狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

援護金、一律196万円、「貶められた日本兵」連載の趣旨

2021-06-19 14:24:44 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

原稿;貶められた日本兵」連載の趣旨2013-11-13 

世界日報に「貶められた日本兵」の連載を寄稿することになった。

連載の趣旨

■世論形成で裁判の援護射撃

7月29日の「パンドラ訴訟」の高裁判決日を約2ヵ月後に控えた6月。支援団体から、裁判を側面から援護する目的の世論形成の話が持ち上がった。

 それまで裁判の経過を逐一報道してきた世界日報に「援護法のカラクリ」について連載記事を掲載してもらうというのだ。 世界日報那覇支局との打ち合わせの結果、20回連載の内諾を得、原稿は6月末日まで書き上げ提出した。ところが、同紙本社からクレームがついた。

 今時「援護法」などという地味なテーマで20回も紙面を割くわけにはいかないというのだ。

 「パンドラ訴訟」はすべての沖縄メディアに黙殺されているため、沖縄県民でさえこの裁判の存在はほとんど知られていない。

 そんな状況で地味な「援護法」の特集記事など掲載しても誰も読まない、という本社の意見も一応は理解できた。

だが、「援護法のカラクリ」の解明なくして、沖縄集団自決の解明はありえない。世界日報那覇支局の粘り強い本社説得が効を奏し、結局、20回のうち資料的価値のある8回分を抜粋、判決日の直前まで連載という妥協案を飲まざるを得なかった。

 まったく掲載されないより、たとえ8回でも、まだ援護射撃になると考えたからだ。

 「パンドラ訴訟」は当初、被告琉球新報を「集団自決論争」という土俵に引きづり出す作戦で出発した。

 だが、琉球新報側ははそれを忌避し、「2重掲載」など契約上の問題に矮小化する作戦に徹し、最後まで「集団自決論争」の土俵に上がることはなかった。 

集団自決の真相解明には「援護法のカラクリ」の解明が不可欠である。

 裁判では立ち入る機会のなかった「援護法のカラクリ」について検証し、側面から裁判を支援しようというのがこの連載記事の大きな目的なのだ。

そこで世界日報には掲載されなかった12回分を基に書き下ろしたのが本稿である。

 多少重複する部分もあるがその点ご容赦いただきたい。



■未公開資料を入手

「援護金のカラクリ」が、沖縄の集団自決論争に深く関わっているといわれて久しい。だが、肝心の「援護金」関連の公的資料はプライバシーに関わる案件ということで、これまで一般には公開されていなかった。

 「援護法のカラクリ」とは専ら、日本軍を誹謗中傷する左翼陣営の専売特許として用いられてきた。石原昌家沖縄国際大学名誉教授などのサヨク学者が沖縄戦の研究という大義名分を掲げこれら資料を独占してきたからだ。

 石原氏が頻繁に沖縄紙に発表する「援護法」関連の論文は、独占した資料を都合のいいように解釈(歪曲)し、「国が援護金の給付という飴を与えて、その代償として国による沖縄戦の捏造が行われた」という類のものだった。石原氏は「国による沖縄戦の捏造」とは、「沖縄の集団自決に軍命はなかった」と国が歴史歪曲した」など主張している。

ところが援護法に関する非公開資料の分析とこれまで口を閉ざしていた遺族会の方々の証言を検証すると、「援護法のカラクリ」とは、実際には存在しなかった軍命を援護金受給の方便ため「軍命があった」と虚偽の記入をした事実が判明した。 

つまり「援護法のカラクリ」とは、反日サヨクが日本軍を貶めるため、沖縄住民に示した政府の「善意」を逆手に取った卑劣な手口であった。

■沖縄経済を支えた援護金

米軍統治下の沖縄の経済に大きく貢献したのは「米軍用地代」と「援護法受給」だといわれている。

軍用地については、新聞などで絶えず取り上げられるので、その是非はともかく、軍用地代金が沖縄経済に貢献したことは誰もが認めることである。

 だがもう一つの援護法受給金については、プライバシーの要素などが絡み、マスコミの話題になることもなく、その実態は当事者だけの内密の問題とされていた。

 戦後、子どもを抱え親戚の厄介者扱いされていた未亡人が、突然莫大な援護法の支給を受け、親戚が群がってきたという話も仄聞するが、受給者の大多数は受給を内密にしており、表立って受給を語る人は少なく兄弟でさえ秘密にしている人もいるくらいだ。

