読書日記

いろいろな本のレビュー

デヴィ・スカルノ回想記  ラトナサリデヴィ・スカルノ  草思社

2010-10-24 13:56:18 | Weblog
 書いた人はもちろんデヴィ夫人。彼女はれっきとした日本人で、昭和15年(1940年)東京港区に生まれた。本名、根本七保子。その日本人離れした容貌から東南アジアの出身と思われがちだがそうではない。表紙の写真は彼女の美貌を捉えて余すところがない。これで本の売り上げも大いに上がったことだろう。東京港区と言えば近頃は富裕層の住む街として有名だが、彼女が育ったころは富裕層と貧困層が混在していた。彼女は残念ながら貧困層。しかも後妻の子どもで、先妻の子供と母の軋轢を日々目にしながら過ごした。父親は大工だが、稼ぎが悪かった。それで中学での成績は良かったが、家計を助けるために中卒で就職して千代田生命に入社し、同時に都立三田高校の定時制に入学したがすぐに中退した。経済的に余裕のある家庭に育ったのであれば、三田高校の全日制に入って大学進学も考えたであろうが、その選択肢はなかった。
 高校退学後、女優を目指し俳優養成のプロダクションに入り、その関係で人脈を作り、赤坂のコパカバーナというキャバレーで働くようになる。そして運命のスカルノ大統領との出会い。スカルノは日本女性にご執心で、何とか妾として囲いたいという思いがあったようだ。二人を引き合わせたのは、デヴィ夫人によると「東日貿易」という小さな商社の社長、久保正雄であった。彼は日本政府の戦争賠償金の事業でインドネシアとかかわりを持ち、スカルノに信頼されていた。賠償金がらみで日本の商社が暗躍する時代であったわけで、自民党全盛時代の利権がらみの諸相が彷彿とされる。児玉誉士夫、瀬島龍三の名も出てくることからもそれがわかる。昔は三井物産がデヴィを紹介したと言われたが、東日貿易の久保社長が三井に頼まれたのかも知れない。
 スカルノ大統領はデヴィ夫人を気に入り、彼女はインドネシアに渡りスカルノの寵愛を受けることになる。しかし正夫人ではないので、いろいろと肩身の狭い思いをして苦労することになる。しかし持ち前のバイタリティーで困難を克服して、未来を切り開いて行く姿はある意味感動的だ。スカルノ失脚、そして死別。これを乗り越えて今も元気に活動している。本人の書いた伝記ゆえ潤色された部分も多いと思うが、それを割り引いても見事な人生と言える。出ているオーラが違う。ある時テレビで、皇室に入った雅子様のことを努力が足りない云々とコメントしていたが、自分がインドネシアで味わった苦労を思えば日本の皇室に入り苦労するなど取るに足りないという思いがあったのだろう。こういう発言も彼女が発した場合はそれほど嫌味ではないところも人徳のなせる技か。掲載された多くの写真もデヴィ夫人の美しさと彼女を取り巻く時代を物語っており、貴重だ。

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