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京の一枚

京都 紅葉100シリーズ 夕霧の清凉寺 NO.30


京都の紅葉がようやく見頃を迎えました。


心待ちにしていた燃えるような秋の風景にわくわくします。




これから京都へお出かけのみなさん、錦秋の都で素敵な思い出をたくさん作ってくださいね。




この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。


この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(みなもとのとおる、822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。


源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。


その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。


一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。


棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山清凉寺で修行していた然(ちょうねん、938-1016)という東大寺出身の僧がいた。


然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。



その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。




然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。


然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。


すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。


しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、然は没した。


かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。


また、本堂西側には南向きの薬師寺がある。


現在の本堂は元禄14年(1701年)、阿弥陀堂は文久3年(1863年)の再建である。


仁王門から本堂への参道の西側には法華経に由来する多宝塔、法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿、狂言堂などがある。


狂言堂は、春の大念仏の季節には賑わいを見せる。


参道を挟んだ東側には、堂の正面に傅大士(ふだいし)父子像が安置された一切経蔵(輪蔵)がある。


境内には以上の他、宝物を収蔵展示する霊宝館、法然上人求道青年像、豊臣秀頼首塚などがある。





■アクセス


市バス 嵯峨釈迦堂前(2)、嵯峨小学校前(5)


京都バス 嵯峨釈迦堂前(2)、嵯峨小学校前(5)


■参拝料 


境内無料


一般400円、高中学生300円、小学生200円(本堂・庭園)


■参拝時間   9:00~16:00 


■所要時間   30分 


■休 み   霊宝館4・5・10・11月のみ公開






夕霧(?~1676)は京都島原の遊女。


本名は「てる」といい,この地に生まれ,島原扇屋の遊女となるが,のち遊女屋主人とともに大坂新町の遊郭に移った。


夕霧の墓は大阪市天王寺区下寺町の浄国寺にあるが,生家が清涼寺塔頭地蔵院の檀家であったことから,地蔵院墓地にも墓がつくられた。


のち地蔵院は廃寺となり,現在,墓は大覚寺塔頭覚勝院の管理となっている。








もみじ祭  夕霧供養


音曲、舞踊、茶、花、和歌などあらゆる技芸に通じ、さらにその美貌で人気を集めた江戸初期の島原の遊女、夕霧太夫。


近松門左衛門の「夕霧七年忌」のモデルにもなったほどの名妓と言われています。


夕霧供養では、島原の太夫を招いて本堂で法要を行い、その後太夫は禿(かむろ)を従え墓地まで道中し、花を供えてお参りをします。


また、霊宝館の秋季特別公開も開催されており、国宝の本尊釈迦如来像胎内納品などを見ることができます。







■場所:清凉寺(右京区嵯峨釈迦堂)


http://www.jodo.jp/29-489/


■日程:11/8(日)


■時間:法要:10時~11時


■料金:400円(太夫道中見学は無料)。


霊宝館:400円(本堂参観の場合は700円)


■アクセス:市バス28「嵯峨釈迦堂」


■お問合せ:075-861-0343








島原の遊女、夕霧太夫について




夕霧は嵯峨中院の生まれで俗名を「てる」とも伝えられています。


京都島原(下京区西新屋敷にあった花街の俗称)廓の扇屋四郎兵衛の抱え遊女となり、その後の寛文2年(1662)扇屋が大阪新町廓に移り、江戸の高尾、京の吉野と並び名妓夕霧はたちまち大阪髄一の全盛をうたわれたといいます。


彼女は、延宝6年正月6日、26歳にしてその生涯を閉じました。


常照寺には太夫が寄進した山門と墓があります。


江戸前期には太夫などの最上級の遊女は芸事だけでなく武家、公家、上層町人の相手を務めるだけの教養を兼ね備え、金や権力に媚びない資質も必要としました。


当時吉原の遊女3,000~4,000人の中で太夫は10~20人ほどだったといいます。


夕霧太夫の書いた、待つ春の文は、彼女の才能と人柄があらわれている美しい文章で、これを着物の袖などに縫い込んだり、箪笥にいれておくと生涯衣類に不自由しないと伝えられています。


類稀な「才・色・品・情」を併せ持った夕霧太夫は多くの人々を魅了し、その後近松門左衛門の歌舞伎狂言・浄瑠璃にも劇化上演されて人気を博し、「廓文章」は、現在でもなお親しまれている歌舞伎です。


2代目夕霧太夫は、歌舞伎役者の初代中村鴈治郎(扇屋の孫娘)の末娘、女優の故中村芳子が襲名しました。


彼女は「あでやかに 太夫となりて 我死なん 六十路過ぎにし 霧はかなくも」と詠んでいます。



※写真は全て過去のものです。





















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