昨日のローラー練 06/25

2008-06-26 |  微科学的練習日誌
そうはいっても、充電は自分次第なので昨日はローラーを

まぁ小1時間乗って充電完了とはいかないけどね

とはいえ、明日・来年・今後も自転車を楽しむためと思えば、小1時間も充電のひとつ

そんな感じで、ボチボチ集中して回せたかな




一昨日(6/24)の夕刊にはいくつか気になる記事があって・・・
頭に引っかかった記事をとりあえずおひとつ

***** 日経夕刊(6/24)「あすへの話題」より ここから *****
『書くことについて語るとき』

村上春樹氏の著書。食わず嫌いで読んでいなかったが、『走ることについて語るときに僕の語ること』(文芸春秋)という奇妙なタイトルに惹かれ、去年買ってしまった。

タイトルの原型は彼が敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーの短編集『愛について語るときに我々の語ること』。夫人の許可を得て使わせてもらったという。

彼は20数年間走り続けてきた。「ほとんど毎日ジョギングをし、毎年最低1度はフル・マラソン」と半端じゃない。小説家がなぜ走るのか?しかも「走ること」について語るということは、自分という人間について正直に書くことだ、というが一体どういう意味なのか。奥が深い本であった。

100キロウルトラマラソンでのこと。75キロあたりから何かが「抜けた」。瞑想状態にも似た走りの中で「レース」を終えたいとさえ思わない。終わりとはとりあえずの「区切り」で、たいした意味はない。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を際立たせるために、とりあえず終わりがあるだけだ。村上氏は走ることについて哲学的に語る。自分をすべて曝け出す行為であった。

そこで私自身のこと。半年間、週に1度のこの「700字の世界」を今回で終える私も、何かが「抜けた」。今を書き終えると、次のテーマや人の顔が浮かぶ。その瞬間は走馬灯を追うような心躍る作業であった。読者の方々の声援に意気高揚し、書くことへの執着がより強まった。「区切り」は私にも「たいした意味」がなかった。

書くことについて語るときに私の語ること、それは推敲するほどに違った結論に到達する!思索の迷路の快感であった。
(篠塚英子 お茶の水女子大学名誉教授)
***** 日経夕刊(6/24)「あすへの話題」より ここまで *****


「終わり」「区切り」・・・今朝になっても、頭の中がスッキリしない。悪い意味ではなくてです

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