堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』について3回に及んで書いたところ、いつもコメントをくれるTNさんと工藤さんから、するどいコメントをいただいた。いずれも「理想としての憲法9条はわかるが、現実問題として軍備なしでいけるのか?」というものである。
私もこの問題は問い続けている問題で、すべてに説得力を持つ答えを持っていない。それにつけても、現平和憲法を採択した戦後の憲法制定議会での、時の南原繁東大総長の発言が今も残る。氏は現憲法を可決しようとする日本国民を前に、次のような意味の発言をしたと伝えられている。
「軍備の放棄、戦争の放棄、・・・この憲法は崇高な理想を掲げるものであるが、国民はこれを永久に守り続けることができるだろうか? 日本国民は将来大変に困る事態に直面するのではないか?」
事実、60年を経て日本は国論を二分して国の将来を決めかね、「大変に困っている」のである。南原繁氏は半世紀後を見抜いていたのだ。というより、民族、国家が割拠する国民国家時代に軍備も持たず丸腰で生きるという思想は、南原政治哲学の中にも無かったのであろう。
そこに、「正に稀有の賜物としての憲法9条が産み落とされ、それが半世紀の長きわたって守られてきた以上、それは今や世界遺産として維持されるべきもの」(爆笑問題太田光『憲法9条を世界遺産に』より要約)となった。そこに国民の悩みがあるのだ。
コメントをくれた工藤さんは「憲法9条はアメリカという庇護者がついているからこそ謳える条項」と言い、TNさんは「各国が戦争しない約束をしていっても、アルカイダみたいなものが存在する。少なくとも国連軍的なものは必要ではないか」と言う。お二人とも9条を守りたい立場からの提起と思われる。
日本はやがて、アメリカの属国から離れひとり立ちしなければならないだろう。どんなに平和思想が進んでも、アルカイダのようなならずものは簡単になくならないかもしれない。人類がお互いに殺しあうことを超越した水準にいつか到達するとしても、それまでの過程で軍備を廃棄できるのかという問題は、戦争だけはやめようという現実的な課題とともに、かなり高水準な哲学的課題を含んでいるように思える。