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ひめゆりに想う

2013-12-23 00:32:14 | Weblog
FB仲間がひめゆりを訪問してつぶやいていたので・・・

私の父は東京文理大(現・筑波大の前身)の出身の戦前派?戦中派?。
当時の文理大(東京文理大と広島文理大)は授業料無料で、貧乏人の田舎の秀才が進学したらしい。その代り、卒業後、何年間かは指定された学校の教師になることが義務だったとか。父は昭和18年に卒業し、函館師範が指定され、母と新婚で赴任し、兄が生まれた。敗戦後、鹿児島師範に転勤して私が生まれた。
敗戦で沖縄は米軍の統治下におかれ、同じ日本なのに、沖縄に行くにはパスポートではないが、同じような証明書が必要であり、気軽に行けるところではなかった。昭和34年頃、父は沖縄を訪問する機会を得、ひめゆりの塔も訪問する。ひめゆり学徒隊が沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成されていたことは周知のとおりである。ひめゆりの塔に刻まれている犠牲者の名前を眺めていて、父は文理大の同級生の名前を見つける。同窓会の名簿では消息不明になっていたそうだ。父は函館だったが、その同級生は沖縄。何かあれば逆のこともあり得たのか? 同級生の中には沖縄と聞いて、?年分(昔の大学は3年間?)の授業料を払って、沖縄への赴任の義務を免除してもらった者もいるとか。(このあたりは伝聞で証拠があるわけではありませんが)
それにしても大学指定?文部省指定?の初任地での死亡も同窓会では把握するのが難しいのか?!

私自身は1995年4月に初めて沖縄を訪問し、ひめゆりの塔にも訪れ、父から聞いていた同級生の名前を探す。もとより名前は覚えていないので、父と同じ年代の教師を探す。それらしい年代の教師が一人見つかった。教師の中では若い方(一番若い?)でひめゆりの生徒たちには厳しい接し方だったようにうかがえる。
父だったらどうしただろう?
父だったら今の私はいない?
いろいろ考えさせられる訪問だった。

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