教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

「いっぱい友だち」さいたま避難の男児、福島へ

2011年04月18日 15時43分41秒 | 受験・学校

2011年4月18日11時58分アサヒコム

写真:17日に福島県に発つ鈴木義弘君と母親の由子さん(右)ら=さいたま市北区の自治人材開発センター拡大17日に福島県に発つ鈴木義弘君と母親の由子さん(右)ら=さいたま市北区の自治人材開発センター

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 『避難所近くの小学校に入学して、わずか1週間。福島県浪江町からさいたま市に避難中の鈴木義弘君(6)が転校する。家族と同県に戻ることになったためだ。最後の登校となった15日、時折さみしそうな表情を見せながらも、担任の先生と握手した。「いっぱい友だちができたし、先生も大好き。みんな、本当にありがとう」――。  義弘君の自宅は福島第一原発に近い。避難指示が出た後、福島県や山形県の親戚宅などを転々とした。3月下旬から自治人材開発センター(さいたま市北区)に移り、母親の由子(ゆうこ)さん(39)、祖母のイツ子さん(86)、伯母と避難生活を送ってきた。  「地震が怖かったのでしょう。母親のそばを離れなかった」とイツ子さん。学校になじめるか心配だったという。  だが、休まず登校した。「絵を描いて先生にほめられた」「友だちと校庭で遊んだ」とうれしそうに話していたという。  由子さんらは避難所生活に疲れ、埼玉を離れようかと悩んだ。義弘君が楽しそうに通学する姿に、いったんは埼玉での生活を決意。小学校に近い県営住宅を申し込んだが、抽選に外れた。この先も学校の近くに住宅が見つかるあてはなく、父親がホテルを確保した猪苗代町に移ることになった。  義弘君は15日の放課後、「大好きな先生の写真を撮りたい」と教室で先生に何度もカメラを向けた。「本当は、友だちと離れたくない。先生も福島に連れて行っちゃいたいぐらい好き」。義弘君はそう言った。』

鈴木義弘君は、避難所近くの小学校に転校して暖かく迎えられて本当に良かったですね。福島県から転校生の皆さんをいじめない仲良く迎え入れて上げて下さい。わずか一週間で転校になりましたが。福島県の放射線物質の飛沫や汚染の心配の無い安全区域に新しく学校を再建し、皆さんが生まれ育った土地で友達同士仲良く勉強出来ますように小学校・中学校・高等学校も含めて建設出来ないものでしょうか。生まれ育った土地、故郷は長年の愛着も有り親御さんにとっても子供達に取っても一番良いと思います。東京電力福島第一原子力発電所の事故処理の目途がつき、他県に避難されている地域住民の皆さん方が、地元に帰れる日が一日も早く来ますように心からお祈り申し上げます。

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