読書日記

いろいろな本のレビュー

宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ

2010-05-08 10:19:48 | Weblog
 神田氏は一向一揆の研究で夙に有名だが、本書では戦国時代の宗教のありようをキリスト教との比較で述べているところが興味深い。戦国時代にキリスト教はポルトガルのイエズス会宣教師によって布教されたが、その当時の日本人の宗教感覚は神・仏を「天道」として理解していた。「天道」はいわば絶対者の概念だ。ならばキリストはこれとどう違うのか、宣教師の説くことはわれわれが今まで聞いてきた仏教の教説と同じはないかという感想を仏教関係者が述べたということが紹介されている。外面は世俗道徳に従い、信仰は内面の問題という形の信仰が一般的だったのだ。そうであれば、世俗の権力者と対立するような信仰は原則的にあり得ないし、宗派同士の教義の違いも一般的には武力闘争に発展しにくいと思われる。しかし門徒が世俗の権力者に反抗した一向一揆が起こっているのはどう考えてたらいいのかというのが、本書の眼目である。
 元来一向一揆は信仰の危機に対する戦いと見られてきたが、著者はそうではなく教団の政治的立場の選択の結果の蜂起であり、宗教戦争の側面は薄いと結論している。加賀の本願門徒が守護大名の富樫政親を攻め滅ぼした有名な事件も詳細に調べれば、政治闘争に本願寺が関わった結果で、純粋な信仰を守るための戦いではないことを述べている。また織田信長が門徒を弾圧したと言われるが、この強大な宗教集団を殲滅させる意思はもとよりなく、共存を図っていたことも述べられている。長島の門徒皆殺しは信長の門徒に対する憎悪がいかんなく発揮されたものと見る見方があるが、あれは結果であり本願寺を否定したものではない。この論議は神田氏の従来の見解と変わるものではない。
 私が興味を持ったのは、この頃キリスト教に帰依した大名が現れたが、彼らの領国支配がキリスト教以外の宗教に対して非常に厳しかったことである。逆に言えば、キリスト教の排他性と攻撃性が浮き彫りになった。織田信長はキリスト教に寛容だったと言われるが、その頃はキリスト教はまだ影響力を持たない時代で、問題はなかった。豊臣秀吉のころはその弊害が顕著になって、彼はキリスト教禁止令を出したのだ。ともするとキリスト教を弾圧する悪の為政者という構図で語られがちだが、そうではなかったのだ。キリスト教の純粋性・暴力性を見抜いていたのである。これはヨーロッパの宗教戦争を見ればよくわかる。
 この流れでいけばあの有名な「島原の乱」も今までの認識を転換する必要がある。著者は島原農民のキリスト教信者の他宗に対する排他性と暴力性を抜きにして、島原藩のキリシタン農民に対する弾圧と搾取という面だけで語ってはいけないということを資料を駆使して述べる。目からうろこというか歴史の多面性・重層性を思い知らせた気がする。
 以前、民主党幹事長の小沢一郎氏が、キリスト教は排他的で寛容性がないと言って批判されたが、正しいことを言っているのかも知れない。宗教問題にコメントすると厄介なので、みんなだんまりを決めているのだろう。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。