さて、南雲さんとの共同ブログを更新する前に、3月3日の講演で私が南雲さんに触れたことを書いておこうと思いました。
当日取り上げた神経発達障害としては
・知的障害
・自閉症
・ADHD
・学習障害
でしたね。知的障害については詳しくやりました。これは「NEURO」にも書いてます。
自閉症に関しては、ちゅん平さんその他そこにいたASDの診断を受けたことのある方たちのご協力も借りて、ライブ感覚でやってみました。
そしてADHDと学習障害ですよ。
私は『片づけられない女たち』を作ってる途上で何度も「私もこれでは?」と思いました。そしてあの本があれほどマスコミで取り上げられたのは、マスコミ・出版の女性に思い当たる節のある人が多かったからだと思います。逆に言うと伝統的に求められる女性らしさをある程度仕事の能力で免除されている人が多いとも言えるかもしれません。
けれども今回DSM5を読んでみて、私はADHDの診断基準をほとんど満たしていないことに気づきました。ケアレスミスは多い。たしかに。でもそれはなんだかんだ致命的にはなっていません。てへぺろ力。悪いときには謝ること。誰かに救われること。運。色々です。
そしてその他の診断基準は本当に当てはまらないですね。期日は守ります。じゃないと仕事が進みません。そして期日を守る人たちとしか仕事しません。じゃないとはかどりませんから。たいていの人はそうじゃないでしょうか。そうなると期日を守れない人は落ちこぼれていくでしょうが、それは社会に理解がないからではない。単純に仕事ができないからです。
これは神田橋先生の言葉がヒントになったのですが、気が散る、ということはひっくり返せばマルチタスクだということ。私はそういう自分の特性を活かした環境作りは自力でしています。
だから私はADHDの診断基準には今当てはまらない。逆に言うと当てはまらないからこそ会社は23年続いてきたと思います。期日通りに仕事をしないと信用を培うことはできないからです。会社を経営していくうちに、私のADHDは治ったようです。もちろん拙いなりに、ずっと運動療法や食餌療法もしてきたようなもんですし。
そして学習障害。ここで南雲さんの話を出しました。
DSM5の学習障害の書き方は、なんというか突き放した感じなんですね。この突き放した感じはなんだろうと私は何度も読みました。そしてこの突き放し感には、日本より米国が格差社会を容認していることが関係あるのではないかと思いました。
つまり「読めないやつは読めなくていい」「学齢期だけ乗り切ればいい」という思想です。
でも南雲さんは読む人生を選んだのです。
本を読むことの意義を知り、自分の問題意識を解くために本を読む人生を選んだのです。だったらたとえ読字障害があったとしても、なんとか読む工夫をし、そしてハイテクな機器の必要性を減らしていかなければなりません。それが一次障害としての学習障害を治すということ。
逆に読む人生を選ばないのなら、本など学校卒業したら読まなくていいと思うのなら、いくらでも合理的配慮のみに頼っていたらいいでしょう。
だからこれは志の問題なのです。
そして私は会場の皆さんに問いかけました。皆さんはお子さんに、どういう人生を望みますか?
何か悩みがあったとき、解決したい問題があったとき、本を読むことのできる人生ですか?
だったら学習障害は治した方がいいでしょう。
それを望まないのなら、いくらでも「社会の理解ガー」をやっていればいいのですよね。
当日取り上げた神経発達障害としては
・知的障害
・自閉症
・ADHD
・学習障害
でしたね。知的障害については詳しくやりました。これは「NEURO」にも書いてます。
自閉症に関しては、ちゅん平さんその他そこにいたASDの診断を受けたことのある方たちのご協力も借りて、ライブ感覚でやってみました。
そしてADHDと学習障害ですよ。
私は『片づけられない女たち』を作ってる途上で何度も「私もこれでは?」と思いました。そしてあの本があれほどマスコミで取り上げられたのは、マスコミ・出版の女性に思い当たる節のある人が多かったからだと思います。逆に言うと伝統的に求められる女性らしさをある程度仕事の能力で免除されている人が多いとも言えるかもしれません。
けれども今回DSM5を読んでみて、私はADHDの診断基準をほとんど満たしていないことに気づきました。ケアレスミスは多い。たしかに。でもそれはなんだかんだ致命的にはなっていません。てへぺろ力。悪いときには謝ること。誰かに救われること。運。色々です。
そしてその他の診断基準は本当に当てはまらないですね。期日は守ります。じゃないと仕事が進みません。そして期日を守る人たちとしか仕事しません。じゃないとはかどりませんから。たいていの人はそうじゃないでしょうか。そうなると期日を守れない人は落ちこぼれていくでしょうが、それは社会に理解がないからではない。単純に仕事ができないからです。
これは神田橋先生の言葉がヒントになったのですが、気が散る、ということはひっくり返せばマルチタスクだということ。私はそういう自分の特性を活かした環境作りは自力でしています。
だから私はADHDの診断基準には今当てはまらない。逆に言うと当てはまらないからこそ会社は23年続いてきたと思います。期日通りに仕事をしないと信用を培うことはできないからです。会社を経営していくうちに、私のADHDは治ったようです。もちろん拙いなりに、ずっと運動療法や食餌療法もしてきたようなもんですし。
そして学習障害。ここで南雲さんの話を出しました。
DSM5の学習障害の書き方は、なんというか突き放した感じなんですね。この突き放した感じはなんだろうと私は何度も読みました。そしてこの突き放し感には、日本より米国が格差社会を容認していることが関係あるのではないかと思いました。
つまり「読めないやつは読めなくていい」「学齢期だけ乗り切ればいい」という思想です。
でも南雲さんは読む人生を選んだのです。
本を読むことの意義を知り、自分の問題意識を解くために本を読む人生を選んだのです。だったらたとえ読字障害があったとしても、なんとか読む工夫をし、そしてハイテクな機器の必要性を減らしていかなければなりません。それが一次障害としての学習障害を治すということ。
逆に読む人生を選ばないのなら、本など学校卒業したら読まなくていいと思うのなら、いくらでも合理的配慮のみに頼っていたらいいでしょう。
だからこれは志の問題なのです。
そして私は会場の皆さんに問いかけました。皆さんはお子さんに、どういう人生を望みますか?
何か悩みがあったとき、解決したい問題があったとき、本を読むことのできる人生ですか?
だったら学習障害は治した方がいいでしょう。
それを望まないのなら、いくらでも「社会の理解ガー」をやっていればいいのですよね。