8月25日のブログを、「幸せの在りか」という題で書いた。S君の幸福感に驚き、新鮮なものを感じたからだ。
殺伐とした世相の中で、世の中のことをとり上げるとどうしても“ささくれ立った”記事ばかりになる。政治経済に係わることなど、半分は怒り狂って書いている。そんな自分がいやになるくらいだ。
その中で、“近来にないいい記事”だと自分では思い、コメントのいくつかでも来るかなあ、などと思っていた。しかし何の反応も無かったが、突如として一昨日、時期はずれのようなコメントが届いた。
しかもそれはTN氏からで、彼は恐らくこのようなテーマを最も苦手とする人物だと思われるので、コメント内容も私を驚かせた。
つまり彼は、「今の自分は幸せか」というような問題は主観的な問題で、そのようなことは「一人ひとりが死ぬ間際に結論を出す問題だ」というわけだ。唯物論者の面目躍如たる主張で、自分が幸せであったかどうかは、死ぬ時に過去をつぶさに振り返って、事実に基づいて判断せよ、と言っているようだ。
それはそれで面白く、私を十分に驚かせたが、一方で、私がテーマとした「S君の“愛の現実”」とは、ちょっと距離がありすぎる。(なお、TN氏の名誉のために言っておくが、彼は、同じ愛でも身近な恋とかラブとかアモーレなどについては苦手とするが、人間愛とか絶対愛などについては高邁な理論の持ち主なので念のため)
コメントはくれなかったが感想を話してくれたTさんは、「ブログ読みながら笑っちゃいました。今でもこんな純粋な人がいるんだなあ、と思いました」と話した後、ポツリと呟いた。
「・・・間違いなく言えることは、幸せは、愛されることの中にあるのではなく、愛することの中にあるのでしょうね。受身ではなく能動の中に・・・、求められるのではなく求める中にあるのでしょうね。」
彼女が何を思いながらこの呟きをつぶやいたのか私は知らない。しかし、「僕は今のこの幸せを守るために一生懸命働いている」というS君の日々が、間違いなく受動の中ではなく、積極的な能動の中にあることだけは確かであろう。