日曜日に行われた『温故の会』例会。
今月は私の番で、金井国之助日記の安政5年11月からの、鶴ヶ岡の様子を解読した。
金井国之助日記の11月13日付では、酒井忠恕(さかいただひろ)公がご危篤だととの知らせが届き、御家中大騒ぎの様子が記されている。
(安政5年11月)十三日式日詰、八ツ(PM2:00)頃引取る。
一、七ツ半(PM5:00)過ぎより長登へ寄り合いにて参り咄(はなし)居り候内、六ツ(PM6:00)過ぎ相成る。
「早ヤ、早ヤ!」と申す声、門前にて相聞き候に付、仰天いたし聞き立てさせ候所、早追(はやおい)御飛脚に相違無きよし。
嘸(さぞ)、世子君(=忠恕)御不快御不出来の事申し参り候にこれ有るべしと、安き心もこれ無く咄居り候所、又間も無く五ツ(PM8:00)前也。今度は駕籠の早ヤ参り。是は遠藤久右衛門也。
弥(いよいよ)、世子御大病の事に相聞へ、夫より少し相咄居り候て、… … …
【酒井忠恕[さかいただひろ]】天保10年(1839)12.26-安政5年(1858)11.5 世子(=跡継ぎ)。
11代庄内藩主酒井忠発(さかいただあき)の次男。江戸藩邸で生れて天保13年(1842)5月嗣子届出。嘉永5年(1852)土佐藩松平豊熙(
山内豊熈)の次女瑛を妻とする。瑛は公武合体派の巨頭・松平容堂の義叔母に当り、庄内藩の重役酒井右京、松平舎人らは忠発を引退させ忠恕を立てて容堂の後盾による藩政改革の実現で難局を打開しようと画策する。
安政4年(1857)忠恕は庄内に下向したが病のために急逝。密謀は瓦解し、改革派は藩政より遠ざけられた。(新編庄内人名辞典より)
と、人名辞典に記載されているが、日記を読む限り忠恕さんは江戸藩邸で亡くなったようだね。江戸からの
早追に、御家老中はもとより国之助さん達まで大騒ぎ…。
TVでは大河ドラマ『西郷どん』も話題だが、この時代の庄内藩、バックグラウンドでは様々な派閥(?)の動きが…?
識ることは面白い、ふむ実に面白そうだ。