Traverse Troubles

「事実」と「真実」は別



何かの物事や出来事について、真実(真理・真相)を知りたいという気持ちは誰にでも持っているものであり、現代ではこれを「知る権利」と言われるようになっています。
こうした気持ちの源流にあるのは
「真実はひとつであり、何かあるはずだ。」
という観念だと思います。

その後、ある「事実」に辿り着いた時、

ドラマや映画→対立する者同士で決戦、というクライマックスに突入。
ワイドショー→評論家が「それぞれには、それぞれの真実があるんだよ。」などとしたり顔で語って締める。

こういうイメージが個人的には強いです。
同じ場面の同じ人物の同じ言動に対しても、メディアによっては報道内容がポジティブだったりネガティブだったり。
様々な解釈の違いを度々見掛けるうちに、一つだけ確実に言えることが分かってきます。
すなわち

確かに、「事実」は一つ。
しかし、それは複雑な多面体のようなもので、同じ事実でも
「誰が・どの視点から・どう解釈したか」という様々なフィルターによって
様々な「そうしたい(あってほしい)」別の形に変わってしまい、
それらがそれぞれの「真実」となる。


ということです。



我々人間は、普段は確かに「真実を知りたい」とよく言います。
しかし、多くは「見たいものだけを見たい」のが実態なのです。
本人たちに興味が無く利益にならない多くの「事実」は、スルーされてしまうのです。
例えば、「道端で○○の花が咲いていた」としても、花に興味が無い人にとっては
単なる「事実」に過ぎないため「真実」としては見向きもされないでしょう。

しかし…

もし、我々人間が見たいものだけを見ることのみを求め続け、それに慣らされているうちに、本当に知らなければならない「事実」が見過ごされているとすれば…
それは、何か更なる危うさの予兆なのかもしれません。


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