人生悠遊

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鎌倉を知る ーー栄西についてーー

2016-04-27 14:47:49 | 日記

鎌倉の壽福寺を開山した栄西についてもう少し詳しく見てみましょう。栄西の著書である『興禅護国論』(監修 西村信 編著 安永祖堂 四季社)の序に、「師(栄西)は本邦仏心宗の初祖なり。因みに千光祖師と号す。備中州の人。」 とあります。仁平三(1153)年、13歳の時に比叡山に入山し、23歳で叡山を下りました。そのころから栄西の入宋の思いは強く、「久しく入宋の志を懐く。然るに本邦二百年来、喩海(渡海)の沙門なし。たまたま説いて此の言に及べば人嘲らる。而も意屈せず。」 宋への思いは非常に強かったようです。実際、栄西28歳の時、仁安三(1168)年に商船に乗って渡宋を果たしましたが、わずか6か月で日本に戻ってきています。その時はまだ禅宗を日本にもたらすという考えはなかったようで、「彼地の禅宗の盛んなるを聞いて、希有の思いを発す。」 と書かれています。

一度目の渡宋から18年経ったのちは、「爾後十八年を歴たり、称して顕密二門の盟主となす。」 「特に道は後鳥羽帝に契う」 「因って特に葉上の号を賜う」 と顕密二門の奥義は極めていたようです。その後宋に渡るチャンスが到来し、文治三(1187)年に二度目の入宋を果たしました。栄西はインド行きを強く希望していたようですが、「上表して印度に達せんことを請うに許さず。胡に三道有り、其地時に皆蒙古に属して通ずることを得ざるが為の故なり。因って天台万年に止る。在宋五年、三たび蔵経を閲る。」  栄西の帰国は建久二(1191)年です。帰国後数年間九州にいて建仁二(1202)年に「鴨川第五橋の畔に一禅刹を創す。建仁の号を賜う。一に仏信宗を唱う。」 建仁寺開山の行です。

『興禅護国論』には、栄西と鎌倉幕府との関係を示すような記述は一切ありません。一方『吾妻鏡』に初めて栄西の名前が出てくるのは、正治元(1199)年九月大二十六日の箇所「御所で不動尊一体を供養された。導師は葉上房律師栄西である。」 ただ『吾妻鏡』は1196年1月から1199年1月までの間が抜けており、栄西は1199年以前に鎌倉に来ており、鎌倉幕府とのつながりもあったと推測されます。ともかく当時の日本人のなかで栄西は最も宋や宋を取り巻く国際情勢に詳しい知識人であったことは間違いないでしょう。

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