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「現在の感覚を、過去にそのまま当てはめ、評価を下す史家は、常に歴史を過つ」
曖昧な言葉で妥協をした歴史記述は結果的に国の名誉貶める。
*
歴史は「理」をもって検証すべきであり、これを度外視して「情」をからめると歴史の真実を見誤ってしまう
沖縄戦を語る時に枕詞のように付いて来る「沖縄の心」。
これがやがては「県民感情への配慮」という「情」の土俵に歴史を引きずり込む。
終戦記念日に関する各紙の論調を現代史家秦郁彦氏は次のように評した。
≪これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。
たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。
激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。≫(【正論】2007.7.6 )
当日記はこれまで「集団自決」には軍の命令も、強制もなかったという立場を取ってきた。
ただ、戦争中の出来事であるから何らかの軍の関与があったと言われれば、敢て強くこれを否定する理由もないとしてきた。
だが、話し言葉で「関与があった」と言うのと、これが文字化されて教科書に記述されることとは、ことの重大さが自ずと違ってくる。
日本語の「関与」の意味は多義に渡っており、結果的には意味が曖昧になる。
教科書のお得意様である日教組の教師が教科書に記述された「関与」を説明する時、「関与あり」が教師の解釈で「命令」や「強制」に変化することは容易に想像できる。
その意味で、昨日の「正論」で藤岡信勝拓大教授が主張する「関与」のくだりには説得力がある。
≪そもそも「関与」という定義曖昧(あいまい)・伸縮自在の概念の導入は事態を紛糾・悪化させるだけである。「従軍慰安婦」問題で「軍の関与」がいかに国益を損なう混乱をもたらしたかを一考すればその危険は明らかだ。なぜ政治家は同じ轍(てつ)を踏むのか≫
「11万人」集会の発端ともなった沖縄県議会の「検定意見書撤回決議」に当初は反対していた自民党会派が、
政治的妥協の結果意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついた。
結局この自民党会派による「関与あり」への安易な妥協が「11万人」集会への出発点になってしまった。
「関与あり」を、言葉の定義が日本語より厳密な英語に置き換え、再び日本語に戻すと安易な妥協の恐ろしさが分かる。
関与する⇒ participate ((in)); take part ((in)); have a share ((in)).
participateには参加するという意味が強く、「日本軍が集団自決に関与した」が「日本軍が集団自決に参加した」となり、
「命令、強制」と近い意味になる。
以下に引用する藤岡信勝拓大教授が主張する≪「軍の関与」も認めてはならない≫を改めて考えて見たい。
やはり安易な「情」への妥協は歴史を過つ。
「知恵と工夫と努力」で政治的妥協を目論む町村官房長官や渡海文科大臣に是非読んで欲しい論文だ。
文科相「訂正申請に対応」 検定修正検討を指示
町村信孝官房長官も同日午後の定例会見で「(記述を)訂正できるのか、修正できるのかには、関係者の工夫と努力と知恵があり得るのかもしれない」と述べ・・・(琉球新報 10/2 9:35)
結論を述べよう。
例え、軍が絡む戦時中の事だとしても、教科書にわざわざ「軍の関与」と記述する理由にはならない。
高校教科書には「集団自決」の事実を記述すれば必要にして充分である。
これ以上立ち入って勉強したければ大学や更に大学院へ進んで専門的に研究すれば済むことである。
今までのように教科書を左翼思想のプロパガンダにしてはいけない。
◆
【正論】集団自決と検定 拓殖大学教授・藤岡信勝 “トリック報道”で世論誘導2007.10.24 04:06
■「軍の関与」も認めてはならない
≪一点の瑕疵もない検定≫
高校日本史の教科書検定で「沖縄集団自決」に日本軍の「命令」「強制」があったとの記述を修正させた問題で、政府・文科省は修正前の記述の趣旨の復活を認める方針に大転換した。検定意見の撤回はしないが、もとの記述を何らかの表現で回復しようとする教科書会社の訂正申請があればこれを「真摯(しんし)に検討」するというのである。今ごろは10月末の申請をめどに教科書執筆者と文科省の間で水面下のすりあわせが行われているはずである。重大な局面にあたり改めて問題の原点から考えたい。
従来、「軍命令説」の根拠とされてきたのは、座間味島と渡嘉敷島のケースだった。しかし、どちらのケースについても、当時島に駐留していた日本陸軍海上挺進(ていしん)隊の隊長は、住民に集団自決を命令していなかった。それどころか、集団自決のための武器・弾薬を求めに来た住民に対し、隊長は「決して自決するでない」と押しとどめ(座間味島)、集団自決が起こったことを知ったあとは「何という早まったことをしてくれたのか」と嘆き悲しんだ(渡嘉敷島)。
