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京の一枚

京都 紅葉100シリーズ 茶室と竹垣に妙があるもみじ寺 光悦寺 NO.32


鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地である。


江戸時代の芸術家である本阿弥光悦に元和元年(1615年)に徳川家康がこの地を与えた。


『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。


この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。


光悦の死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。




茶室と竹垣に妙があるもみじ寺


本阿弥陀光悦が徳川家康から拝観したこの地に結んだ草庵が始まり。


本阿弥陀家は代々刀剣家を身過ぎとし、一族縁者が工芸に携わる職人衆とともに移住した光悦は、ここに鷹ヶ峰芸術村を営んだ、当時獣が通うような山里鷹ヶ峰に、55軒もの建物があったという。


境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、庫裏に接して妙秀庵がある。


これらはいずれも大正時代以降の建物である。




大虚庵 - 境内に建つ茶室。


「大虚庵」は、光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称であるが、現在ある大虚庵は大正4年(1915年)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計である。


ただし、建設後に光悦会によって改造されており、正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更されたほか、間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に変わっている。


大虚庵前の竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ徐々に高さの変る独特のものである。


三巴亭 - 大正10年(1921年)に建てられた数奇屋建築で、八畳2室、水屋等からなる。


北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像を安置する。


本堂と庫裡を結ぶ渡り廊下潜るとその先は庭園となり、カエデが静寂の糸を張っている。


そこに茶室三巴亭、大虚庵了寂軒がある。


茶室の前に造られている竹垣に注目したい。








「光悦垣」という。


鷹ヶ峰とは・・・


京都の北鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰という山の連なりを背景にした一帯は、鷹ヶ峰と呼ばれる。


光悦寺のある地は鷹ヶ峰光悦町という、京の町を一望する景勝地。








最後に・・・本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)は


永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、芸術家。


書道の光悦流の祖。


刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥家に生まれる。


光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、今日ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。


光悦は、洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。


元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。


王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。


光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。


俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。


陶芸では楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に制作に関与したかは定かでなく、アート・プロデューサーとしての役割が大きかったものと思われる。






■拝観 8:00~17:00


■拝観料  300円


■アクセス


地下鉄烏丸線北大路駅から市バス[北1]→鷹峰源光庵前下車、徒歩3分


■P  有り


■詳しくは075-491-1399


※写真は全て過去のものです。

























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