本稿はメルマガ「頂門の一針」よりの転載で、「ゼロ・トレランス方式の是非を問う-1」
の続編です。
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ゼロ・トレランス方式-2
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中村 忠之
日本で「ゼロ・トレランス方式」を成功させるために
さてこの「ゼロ・トレランス方式」の基本的根拠として、「問題児・加
害児」そのものが犯罪者だという視点にあるのだが、日本ではどうもそ
うした決めつけが出来ないところに問題があるようだ。
あえて言えば、「学校という聖域」「未成年という一種のタブー意識」
「子供に一人前の人権を認めるという発想」、加えて彼らが、社会的に
家庭的に、ある意味被害者であるという考え方が根底にある。
たとえば援助交際(少女売春)にしても、大人は加害者であり、子供は
被害者というスタンスが(マスコミを頂点として)定着している。家出
・万引き・暴走それに恐喝などに対する超月制度がどのようになってい
るのか、各都道府県で同一に扱われているのか画一切不明である。
地方の教育委員会の廃止を謳うのはいいが、こうした処置を的確に行え
る機関として再生出来るのであればあらためて存続を検討すればいい。
日本の教育改革を阻む最大に障害は、戦後の「子供の立場に立った」
「子供の人権を認める」という教育理念にあることは明白なのだが、果
たしてこうした強固なマインドコントロールを打破して、まったく違っ
た教育理念に、コペルニクス的変換ができるかどうかに掛かっているの
だ。
いずれにしても、現在の教育理念はすでに陳腐化し、小手先の改善で済
む段階ではない。では日本で本当に「教育改革」「教育再生」を願って
ゼロ・トレランス方式教育制度を導入しようという時に、もっとも大き
な抵抗勢力はどこだろうか。
こうした一種強権的なシステムに、まず反対を示すのは日本のマスコミ
ではないか。彼らにとって、事件こそ「メシの種」であって、それが脅
かされることは、国益よりも重要なことのようだ。彼らはいつもトータ
ル的な教育問題は避けて、「いじめ」による死とか、万引きだとか、特
定のタイムリーなテーマに限定して、狭い範囲での話題に終始知する傾
向がある。
加えて自らの非を認めようとしない文部官僚たちがいる。それが崩壊し
ていることを知りながら、彼らは後生大事にデユーイの教育論を擁護し
その実自分たちの子供は、ちゃっかり私立校に通わせるような不届き者
が多いのだ。「官僚というバカの壁」の打破が何よりの急務であろう。
極めつきは日教組である。ある面では労働者を表面に出して「聖職」と
いう側面をスポイルし、ある面では自分たちのイデオロギーを、無垢な
生徒たちに教え込んでマインドコントロールする。
校長や教頭をつるし上げて無力化し、国歌・国旗の尊厳、国への忠誠心
を失わせ続けている。労働組合であれば、徹底的に教師の立場に立って
その権利を表面に打ち出すべきで、いやしくも児童・生徒を人質にして、
自らの思想を移植するべきではない。
もう一つ大きな問題は、モラルを喪失した保護者・家庭という存在であ
る。かれは学校に対して、不条理な要求を押しつけ、自ら顧みて反省す
るという姿勢が見られない。無責任なくせに、学校には責任を押しつけ
る。また彼らの代表PTAも、学校に対する圧力団体として、学校にとって
有形無形な負担と精神的圧迫を加えている。
こうした強大な「抵抗勢力」に加えて、国会内での野党勢力、それに党
内反対派が研ぐすね引いて待ち受けている。こうした敵たちを相手にし
て、果たして安倍内閣の公約は、またこうした厳しい教育システムがす
んなりと実現するかどうかが問題である。
ご存じのように、最近では未成年による凶悪犯罪が続発するところから、
彼らにも厳罰をと言う声も大きくなってきた。では学校を卒業したら、
成年に達したら、同じ犯罪でも通常の罰を受けるのに、なぜ学校という
閉鎖された社会だけが、犯罪でなく許されるのか、こうした曖昧な姿勢
が、不良生徒に付け入る隙を与えることになる。
緊急避難的な気持ちでもいい、百の議論より一の実行。まず「ゼロ・ト
レランス特区」の設定などから始めることなども一案であろう。
この問題に関して、前述家庭のあり方があらためて問われているのだが、
家庭制度の崩壊だけでなく、最低限のモラル崩壊の問題も大きい。「う
ちの子に限って~」という家庭内無会話の放置型の保護者、給食代を義
務教育費に含まれるとして、支払い能力はありながら不払いの家庭が多
いと聞く、ここにも「ゼロ・トレランス方式」を適用するくらいの考え
で臨まなければなるまい。
こうなると、個々の学校、教育委員会だけに止まらず、警察や地方自治
体まで一丸となって取り組む姿勢がなければならないし、また 受け入
れる側の能力や意欲の欠如を、この方式の問題の是非に置き換える事だ
けは絶対に避けなければならない。
日本における「ゼロ・トレランス方式教育」の導入例
現在日本の一部の学校たとえば岡山市の私立岡山学芸館高等学校が2002
年度からゼロ・トレランス方式教育を導入した例がある。同校は、問題
行動をレベル1~5に分類。服装や言葉の乱れなどはレベル1~2で担任や
主任が指導する。喫煙はレベル3に相当、生徒指導部長が乗り出す。悪質
な暴力行為などのレベル4~5では教頭や校長が対応して必要なら親を呼
び出すようにしている。
他に鹿児島県牧園町の鹿児島県立牧園高等学校も生徒の多くが荒れてい
るのを理由に2002年1月に導入。広島県議会でも2004年9月に導入が論議
された。
全国レベルでは文部科学省が、2004年6月の長崎県佐世保市の「小6児童
殺害事件」、2005年の山口県光市の山口県立光高等学校での男子生徒に
よる「爆発物教室投げ込み事件」を受けて「児童生徒問題行動プロジェ
クトチーム」を始動。2006年春にまとめた新たな防止策に「ゼロ・トレ
ランス方式の調査研究」を盛り込み、教育現場への導入を検討している。
問題は、この度安倍内閣で、「教育バウチャー方式」などが検討課題と
して取り上げられているが、なぜこの「ゼロ・トレランス方式」が、な
ぜか表立ってお取り上げられないようだ。しかもネット上でもテレビで
も、どうも日本人・日本での教育には不適ではないかという論調が目立
っている。
問題は、こうした理論の背景にある「教育理論」の徹底的見直しという
必須の行為がなされぬまま、小手先の方法論として議論されているとこ
ろにある。
このゼロ・トレランス方式教育制度が採用し普及した場合、将来発生す
るはずの犯罪の芽を未然に摘み取る効果さえも期待出来るとすれば、
「鉄は熱いうちに叩け」という教訓が生きてくるだろう。
いずれにしろ、出来るだけ、一般でもこうした論議を徹底的に戦わせる
事が急務ではないだろうか。ぜひ諸賢のご意見をお寄せいただきたい。
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