節。

女心の変節で、沖縄戦の専門家が自説(定説)をクルクル変える姿は、いかにも見苦しい。

沖縄戦の「通説」とか「定説」と言われるものほどいかがわしいものはない。

座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決の生き残り宮城初江氏(宮城晴美の母)によってもたらされた。

初江氏は、その後それが「援護金」のために強制されたウソの証言であったことを娘晴美氏に書残した。

娘晴美氏が母の遺言である『母の遺したもの』(2000年12月)を出版することにより「定説」は逆転し、「隊長命令はなかった」が新たな「定説」となった。

沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教授(当時)も琉球新報に『母の遺した』の書評書いて「〔書評〕『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著」 「定説」とは違う真相語る (隊長命令はなかった)吉浜忍(2000年12月24日・琉球新報)として研究者の立場から「定説」を補強した。 

更にこの「定説」に沖縄タイムスがお墨付きを与えることになる。

『母の遺したもの』が沖縄タイムス出版文化賞を受賞するという栄誉と共に学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる「定説」となった。

 〔沖縄タイムス 12月12日〕
第22回沖縄タイムス出版文化賞受賞作品が決まる

2001年12月12日・沖縄タイムス・朝刊
 正賞:『アンヤタサー』山里将人著
、『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著

座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知された瞬間だが、この「定説」は2005年の「集団自決訴訟」によって再び揺らぎ「隊長命令はあった」と元の「定説」に逆戻りする。

それに従って研究者達の「定説」も次々と姿を変えてくる。

例えば沖縄タイムスの「書評」で『母の遺したもの』は「『定説』とは違う真相を語るー隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりはこの通り。

沖縄タイムス2008年年11月18日

 ひと 

[魚眼レンズ]吉浜忍さん
沖縄戦の事実しっかりと
 「集団自決」訴訟の控訴審で原告の訴えを退ける判決が出たことについて「一審判決を踏襲したもの。おそらく原告勝訴にはならないと考えていた」と話す沖縄国際大学教授の吉浜忍さん。「当然の判決」と強調する。

 「カリキュラム上の問題で突っ込んで話はできなかった」と断りながら、自ら講義でも学生に対して同判決について触れ、説明したという。

 「沖縄戦の歴史的な事実関係をしっかり丹念に教えることが大事。学生は逆にスローガン的、感情的なものではなく、事実を踏まえた沖縄戦を学びたいという気持ちが強い」と指摘。

 「今後もこれまでの沖縄戦の証言を継続的に教えていきたい」と気を引き締めている。

 

沖縄では、新聞が作る「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりから垣間見えて興味深い。

吉浜氏は「書評」のことはすっかりお忘れになったようで、沖縄タイムス紙上で再度変化した「定説」を激しく主張されている。

2007年3月31日『沖縄タイムス』から。朝刊27面を転載。

沖縄戦 ゆがむ実相

 高校教科書に掲載された沖縄戦の「集団自決」の実態が国によって隠された。文部科学省は、今回の教科書検定で「軍命の有無は断定的ではない」との見解を示し、過去の検定で認めてきた「集団自決」に対する日本軍の関与を否定。関与を記述した部分の修正を教科書会社に求めた。同省が変更理由に挙げたのは「集団自決」をめぐる訴訟での日本軍の元戦隊長の軍命否定証言と近年の「学説状況の変化」。文科省の姿勢に、県内の関係者からは「沖縄戦の実相の歪曲」「殉国美談に仕立て上げている」と批判が出ている。
 沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教は「検定意見で日本軍の『集団自決』への関与がぼかされたが、軍隊が誘導したのが実態だ」と沖縄戦の実相を指摘する。その上で「国によって沖縄戦が書き換えられた。これまでの研究や調査を逆転させようという政治的意図を感じる」。(略)

                    ◇

現在沖縄タイムスと琉球新報が捏造した「定説」に真っ向から異論を唱えている星雅彦氏と上原正稔氏が両紙の逆鱗に触れた形になり、事実上沖縄論壇から干された状態にある。

これを考えれば、沖縄の識者たちが、次々と沖縄二紙が変えていく「定説」に追随していくのもむべなるかなで、同情の念も禁じえない。

♪風の中の 

羽のように 

いつも変わる

女心・・・♪  (「女心の歌」より)

 

沖縄の学者さんたち、

お気の毒。(涙)

 

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コメント (2)   この記事についてブログを書く
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2 コメント

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実は組織的な集団自決とする嘘の主張、嘘なら謝罪するのが人の道。真摯に反省しないと終わったことに出来ません。当事者のみならず沖縄タイムスが介在していたなんて酷いことだ。 (坂田)
2020-08-11 22:44:46
無為無策の沖縄地上戦も酷かったから、集団自決の嘘がどうのこうのと言えたことじゃないが、“その後”を住民が生き抜くために執った命懸けの決意と善意的に想いたかった。

