木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

雑感 ~運について

2007年07月23日 | 日常雑感
最近、運とは思考の一種ではないだろうか、とよく思うようになった。
世の中には幸福も不幸もない。
考え方でどうにでもなるものだ

という名言を残したのはシェイクスピアであるが、この言葉の持つ意味は深い。
最初は単に今は不遇な環境にあっても、考え方を変えれば、不遇な環境でも楽しめる、というものだと思っていた。
でも、この頃では、運は考え方によって変えられるということを示唆しているのだ、と思うようになった。
楽観主義や悲観主義は、各個人の性格的な部分よりも、考え方に起因するところが大きい。
では、不機嫌な状態というのは、どうであろうか?
不機嫌な状態は、あくまでも状態であって、やむを得ない感情の浮き沈みによってもたらされるものなのであろうか?
笑いや悲しみと違って、不機嫌な感情に左右されている人は、その表情によって何かを訴えようとしている場合が多い。
即ち、不機嫌な状態は感情ではなく、意図的に選択された行動なのである。
ツキは、不機嫌な人にはやって来ない。
ツキに見放された人は、なおさら不機嫌な顔をするようになる。
まるで、そうでもしていれば、運気が上向いてくるかのような錯覚に陥りながら。
少なくとも、今より悪くはならないだろうと思いながら。
けれども、運は悪い人の運を更に低下させ、いい人の運を更に上向きにさせる。
不公平といえば不公平だが、運だって考え方のいい人につきたいのだ。
ただ楽観的であればいいのであれば、苦労しない、という人もいるだろう。
ラインホールド・ニーバーというアメリカの牧師の名言を引く。
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ

これは、ニーバーの祈りと呼ばれるもので、ニーバーにも師事したことのある大木英夫氏の訳である。
世の中には変えられない運というものも確かに存在する。
一方で、フレックスな運というものもある。
変えられない運を嘆くよりも、変えられる運気を上昇させるように、考え方を変えたいと思うこの頃である。