渡嘉敷島の集団自決の生き残りで、親兄弟5人の家族を手にかけたことを「軍の命令」だと証言し、大江・岩波集団自決訴訟では被告側証人として証言台に立った金城重明氏は、星雅彦氏のインタビューに答えて自身が援護法を受給したことを否定している。

 金城重明氏は兄重栄氏と2人で5人の家族を含む、複数の村人を殺害したと証言している。

 援護法の受給手続きさえすれば、金城兄弟は「軍の命令により」親兄弟を殺害したのであるから、少なくとも親兄弟5人分の遺族として莫大な額の援護金を受給しているはずだが、金城重明氏はこれを否定しているのだ。

 重明氏は青山学院大で神学を学びその後沖縄キリスト教短大の設立にもかかわった。後には教授から学長まで務めているが、その当時の一連の学費はキリスト教教会の援助によるものであり、援護金の給付によるものではないという。
重明氏に取材した星雅彦氏によると、当時のキリスト教会は重明氏の大学進学の援助をするほど資金的余裕がなかったとのこと。

 ただ重明氏は、戦後座間味村に留まってペンション経営をした兄重栄氏(故人)の方に援護金が行っている可能性は否定しなかったという。

■沖縄経済を支えた軍用地料と援護金

石原昌家沖国大教授は、ジャーナリスト佐野真一氏の取材に答え戦後沖縄経済を支えた「軍用地料と援護金」について、次のように答えている。

ー「援護法」で最も重要なポイントは、その適用者が”戦闘参加者”として靖国に合祀されるという”栄誉”だけでなく、遺族年金という実質的な”利益”も得ていることです。沖縄戦で”英霊”になった人の遺族はいくらぐらいもらっているんですか。四万円ぐらいですか?

「いえいえ、これがすごいんです。年度によって違いますが、ここ何十年前からは、年間一律でおよそ196万円」

ー 一人頭ですか?

「ええ、だから慶良間(諸島)で家族のうち四人が集団自決した場合は、196万円かける四人で、800万円近くになります」

ーそれはバカになりません。

だから僕は、産業らしい産業がない沖縄で大きな収入になったのは軍用地料と遺族年金だと言ってきたんです」

ーつまり金でがんじがらめにされている。これじゃ靖国合祀を取り消せという声が大きくならないわけです。石原さんは旧厚生省の役人は物凄く頭がいいと思った理由が、やっとわかりました。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』39頁~40頁)


■大甘な厚生省の対応ーそのわけは?■

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘し、できるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも表面上はそう見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが沖縄戦に関わる「援護法」の給付金申請の場合、役所の対応は豹変する。

 それも申請者が沖縄県民に限ってだが、多少の記入ミスには目をつぶってでも何とか給付しようという態度に変わってしまうのだ。

つまり当時の厚生省は、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦と沖縄県民に限り拡大解釈し、軍に協力したという虚構を黙認し、何とかして給付させたいという善意が働いた。

 かくして書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見された。当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にしたのだ。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

厚生省の沖縄県民に対する奇怪な対応はこれだけではない。

申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場に暗示を与えたのもその一つだが、厚生省側は沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

沖縄県出身の祝嶺和子さんは、1958年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

祝嶺さんは戦後、元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、1954年、厚生省に入省したが、沖縄出身ということで「沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい」と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた。 祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 祝嶺さんは「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」 と証言する。

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
集団自決における「軍命」は援護金支給のための方便であり、それを指導した援護課の拡大解釈による強引な援護金支給は、政府主導の公金横領といわれても仕方がない。

