治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

中年期の終わりにわかったこと その2

2018-04-17 08:42:44 | 日記
中には四十年ぶりに会った人もいた同窓会。実は私、昔のこと驚くほど覚えていません。抑圧とかなんとかではなく、単純に三十代の半ばくらいからキャパが切れたのです。どういうことかというと、人間って覚えられる人の数が限られているのだと思います。だって交通が発達する前には、すごく限られたコミュニティの中で暮らしてたんですもんね。私はそのキャパがあんまり大きくなかった上に出版界なんか入ってしまったから、人生の途中から人を覚えなくなったし、覚えると過去の人が一人消える感じ。それでも最初は翻訳出版界でのちには発達障害の世界でプチな世界のプチ有名人になってからはあっちが覚えておいてくれるのでそれをサバイバル戦略に使ってきました。

さて、会場で「僕のこと覚えてる?」と細身長身の男性に挨拶されました。ラフなスタイルの多い男子の中でひときわ目立つお勤め行くようなスーツ姿。その顔に見覚えはありましたけど、記憶の中ではどっちかというと小柄。でも今の姿はどっちかというと長身なのです。なんでも、高三で急に伸びたそうです。お勉強できる人で、高校はもっとお勉強上手な学校(うちの父の母校)に進んだはず。その人は「○○さん(私の旧姓)に今日は会いたかったんだよお~」と言います。なんでかというと「ねえ僕のこと殴ったの覚えてる?」というのです。

えええええ、殴ったの? それは申し訳ないことをした。でもなんで? ときくと、彼は教室でゴム飛ばしして遊んでいたらしい。それが誤爆で私に当たったらしい。やばい、と思った瞬間、私がむっとした顔をしてやってきていきなり殴ったというのです。仕返しですな。私は平身低頭で謝りました。おまけにそんなこと全く覚えていないのです。っていうか、「専守防衛、やられたら倍返し」の行動原理はその頃から変わってないしどうやら極めて自然に発動するもののようだ。私は笑ってしまいました。いや、笑い事じゃないよ。人を殴ってはいけないとその頃の私に『元刑事が見た発達障害』を読ませてやりたいよ。罪刑法定主義と警察法を知っといた方がいいよ当時の私。榎本さんはぎりぎり生まれたばっかりのころだったけど。っていうか今なら児相に送られて治さない医療の犠牲となりコンサータを盛られてたかも・・・。

っていうか中学生が教室でゴム飛ばしって子どもっぽくないですか。今ならそれもなんか問題行動がられそうですよ。そうやって二人で児相送りになって家事のできるひきこもりにされたかもしれん。

でもそのときは先生が見ていないところのトラブルということで、ゴム当てる→一発殴るの当事者間のやりとりで治まったそうです。そしてその彼は反省し、その日を最後に生涯ゴム飛ばしから引退したらしい。そして霞ヶ関への道を歩み始めた。そう、順調にお勉強上手を重ね、なんと今は霞ヶ関の雲上人になっていました。頭いいとは思ってたけどそんな頭よかったんだ、っていう感じ。

逆から考えると、後々官僚になる人が中学段階ではゴム飛ばししているわけですね。今ならゴム飛ばしする少年もゴムぶつけられて殴る少女も問題視されつぶされてしまうかもしれません。二人で児相→コンサータ→犬の曲芸→家事のできるひきこもり ルートに乗らなくてよかったよかった。

会も終わる頃、次回の幹事を決めることになりました。現幹事が指名していいことになり、「頭良さそう」という理由でその私が殴ったミスター官僚が拝命。そして今ではこういうことポリコレ棒にたたかれるのかもしれないけど、男子が指名されたら誰か女子を指名していいことになり、いきおい彼が今日会いたかった人、すなわち私、にお鉢が回ってきました。これはまあ、仕方のない成り行きです。彼を殴ったあの日の私が悪い。

でも今回受付に座っていてくれた男子が、「僕も手伝うから」って言ってくれました。大学時代私は、この人の妹さんたちの家庭教師をやったりしていてつきあいがそれなりにあったのですが、昔から優しい男です。家業を継いだとはきいてたけど、名刺をもらったら名字のついた会社の「会長」という肩書きでした。

「うわあ、会長。なにこのほとばしる隠居感」と私は憎まれ口をたたきました。出版の次くらいに斜陽の家業を継いで苦労もしただろうに、全然陰がありません。

不思議なことに同級生みんなそうです。私と同様、それなりにいやなこともあって挫折経験や苦労もあっただろうに、本当にみんな変わらない。

自由な学校だったね、と口々に言いました。でも、当時自由な学校って思ってたかな? 髪型とか靴下とか、いろいろわけのわからん決まりがありましたよ。それには反発もしたもんだ。なのに自由な学校だったと思い出すのはなんなんだろう。

自由ってなんなんだろう?
なぜ私たちは四十年経って「自由な学校だった」と認識するようになったのだろう?

不思議です。
いったいなぜ私たちは自由な学校だったと振り返るのだろう。
あの日からずっと、私は考えていました。