読書日記

いろいろな本のレビュー

街場の読書論 内田 樹 太田出版

2012-06-02 09:57:57 | Weblog
 今、旬の文人・内田樹氏の読書論。氏の博覧強記ぶりには圧倒されるが、どうしたらこんなにたくさん本が読めるのだろう。秘訣を知りたいものだ。中で最も興味深かったのは福沢諭吉の『瘦我慢の説』を論じた項。小見出しは「公共性と瘦我慢について」で、冒頭、高橋源一郎氏の「午前0時の小説ラジオ」から全文引用する。中身は「尖閣」問題等で「愛国」「売国」というよう言葉が飛び交うと「公と私」はどう考えたらいいのか考えてしまう。この問題のヒントはカントの『啓蒙とは何か』の中の「理性の公的な利用と私的な利用」の部分にあり、カントは、「理性の公的な利用とは、ある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、自らの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである」と言っている。要するにカントによれば、「役人や政治家が語っている公的な事柄」は「私的」であり、学者が「私的」に書いている論文こそ「公的」だというのである。なんだか逆のような気がするが、高橋氏はこれについて思索する。その結果、「公的」であるとは、「枠組み」などなく考えることだ。そして、一つだけ「公的」である「枠組み」が存在してしている。それは「人間」であることだ。国家や政治や戦争について考えるから「公的」なのではない、実はその逆だ。それが典型的に現れるのが領土問題である。僕たちは、思考の「枠組み」から自由ではないだろうし、いつも「人間」という原理に立ち戻れるわけでもないだろう。知らず知らずのうちに、何らかの「私的」な「枠組み」で考えている自分に気付くはずなのだ。「公」に至る道は決して広くはないのである。
 内田氏は高橋氏の分析を称賛した上で、日本にも同様のことを述べた人がいると言う。それが福沢諭吉だ。『瘦我慢の説』の冒頭「立国は私なり、公に非ざるなり。なんぞ必ずしも区区たる人為の国を分かちて人為の境界を定むることを須いんや。いわんやその国を分かちて隣国と境界を争うにおいてをや」とあるが、これは国家というのは、本質的に「私的なもの」であり、国境線を適当に引いて、「こっちからこっちはうちの領土だ、入ってくるな」とか言うのは所詮「私事」だと言っているのであると述べる。以下、氏の解説を引用する。立国は私情である。瘦我慢はさらに私情である。けれども、これ抜きでは頽勢にある国家は支えきれない。「私事」を「公共」に変成するのは、私情としての「瘦我慢」なのだ。福沢はそう言う。なるほどと腕組みした方もいるだろう。ところが話はこれで終わらない。この文のあて先は一般国民ではない。勝海舟と榎本武揚という二人の幕臣だからだ。これは「私信」なのである。この二人の傑物が。幕臣でありながら、旧恩を忘れて新政府に出仕し顕官貴紳に列せられたことを難じて福沢はこの一文を草したのである。勝や榎本のようなのような人間は「シニカルな正論」を吐いてはならない。「無茶な瘦我慢」をして見せて、百年国民の範となる義務がある云々。
 見事と言うほかはない。カントと福沢では文脈は違うが、人間の思想としては普遍的だ。しからば「公務員は全体の奉仕者」の意味をもう一度考え直す必要がある。公務員は市民の奴隷ではない。「枠組み」から自由に思索して、国のありようのあるべき姿を求めて労働することではないか。今の公務員叩きはナンセンスである。