 だが、結局一連の政府の指導は「集団自決に軍命はなかった」という証明に他ならない。

■厚生省を動かしたもの

ここで一つの大きな疑問が沸き起こる。

なぜ援護法の沖縄への適用が大甘になったのか

当時の厚生省を突き動かして、拡大解釈までさせて県民に援護法適用をさせたものは一体誰だったのか。

 これは厚生省独自の判断とは考えられず、だからといって当時の政府高官の判断だとも考えにくい。

「援護法」を「裏手引書」まで作成し、沖縄住民にだけ大甘な適用をした理由は、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ大田実少将の電文を知る世論の同情もあってのことと考えられる。

勿論「援護法」の成立・適用に関わった多くの官民関係者の努力を見落とすわけには行かない。厚生省の担当官・比嘉新英や琉球政府社会局長そして援護業務に携わった山川泰邦、そして座間味村役場の援護係・宮村幸延らが「お役所仕事」の枠を乗り越えて努力したことや、遺族会幹部の方々の努力も見逃すことは出来ない。

 同時に「沖縄病」に取り付かれた茅誠司東大総長ら当時の知識人たちの沖縄への同情心も彼らの行動を後押しした。

だが、これだけの理由で、当時の厚生省が独自に沖縄住民に対して大甘な対応をしたとは考えにくい。

■「潜在主権」と「天皇メッセージ」

大田海軍中将の電文や関係者の努力だけで法治に厳しい日本の官僚機構である厚生省が、違法とも取れる拡大解釈までして沖縄住民に援護法の適用をした理由は解明できない。

官民関係者や政治を超越した何か大きな力が当時の厚生省に、沖縄への善意を吹き込んだ、としか考えられない。

ここで忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった昭和天皇による「天皇メッセージ」の存在である。

もとより1979年にその存在が公表された「天皇メッセージ」を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。

 ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。

人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地の想い出が深く心に刻まれるもの。ましてや長いヨーロッパ旅行の船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲輪和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が船旅の最初に上陸した沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。

裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、艦長の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。

お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。それから46年後の67(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれた。

「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味) 

昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられ46年の時の経過を乗り越え青春時代の想い出を和歌に詠まれたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。

皇太子(裕仁親王)の沖縄訪問時、特筆すべきエピソードがある。最近の沖縄ブームで、沖縄ソバやゴーヤーチャンプルーなどが全国区になったが、それでも「エラブ海蛇」を食する人は極めて少ない。

 裕仁親王は沖縄県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、漢那艦長に食べてみたいと所望された。

 艦長は急遽、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。

ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について思いを馳せ、「臣吉田」と自称するほど昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相を通じ、何らかの影響を厚生省に及ぼしていた事実を明らかにしたいからだ。 

■吉田茂とアレン・ダレスの熾烈な戦いー肉を切らせて骨を断つ

米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。 

昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、

(1)沖縄住民の主権の確保、

(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、

(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)、

(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。

これは紛れもない歴史の事実だ。

昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相は、1951年の講和条約締結にあたり、米国務省顧問のアレン・ダレスと丁々発止の外交交渉をしたことが外交文書の公開で明らかになっている。

戦勝国の権威をバックに、自国の権益を要求するダレスに対し、まだ独立もままならぬ敗戦国の首相がどのような秘策で対応したのか。

吉田首相とダレスの交渉の前哨戦は、それに先立つマッカーサーと昭和天皇との「外交交渉」によって大方の下地は出来上がっていた。

 昭和天皇は、マッカーサーの6年間の在任中に11回も会談を持っている事実から、終戦直後のこの時期に「君臨すれども統治せず」という自身の信念を破って「天皇親政」による外交交渉を行っていたことがわかる。

 その期間に沖縄の将来を慮る「天皇メッセージ」が寺崎御用係を通じてワシントンに伝わった。

吉田首相は、昭和天皇の意を受け「潜在主権」という切り札を根拠に、骨を切らせて肉を断つ覚悟で、沖縄に関する上記の「本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)」「本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用)など」、を米国側に認めさせた。

そもそも「天皇メッセージ」とは、1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したもの。 

同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。

これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。

「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」

沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系にも「天皇メッセージ」とは昭和天皇が自身の延命のため「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。

 だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」の重要ポイントは昭和天皇が、沖縄に「潜在主権」を強く望んだこと。つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任すること希望したことだが、これを親子の場合で言えば、次のように例えることができる。

破産状態で子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

当時戦勝国のリーダーであり世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。

 その名残の一つがランチョンミート文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。

■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプの意味

米軍統治下の沖縄で1952年の講和発効の日を経験した者は、「潜在主権」という言葉を一度は耳にした経験があるだろう。だがその意味を身を以って体験した者は少ない。 沖縄出身の筆者がまだ10代の頃体験したエピソードを披露する。

少年(筆者)が進学のため米軍統治下の沖縄を後にし祖国日本の「出入国・通関」に足を踏み入れたときのことだ。携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。 

「進学のため?」

「はい、そうです」

審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、署名しながらこう言った。

「しっかり勉強しなさいよ」

「はい」

口下手の少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。後で、パスポートに押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。

 「そうだったのだ」。 「これが潜在主権の意味だったのだ」。

スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され審査官の署名がされていた。

「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。 まだ復帰していない祖国は「帰国を証明する」という形で少年を迎えてくれたのだ。

それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないという疑念さえ持っていた。ところが学校では「沖縄の潜在主権は日本にある」と聞かされていた。そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」の意味を身を以って実感したのであった。

 少年の父が常々「天皇陛下とは同じ歳だ」との自慢話を聞かされていた少年は、祖国日本が「潜在主権」の証として「帰国を証明する」というスタンプで迎えてくれたことを、昭和天皇と父の姿をダブらせ、懐かしい祖父の住む故郷へ里帰りしたような感慨に耽った。

だが、少年はその時、「潜在主権」という文言が、昭和天皇の沖縄に対する大御心から生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを知る由もなかった。半世紀以上前の日本の税関での記憶である。



大田少将の「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。」という沖縄県民に対する配慮は、昭和天皇の「天皇メッセージ」として当時の厚生省に直接伝わったのか。

68年前の昭和20年6月6日。
大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍壕から長文の電文を海軍省に送った。
そして、その最後を次のように結んだ。
<沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>
沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。


戦後、日本軍批判の発端となった「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。
「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない、無差別に住民を殺戮したのは米軍である。 これは紛れもない歴史の事実だ。
ところが何故か、戦後この言葉は1972年の沖縄の祖国復帰の前後から日本軍人を糾弾するキーワードと変化していく。

米軍は沖縄の永久領有を目論んで、沖縄住民を日本人から分断する占領方針を取った。 民意を得るため米軍は、沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。
艦砲射撃という「鉄の暴風」で、住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていないのだ。
一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に敗退した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。 米軍は「紙爆弾」といわれる大量の謀略ビラを投下し、日本軍は大量の食糧を隠匿しているなど事実無根のデマで沖縄住民の日本軍に対する信頼感に楔を打ち込んだ。
そしていつしか「鉄の暴風」を実行したのは米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だった、と言う印象に沖縄住民を駆り立てた。


だが戦後は、大田少将の「遺言」は、厚生省に引き継がれ、「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。
                     
■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、「援護法」の拡大解釈による沖縄住民への適用という形で戦後姿をあらわす。
日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。
そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 
54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。
慶良間島の「集団自決」に関しても,村役場の総務課が地元の窓口となり,総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。
「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。
講和発効で日本が独立を果たす1年前のことである。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。
「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、
それまでの「軍命」は、「援護法」のための方便というより、親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や罪の意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。
つまり戦後生き残った者が、死んだ家族や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。
少なくとも、昭和25年沖縄タイムスが『鉄の暴風』を発刊し、集団自決は軍命によるというデマを流布させるまでは、「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当係が、厚生省援護課と交渉していく過程で「軍命」は別の意味を持つようになる。

1965年頃までは、当時の沖縄教職員会も現在のように日教組のイデオロギーの洗礼は受けておらず、沖縄防衛のため散華された日本軍の将兵に対し崇敬の念は抱いてはいても、貶める気持ちなど微塵も有していなかった。