全ての責任が沖縄守備隊に在ったからだ。

ただ、戦没遺族の一人として許せないのが『沖縄が捨て石』とする歴史学者でもない人の侮辱暴言が一人歩きして来たことに在る。

日本軍人として、また志願兵として大事な精神矜持が在った、武士道精神だ。

具体的には、身を捨て仁を尽くす覚悟のことで在る。

身を捨てる覚悟で挑むのだから、住民を巻き添えにして於いて骸を踏み越えることは在り得ないことだ。然し、それが起きてしまった。

それに対して、戦後の“言い訳”や“こじ付け”は武士道精神に照らし合わせて見苦しいものが在る。結果がそうだからだ。

どんなに直命令でも、死線を流離う局面に於いても、司令官たる者の最期は武士道精神でことに臨んでもらいたかったのが一人の戦没遺族としての想いで在り、志願兵は毅然たる覚悟を持っていたからだ。それが、虚しい。

終戦4カ月前に沖縄特攻した戦艦大和隊、魚雷30発受け35度に傾き航行不能の大和。

第二艦隊司令長官が執ったのが独断の特攻作戦中止と、総員退去。そう言う決断をした司令官こそが武士道精神の持主だった。

インパール作戦でも本物の武士が居た、最期の武士だった。最前線を独断で撤退した師団長、本部に帰投後、参謀に『貴殿は馬鹿の四乗だ』と怒鳴り今までの不満をぶちまけた。

(㊟その後、終戦まで精神不安定の理由で東京本部に幽閉された。軍法会議にかけたら結果を天皇に上奏しないといけないから、参謀の責任だったことがばれるからだ。参謀らは沖縄守備隊司令官同様に昇進栄転した)

なおその最中、福岡大刀洗陸軍飛行場で究極の特攻機が試作され試験航行中だった。

ロケット推進型桜花特攻機どころの破壊力じゃない。一機で空母を撃沈せしめんとする破壊力が在った。

双発戦闘機操縦席の後に大きなドラム缶型の2トン爆弾(=それ以上だろう)を搭載する特攻機で在り、その爆弾をピンク色の塗料で塗ったから桜弾と呼ばれた。

海軍がパールハーバー空爆作戦用で使ったのが軍艦向けの艦爆弾850kgの徹甲弾(大和の46cm主砲弾が1000kg)、桜弾は2倍以上の破壊力が在る。

然し、その爆弾重量ゆえに飛行バランスを執るのが難しく2回も墜落した。2回目が地元朝倉の田んぼに軟着陸して埋まった、救出に駆け寄った住民がピンク色を観たと証言した。

その桜弾が作戦投入でも、アメリカ軍艦砲の砲弾には神風特攻隊防止用のために、沖縄侵攻前に世界初の近接信管が導入されたから、高度2000mに下降した特攻機が全機撃墜されていた。

特攻機は高度2000mから背面飛行急降下に変えるから後で操縦桿が効かなくなる。

その近接信管(=マトの10m圏内に近接したらセンサーが感知して起爆する)ことを日本政府が知ったのは、終戦後で在り進駐軍から教えてもらった。

そう言う沖縄戦末期、どうにかして沖縄を救出したい信念のもとに軍部が個々が各々持ち分野で覚悟して命懸けで努力した。

それを、戦後に捨て石なんて言われたら立つ瀬がない。75年後まで御霊を侮辱し続けるなんて、どう言う考えの持主なのだろうか。
黙んまりは出来ない宮城晴美 (安仁屋 正昭)
2020-08-12 09:14:56
沖縄の郷土の月刊誌『青い海』NO62 1977年5月号
特集33年目の沖縄戦と集団自決に「生き続ける痛恨の日々
―慶良間諸島の集団自決とその後―」と題して宮城晴美寄稿しています
これは、晴美氏が里帰りして母の初枝さんから集団自決の真相を聞き、「時が来るまでは公言してはならない」と言われ、軍命は無く、梅澤部隊とは今でも互いに親しくしているとクギをさされた直後の寄稿文である。

以下抜粋
座間味部落の住民の何人かは、当時、島の総責任者である梅澤部隊長の所へ行き、自決するための弾薬と劇薬をくれ、と申し入れをした。ところがそれに対するはっきりした返事はなく、ただ考えさせてくれと、部隊長は来た人たちをそのまま返してしまった。しかし住民はそのはっきりした返事すら待てなかった。各々、持ちわせたもので命を断っていた。
―中略―
それぞれに生き残ったものは、悔しさと羞恥にさいなまれ、直接の「加害者」に憤りをぶつけていた。もっと力を入れればよかったのに、手榴弾の使い方が間違っていたのではないか、と。
ところが、日が経つにつれ、住民の感情は全く逆になっていった。何も子供まで殺さなくてもよかったではないか、うちの家族を殺したのは誰だと、個人的な恨みが募り、人知れず島の人の気持ちの倒錯も見られた。
―中略―
座間味村の、旧戦友を交えた、厳粛ながらも華やかな慰霊祭に対し、渡嘉敷村の「白玉の塔」で行われた慰霊祭は静かすぎるほど静かであった。

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