木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

鬼、河童に濁流の水飲まされるー20

2007年05月07日 | 一九じいさんのつぶやき
 「兄貴、分かったって、いってぃ、何がどうしたんだ」
 そう言った岩徳も川から目を離さずにいた。
 「いや。当たってほしくねえ勘だがな。今日に限ってえらく流れが急だ」
 「昨日の雨のせいだろう。河童も溺れるものらしい」
 同心の佐々木がそう言う間にも河童は流されていく。
 「船頭さん、もっと急いで漕いで下さいまし」
 舟上の番頭は心配そうに前方の河童を注視していくが、その差は開いていく一方だ。
 その時。
 流れのはるか後ろから、ものすごい速さで泳いできたものがある。
 濁った川の色のせいで陸からはよく見えない。
 その生き物が舟を追い抜いて行ったとき、それまで懸命に櫓を漕いでいた船頭の松次郎は、
 「ひえぃ」
 と、奇声をあげて、その場にへたり込んでしまった。
 「うぬ、仲間がおったか。ええい、構わぬ、あれも撃て」
 長谷川平蔵は出番とばかりに声を張り上げた。
 「速すぎて狙いがつけられません」
 銃を持った同心がそう言うと、
 「ええい、役に立たぬ奴じゃ」
 平蔵は、自ら銃を奪い取るように手にすると、舟の上から狙いをつけた。
 しかし、つぎの瞬間、平蔵は春の川の水をしこたま飲まされる羽目になる。
 銃の狙いをつけた平蔵めがけ、鯉が飛んできたからである。
 未確認の生き物が水中から投げつけてきたようである。
 まともに鯉を額のあたりに受けた平蔵がついた尻餅のせいで、舟は大きく揺れ、平蔵はそのまま川に放り出された。
 「長官(おかしら)」
 同心が舟に座りこんだまま、悲痛な叫びを上げた。
「ありゃ、河童だ」
 見物人はそれを見て呟くように言った。
 そのつぶやきが段々、大きな声と変わっていく。
 「あれこそ、正真正銘、本物の河童だ」
 誰かのその声にどっという歓声が起こった。
 歌舞伎役者瀬川菊之丞もこの時ばかりは、色白い頬を上気させ、興奮していた。
 その河童とおぼしき生き物は、前を溺れるように流れていくもう一匹の河童に追いつくと、その河童を安全な岸まで押し上げた。見物人からは遠すぎてよく見えなかったが、押し上げた手だけははっきり見えた。
 「ありゃ、確かに河童にちげぇねえ」
 目のいい岩徳は、放心したようにぼそっと呟いた。