‘65年までの沖縄のこども達が書いた作文集が沖縄教職員会と日教組の共同で出版されている。 それには当時の子どもたちが、祖国日本を慕い、憧れている様子が活き活きと描かれており、沖縄戦に関しても、沖縄県民は日本軍に協力し祖国を守るために立派に戦ったというものばかりだ。

昨今の沖縄メディアに見られる「日本軍に対する怨みや憎しみ」が当時はほとんど見られなかったことがわかる。 当時の遺族の方々が申請書に「軍の命令による」と記入したのは、援護法を受給する為に日本軍を貶めたのではない。いやむしろ民間人も軍人・軍属に負けず立派に戦ったので、受給資格があるという意味で「虚偽申請」したことが真相といえる。それは大多数の遺族が靖国に祀られる事を誇りに感じている事実からも容易に判断できる。 

だが、ここで日本軍にとって不運な事態が発生する。 遺族が申請する援護業務は自治労に加盟している公務員が行なっていたことだ。 左翼思想に染まった自治労は職務上知りえた「日本軍の命令による」という援護金申請書の記述を日本軍憎悪のイデオロギーに利用することを思いつく。

1969年前後より、本土復帰が現実のもとして見えてきたために、復帰と共に配備される自衛隊を排除するための工作として歴史を改竄し、「残虐非道な日本軍」の神話を作る必要に駆られたのである。 現在「平和教育」の一環とされる戦跡巡りで平和ガイドと称する人たちは、「残虐非道な日本軍により沖縄県民は戦争に追いやられた」などと日本軍への憎悪を煽る説明をしている。

ところが‘77年までの沖縄の戦跡ガイドには、沖縄県民は軍民協力し立派に戦ったと説明されてる。
「日本軍の命令による」という言葉も、当初の「贖罪意識」から援護金申請書記入の「方便」のためと変化。そして、復帰前後になると反日サヨク勢力による自衛隊配備阻止のための「歴史改竄」と、形を変えていくのである。 昨今、沖縄の新聞を賑わす「残虐非道な日本軍」の記事は、沖縄の祖国復帰の後に登場した神話であった。

本連載の目的は、反日サヨク勢力によって「残虐非道な日本軍」などと改竄された沖縄戦の記録を是正することにある。 だが、これら歪曲・捏造された証言も一旦公的刊行物に掲載されると公式な「沖縄戦史」として一人歩きすることになる。

■ 捏造された公的刊行物

公刊行物である『那覇市史』の中の「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して記事には、父親と共に避難した壕で、侵入してきた米兵に父親を連れ出され射殺された知念勇の手記が掲載されている。 

「父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(『那覇市史 資料編弟3巻7』410頁)。 なお、採話者の嘉手川重喜氏は元琉球新報の記者である。 

後日、証言者の知念勇に会って確認したところ「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人は不思議がっていた。 知念勇は、証言はしたが掲載された「那覇市史」の確認を怠ったため歴史の改竄に気がつかなかった。

「座間味村史」など数々ある沖縄戦を捏造した公的刊行物の中でも、「日本兵」と「アメリカ兵」と敵対した兵隊の文言を、意識的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。
証言者の知念勇氏が「(残虐行為をしたのは)アメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず、取材者は、公的刊行物に「残虐非道の日本兵」として記録しているのだ。

おわりに

日本政府が、大田少将の「県民に特別の配慮を」とつたえた遺言を受け、沖縄住民に示した「善意」が、復帰前後沖縄に流入した反日サヨクに悪用され、「軍命」という援護法受給のための方便が「残虐非道な日本軍」の象徴と変化していった。

今回の「パンドラの箱訴訟」の完全勝訴と、それと平行して発表した「貶められた日本兵」という特集記事は、「援護法のカラクリ」を利用した反日サヨクにより、梅澤さんや故赤松さんが不当に着せられた濡れ衣をそそぐことに成功した。

