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PCの不調でエントリーがいつもより遅れて申し訳ありません。
そういうわけで内容はかなり省略して、詳細は次回に廻したいと思います。
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星雅彦氏は、「軍命あり派」が主張する軍命に関し、早い時期に集団自決の聞き取り調査をした経験から、「伝達経路が判然としない」として当初から疑念を呈していた。
「軍命あり派」の重要証言者である金城重明氏でさえも、軍命については「わからない」と証言している。
沖縄返還前の沖縄タイムスのインタビュー記事では、後年訴訟が起きるとは想定していなかったのか、金城氏は記者の誘導するような質問にも(一箇所を除いて)正直に答えしている。
一箇所の明らかなウソとは、「私自身母親や兄弟を兄弟を殺し」のくだり。
金城氏は「父親殺し」に関しては故意に隠蔽している。
もし30数年後に「軍命の有無」で裁判が起きると想定していたら、金城氏も沖縄タイムスももっと違った対応をしていただろうに。
結局、この記事は星氏の「軍命の伝達経路は判然ととしない」という疑念をさらに深める貴重な資料となった。.
詳しくは改めて論考してみたい。
1970年3月27日付沖縄タイムス
集団自決の生き残りとして
ー牧師となった金城重明さんの場合ー
記者:当時の状況はどうでしたか。
牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
記者:赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
牧師:直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つ、あり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。
記者:自決命令についてはどう思うか。
牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。
記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。
牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。
記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。
牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。
記者:赤松大尉のこんどの来島をどう思うか。
牧師:わたしの立場からすれば、赤松大尉個人を批判するつもりはない。しいていえば、天皇のために死ねという軍国主義教育が渡嘉敷の悲劇で、赤松大尉が何の目的で来たのかわからないので何とも言えない。 しかし悲劇の島、渡嘉敷をしっかり確かめ、戦争は二度といやだという気になれば意味があると思う。 当時の責任者として今後平和運動のため証人としてやっていく気持ちがあれば・・・・ということだ。 わたしが聖職についた直接の動機はこの集団自決事件だ。 わたしは自ら肉親の生命を断ったが、なぜ戦争に責任のない肉親たち、村民たちがあんな死に方をしなければならなかったという疑問を解くために。 そしてわたしはいま渡嘉敷の生き残りとして平和を守ることに努めたい。
記者:戦争の傷跡をわすれないということですか。
牧師:戦争の傷跡というのも、ただ被害者意識だけでいつまでも思い悩んでいては意味がない。 済んだことは済んだこととして、大事なことは過去が現在にどう生きているかということだ。その意味ではわたしは戦争は絶対に許せない。 赤松大尉にも、渡嘉敷の責任者だった人として、いま何をどう感じているかその戦争責任をきびしく問いたい。(1970年3月27日付沖縄タイムス)
◇
(続く)
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35年も後になって「軍命の有無」で裁判沙汰なるなんて想定外だったのでしょうね。