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沖縄は地元出版の盛んな地域である。
沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。
県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。
万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)
「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆
【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛)
◇
■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )
この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。
沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。
職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。
個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。
そしてその背後に新聞の扇動がある。
そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。
軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。
■昭和19年12月の「県民大会」■
昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。
その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。
大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。
けふ大詔奉戴日 軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂 布かう滅敵待機の陣
終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。
昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。
ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。
そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。
米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て
お題目で獣性偽装 野望達成で手段選ばぬ
泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。
<挺身活動へ 翼壮団長会議
県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)
当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。
例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。
では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。
■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■
ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。
連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」
という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。
戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。
日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。
ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。
第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、
何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。
そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。
■県民疎開は大本営の発想■
昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。
同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。
既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。
沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。
大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、
これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)
緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。
今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。
当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、
沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、
県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、
県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。
現在のような平和な時代の後知恵で、
「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、
実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。
警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である。
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http://www.news.janjan.jp/column/0807/0807280127/1.php
沖縄新報見てきました。
狼魔人さんはお書きになりました
>大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。
けふ大詔奉戴日 軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂 布かう滅敵待機の陣
確かにそのような見出しが踊っておりました。
しかし、上の見出しは長文掲載の『現地軍参謀長談』に対して付けられた見出しでした。
沖縄新報が煽っていたので軍は煽っていなかった、ということが狼魔人さんのご主旨かもしれませんが、少なくとも大詔奉戴日を特集し、上記見出しを掲載した第2面における紙面構成の主役は、『現地軍参謀長談』※であることは間違い有りません。
※長勇32軍参謀長談(報道においては部隊名を秘匿するのが当時の原則)
なお、各団体の記念行事はそれぞれが行なったことで、一堂に集まっての「県民大会」では無いようです。
紙面画像
http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/senji/1944120802.pdf
>泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。
とおっしゃり、紙面主役である『現地軍参謀長』の激を無視して、次のような引用をなさいました。
~~~~~~~
<挺身活動へ 翼壮団長会議
県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)
~~~~~~~
しかし、
紙面画像
http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/senji/1944120802.pdf
を読むと、
この記事の全文は次のようなものでした。
(■はコピー精度不良による解読不能。)
~~~~~~~
<挺身活動へ 翼壮団長会議
県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになりそのほかヒマの増産には特に全力をそそぐ、造■部面に対しては関係技術員及び国■■■■員等を委嘱、指導班を結成しまづ■面の問題として次■後の甘藷そ■の■■■■を指導強化する>(沖縄新報 昭和20年12月8日)
~~~~~~~
ヒマ:石油由来の代用となる潤滑油「ひまし油」を採取する胡麻科の植物、糖胡麻。
檄を飛ばしているのは、作物増産に対して、でした。
軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂 布かう滅敵待機の陣
これは飽くまでも、『現地軍参謀長』の激でした。
参謀長談とする問題の部分を読んで見ると
軍に斯かる○○の○あり、同時に一般国民もすべて無人であっていよいよ敵必殺、十人十殺の闘魂を跡上させてこの○四年目を勝ち抜いて貰いたい。
と読めます。
住民も避難させ、軍も戦う体制が整ったので、皆さんも頑張ってもらいたい。
と理解すれば何ら問題ないと思います。
軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂 布かう滅敵待機の陣
はあくまで沖縄新報(琉球新報)の見出しですね。
大詔奉戴日は行政、町内会、警防団主体の行事です。戦争遂行のための行事ですから、軍の首脳が招待され、訓示を述べたとしても何ら不思議ではありません。
それと、当時の記事が他にないか探してみたところありました。その中には軍が住民に何かを強制したなどの記述はありません。
むしろ、マスコミ、行政、住民一体となって戦争勝利に向け、軍に協力する姿勢が見て取れます。
http://www.okinawatimes.co.jp/sengo60/senji/index.htm
当時の時代を考えた時、戦争を遂行したのは軍ですが、それを後押ししたのは、マスコミ、行政、国民であり、それぞれの戦争責任があります。
それを、現在の平和ボケした感覚で、あれもこれも軍が悪い。は間違いだと思います。
今マスコミは、その全ての責任を軍部に押し付けていますが、自己の責任もあることを忘れて欲しくないと思います。
古いエントリに、同じような主旨のコメントを立て続けに頂きましたが、今となってはどうでも良い内容なので、レスの仕様もありませんでした。 涼太さんが代りにレスされているので、それに応える意味でも私見を述べておきます。
いずれにせよ、古いエントリーを熟読くださるのはブロガー冥利に尽きますので、お礼を言っておきます。
幹を見ずに枝葉を見るならともかく、葉っぱに付いた小さなゴミのようなものについて、しつこくコメントしていますが、
民間人の翼壮団長会議については、わざわざ青文字で記しているのに、どうしても参謀長の談話として取り上げて欲しいようですね。
新聞の見出しは、それを発したのが軍人であれ、民間人であれ、それ自体が命令とは言い切れません。
当時の民間団体である新聞が、派手な見出しで国民を扇動したことは事実であり、その頃の新聞の勇壮な新聞見出しで当時の雰囲気を紹介したのがお気に召さないようですが、そんな末梢的ことは今となっては、どうでもよいことです。
何度もくり返すので辟易しますが、隊長命令は事実上否定されています。 それに代るすり替え論で「軍官民共生共死」といった「広義の軍命」は、第32軍の「南西諸島警備要領」で否定されました。
第32軍の大方針を表す「南西諸島警備要領」の英訳書類が米国公文書館から発見され、「非戦闘員は玉砕させずに安全地帯に待機させる大方針」が明らかになり、
「軍人が自決命令をだした」というウソは確定しています。
↓
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/0cdb7d253f2bf1673587b0af421a2446
軍命を主張するなら、証拠を出してください。
「お笑い軍命論」は勘弁してくださいよ。http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/1aa30c2d1674906e814ca5d6926b40f6
涼太さん
このお方はひょっとしたら、当日記の一番熱心な愛読者かもしれませんね。(笑)
同じようなことを繰り返しコメントしているようですが、内容はともかく「コメントしたこと」だけで一太刀浴びせたつもりらしいです。
いずれにせよ、お相手して頂いてありがとうございます。
>今マスコミは、その全ての責任を軍部に押し付けていますが、自己の責任もあることを今マスコミは、その全ての責任を軍部に押し付けていますが、自己の責任もあることを忘れて欲しくないと思います。
仰る通りで、本文で引用の当時の新聞見出しはその当時の民間人や新聞の雰囲気を伝えるために引用したのですが、上のお方ははどうしても「軍の命令」で民間も新聞もしぶしぶ軍に従ったとしたいようですね。(笑)
こんにちは
賢明の手前味噌、ご苦労様です。しかし
>軍に斯かる○○の○あり、同時に一般国民もすべて無人であっていよいよ敵必殺、十人十殺の闘魂を跡上させてこの○四年目を勝ち抜いて貰いたい
そうは読めませんよ(笑)。涼太さんにお尋ねします。
「一般国民もすべて無人であっていよいよ敵必殺、」とは、とてもとても意味不明で長勇閣下が書く日本語とは思われませんぬ。「無人であっていよいよ敵必殺」とは、どういう意味ですか?
>軍に斯かる■■の陣あり、同時に一般国民もすべて軍(または隼)人であっていよいよ敵必殺、十人十殺の闘魂を沸上させてこの第四年目を勝ち抜いて貰いたい。
と読めます。
狼魔人さん
わざわざ青文字?
>民間人の翼壮団長会議については、わざわざ青文字で記しているのに、どうしても参謀長の談話として取り上げて欲しいようですね。
翼壮団長会議を参謀長の談話にしたいなどとは思っていませんよ。
翼壮団長会議の結論は、生産増大ということです。狼魔人さんはそれをすっぽかしましたので、指摘しました。
>新聞の見出しは、それを発したのが軍人であれ、民間人であれ、それ自体が命令とは言い切れません。
私はあなたが沖縄新報12月8日第2面を紹介するにあたって、<現地軍参謀長談>を意図的に隠蔽しようとしたのではないかと、あえて指摘申しあげました。
自らジャーナリストを称える貴方様が、その一語を読み飛ばすような粗忽者だとは、到底考えられなかったものですから。それなりに、情報戦主務将校としての任務として、それ(歪曲をもって民意を然るべく導く)をなさったこととして、狼魔人(江崎孝)様には敬意をはらうべきです。
ではでは
「■■の陣」が解読できたらお報せいたしませう。
涼太さんの間違えに引きずられて仕舞いました。
以下のように慎んで訂正致します。
~~~~~~
>軍に斯かる■■の陣あり、同時に一般国民もすべて軍(または隼)人であっていよいよ敵必殺、一人十殺の闘魂を沸上させてこの第四年目を勝ち抜いて貰いたい。
と読めます。
~~~~~~
「十人十殺」では32軍戦争指導要項違反ですし、敗北前提ですものねwww。
ご解説ありがとうございます。
なるほど、私の読み違いかも知れません。
で、あなたが言うように、沖縄県に置いては日本軍は住民にも軍と一緒に戦えと要求しているのでしょうか。当時は戦争中です。多少激しい檄も飛ばすでしょう。普通に考えれば県民の心構えみたいなものを、説いたものでしょう。
軍も頑張るから、県民の皆さんのご協力お願いします。ぐらいの解釈でいいんじゃないですか。
では、全文の解読楽しみにお待ちします。
集団自決に命令が有ったか無かったかが争点な訳で
枝葉に関しては議論してもあまり意味が無いでしょ。