これまで「援護法」関連の資料を独占し、日本軍を貶めてきた沖縄2紙などの反日サヨクは、7月の「貶められた日本兵」の発表以後ひと言の反論もない。 続く8月の「パンドラ訴訟」の敗訴確定にも黙して何も語ろうとしない。 彼らが梅澤さんや赤松さんを誹謗中傷してきたことが真っ赤な嘘であったことの何よりの証左である。

⇒最後にクリックお願いします


コメント (4)   この記事についてブログを書く
« 工作員か?沖タイ阿部記者が... | トップ | 新・貶められた旧日本兵-「... »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
【井上和彦が斬る!#30】「集団自決」と沖縄防衛の真実 (宝味)
2021-06-19 19:32:48
https://www.nicovideo.jp/watch/so28714275
「貶められた日本兵」 良く判りました、結果、その「見え隠れする甘えの構造」が今も糸を引いているわけですね。 (坂田)
2021-06-19 21:37:30
天皇メッセージも、戦後の天皇制度温存式進駐軍の日本間接統治制度も根底思想がまったく同じです。

アメリカ政府が連合国の意に背いて天皇制度を温存した理由は、既に共産主義陣営側と冷戦時代に突入した現実に対峙するために欠かせぬものでした。

第二次世界大戦は終わったことです、日米両政府が今後は手を携えて共産主義勢力の日本上陸を阻止することが必然になったのが戦後で在ること。

そこで日本とアメリカの政治共通点が、資本主義を否定する共産主義と戦う矜持に在ったのが幸いだ。

戦前から、世界の共産主義潰しの三銃士が、日本・アメリカ・ドイツでした。我々の資本主義を否定する共産主義と当然に戦わざるを得ません。

ポツダム宣言受託後の1945年8月、未だ日本国中に武器弾薬が溢れていました。武装解除が今からの段階で在り、反乱の芽を抱えたままでした。

その意味でも、天皇制度を温存しとけば国民宥めになることをマッカーサー元帥が判っていました。

結果、後の武装解除が進駐軍に因る「地域、日時」予定情報提供でラジオが周知することが出来た。

こんなスムーズ武装解除なんて事例を知りません。

進駐=占領 最後は武装解除の完了を現わします。

沖縄も同じく武装解除状態でしたから、共産主義勢力の沖縄上陸を阻止する対策が在りません。

それゆえに、アメリカの沖縄統治が必要でした。

アメリカ軍が沖縄を共産主義勢力から守ればこれ以上の策など無い、だから天皇メッセージでした。なんのかんのと言っても、今も実質、天皇陛下が我が国の国家元首です。

米国統治のことを沖縄が今度は「アメリカの世」になったとする向きが在りますが、違います。

結果が、本土復帰しているじゃ在りませんか。

沖縄タイムスがどうのこうの言おうと、結果はアメリカに因る沖縄の統治信託となんら違いがありません。信託だからこそ、後で現物返しが在ったこと。

この件については、天皇メッセージが正しいこと。そうでなかったら、ベトナム化していた危険在り。
Unknown (amai yookan)
2021-06-20 00:05:19
>7月の「貶められた日本兵」の発表以後ひと言の反論もない。 続く8月の「パンドラ訴訟」の敗訴確定にも黙して何も語ろうとしない。 彼らが梅澤さんや赤松さんを誹謗中傷してきたことが真っ赤な嘘であったことの何よりの証左である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「パンドラ訴訟」勝訴の裏にはいろいろのご苦労があったのですね・ご苦労様でした。

「貶められた日本兵」・「パンドラ訴訟」は公に広く知らせる必要あり

・「FACT・沖縄」チャンネルを創って広く沖縄県民・日本国民に知らせるべき事でしょう

あの辺野古での「防衛局員を襲ったFACTの映像」で山城博治一派は、完全にKOぐうの音も出ませんでしたね・おまけに博治さんは、これで有罪になった?
沖縄戦76年 荊の伝承 (宝味)
2021-06-20 06:42:55
「ぼくは沖縄の反戦運動にとって、最も都合の悪い人間だから…」。そう語る作家が沖縄にいる。
https://www.sankei.com/article/20210620-CPMVFUUFX5LEJEPYJ67OSZW6HY/

コメントを投稿