こうした事実が明らかになった近年の動向を反映して検定意見がつけられ、例えば「日本軍の配った手榴弾(しゅりゅうだん)で集団自決と殺し合いをさせ」という「命令」「強制」を含意する表現を改め、「日本軍の配った手榴弾で集団自決と殺し合いがおこった」(実教出版・日本史B)と修正された。文部科学省の今回の検定は、国会の定めた法律に基づく法秩序と手続きに従って、実証された史実を根拠に適切に行われたものであり、その内容を見ても少しも行き過ぎたところはなく、一点の瑕疵(かし)もない。これをひっくり返すいかなる道理も存在しない。
≪防衛隊と日本軍の混同≫
日本軍が無辜(むこ)の住民に自決を強要するほどの悪逆非道な存在であったことにしたい一部マスコミは、正面から「命令」「強制」を論証できないので、住民の証言を持ち出して世論誘導を図っている。その際、トリックの材料として用いられているのが防衛隊の存在である。
米軍来襲時、島には(1)陸軍の正規部隊たる将兵(2)防衛隊(3)一般住民-の3種類の人々がいた。防衛隊とは昭和19年7月に帝国在郷軍人会沖縄支部が市町村の集落単位で中隊を編成したもので、法令的な根拠はなく、住民の義勇隊という性格のものだ。中国戦線から帰還した、村長など村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化し、日常の生活は家族と起居をともにしていた。
手榴弾は防衛隊に米軍上陸の際の戦闘用に支給したものであり、自決用に一般住民に配布したのではない。集団自決を主導したのは防衛隊で、時には手榴弾を軍陣地から持ち出して住民に配布した。「兵隊さんから手榴弾を渡された」という住民の証言は、防衛隊を日本軍と混同しているのだが、マスコミはこの事実をよく知りながらイメージ操作のため確信犯的にこの混乱を利用しているのである。
≪「軍命令説」と同じ虚構≫
もう一つのトリックは、「軍の関与」という言葉である。これはマスコミの世論操作であると同時に、政府の「落としどころ」として喧伝(けんでん)された経過がある。すでに8月段階で伊吹文科相(当時)は、「『軍の関与』という表現であれば、次回の検定で問題とはならないだろう。出版会社にお願いしてはどうか」と沖縄選出の自民党議員に水を向けていた。
しかし、プレゼントに送った果物ナイフが殺人に使われたからといって送り主が殺人に「関与」したとはいえないという事例を分析すればわかるように、集団自決への「軍の関与」を認める必要はない。「軍の関与のもとに集団自決が起こった」という文を作ってみればわかるように、これは結局「軍命令説」や「軍の強制」と同じ虚構を教えることになる。
集団自決は悲しい出来事だが、当時の日本人の心理状態では米軍が上陸すれば日本中どこでも起こった可能性がある。現に沖縄で日本軍不在の地でも集団自決は起こっている。
そもそも「関与」という定義曖昧(あいまい)・伸縮自在の概念の導入は事態を紛糾・悪化させるだけである。「従軍慰安婦」問題で「軍の関与」がいかに国益を損なう混乱をもたらしたかを一考すればその危険は明らかだ。なぜ政治家は同じ轍(てつ)を踏むのか。
あの戦争で国と国民のために命をかけて戦った軍や軍人を虚偽に基づいてはずかしめるようなことをする国は滅びる。沖縄の県民感情を利用した反軍反国家反体制運動に屈して教科書検定制度を崩壊させてはならない。(ふじおか のぶかつ)
◆
教科書に「集団自決には軍の関与があった」と記述することは、政治的妥協の産物だ!
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例えば、日本語では「集団自決への軍の関与」と表現される所を、英語メディアでは通常「集団自決への軍による強制」と書かれますから、辞書通りの直訳はむしろ使われない表現であります。「関与」なら例えば「the role of the military authority in coercing people into mass suicide」(集団自決強制における軍当局の役割) とか表現する事もありますが、とにかく英語は長くなってしまうので、直接的なシンプルな表現になりますが、直接表現が日本語ほど強い意味を持たないケースが多いです。
だから、そういう英語メディアでの通常の表現を日本語に直訳すると強烈なニュアンスになってしまうので、そういう違いが「超訳」に利用されてしまうというのが常套手段ですね。
ご教示ありがとうございます。
中途半端な英語力で単語を辞書的に置き換えて説明しようとしたのが間違いでしたね。(笑)
言い訳はともかく曖昧な言葉で日本の誇りに関わることを記述しては困ると言うことです。
今後とも気がついたことがあればご教示下さい。