「あらすじ」
第二章
(馨之介は貝沼金吾の家で水尾家老らから嶺岡長老の暗殺を依頼される。去り際、金吾の妹の菊乃から好意の挨拶を受ける)
金吾が玄関まで出迎え、馨之介はそのまま貝沼家の奥座敷に通された。
座敷に通されると、床の間を背にした三人の見知らぬ侍がいて、金吾の父で物頭を勤めている貝沼市郎左衛門と向かい合って酒を飲んでいた。
市郎左衛門に手招きされて、馨之介と金吾が三人に向かい合う位置に坐ると、市郎左衛門が、「こちらがお話しした葛西の息子でござる」と案内した。
すると、正面の三人の男は一斉に眼を挙げて馨之介を視た。
横で金吾が、「真中がご家老の水尾様だ。右が組頭の首藤殿。左は野地殿、郡代だ」と囁いた。
馨之介は合うのは初めてだった。
………。
家老の水尾内蔵助は全く無表情だったが、組頭と郡代の眼にはかすかな笑いのようなものがある。それは好意的な笑いではなく、やはり愍笑のようないろを含んでいた。
不意に野地勘十郎が、腕組みを解くと太い声で言った。
「これが、女の臀ひとつで命拾いしたという倅か。よう育った」
郡代! 鋭い声で市郎左衛門が遮った。
野地という郡代が何を言ったのかは、明瞭でない。にもかかわらず、その一言が胸が貫いてきた感覚だけははっきりしている。すぐにも何かを投げ返すべきだった。だが、何を投げ返したらいいのか、馨之介には解らなかった。
馨之介は、郡代を鋭く見返しながら、金吾に声だけで詰(なじ)るように囁いた。
「どういう集まりか知らんが不愉快な連中だな。俺は帰らしてもらうぞ」
「待て、葛西」と金吾も囁き返し、「父上」と言った。
市郎左衛門が口を開くより先に、水尾家老が言った。
「源太夫の息子だそうだな。こっちへ寄ってくれ。ちと相談がある」
しかし、馨之介が動かないのを見ると、首藤と野地が自分の膳を片寄せて前に出てきて、家老を上座に置いて細長い輪ができた。
「おぬし、嶺岡を知っとるか。中老の嶺岡兵庫だ」
………。
嶺岡兵庫は、40歳になるかならずで中老の位置に坐った切れ者で、以来20数年来その席に在って藩政を牛耳ってきた。
その間、荒地に疎水を通して新田を開いたり、藩校を興して敬学の風を広めるなど、藩政上の実績は数えきれない。藩の柱石と呼ばれて久しい。
水尾家老が「それは違っているのだ。あれは希代の策士で、大地主で商人の小室善兵衛と組んで藩政を我が物にして、海阪藩を善兵衛へ家に切り売りしてきた男だ。20年前にも、兵庫と善兵衛の策謀を見破って、兵庫を除こうとした事件があった。財政立て直しで、領内の新竿打ち直し(調査に使用する新竿の長さによって石高を計算すること)がはかられたとき、兵庫は領内の百姓保護を名目で、これを潰した。実は、新竿打直しで損をするのは小室のような地主連中だったのだ」と言った。
「………」
続けて「藩が真二つに割れて、兵庫を刺すところまで行ったが、ことは失敗して、そのために反対派は兵庫に一指も染めることが出来なくなった。古い話だが………」と話した。
野地がその後を受けて、「だが、今度は猶予できないことになった。兵庫は新しい財政立て直し策を出してきたが、それが洩れて領内に不穏な動きが出てきた。百姓どもが騒ぎ始めている」と言った。
それまで黙々と耳を傾けていた首藤という老人が不意に言った。
「兵庫を刺す役目を、おぬしに引き受けてもらいたいのだ」
馨之介はぎょっとして顔を上げた。熱っぽい視線が、一斉に自分に注がれている。
「おぬし一人にやれというわけでない。金吾も一緒だ」と市郎左衛門がつけ加えた。
「お断り申す。そういうご相談ならば、今夜はこれで失礼仕る」
馨之介ききっぱりと断った。
金吾が険しい声で「葛西 !」と叫んだ。
馨之介は、急ぎ足で玄関に出た。
「馨之介さま」
馨之介が門を出ようとしたとき、若い女の声で呼ばれた。
「やっぱりいらしていたのね」
「………」
菊乃の声は、ほとんど無邪気なほど澄んでいる。菊乃は小さい笑い声を立てた。その笑い声から、馨之介は菊乃がむしろ緊張しているのを感じた。
「おかしな方。黙ってお帰りになるつもりだったのですか。兄と諍いでもしまして?」
「いやそうではない。いろいろ事情があった」
「ご縁談があったのですか」
不意に菊乃が言った。その声に含まれている妬(ねた)ましい響きが、馨之介を驚かせた。
16歳になった女は、もう嫉妬するすべを知っているのか。馨之介は微笑した。
「そんなこととはない」
闇が、馨之介に「言え」とそそのかした。
「縁談ならば、そなたに申し込む」
菊乃の答はなかった。闇の中でも、菊乃の躰が硬くなった気配が感じとれた。
長い沈黙の後で、菊乃は小さな声で、「今度は、いついらっしゃいます ?」
「そこで何をしている ? 」
不意に鋭い声がした。金吾だった。
「貴公、どうしても手を貸さぬつもりか。私闘ではないぞ。今夜の話は、ご家老よりもっと上からご意向が出ている。名誉だと思わんか」
「別に俺がやらなければならないわけではない。面倒なことに巻き込まれるのはご免だ」
「貴公は事情を知らん。ま、いいだろう。そのうち自分であの人を斬りたくなる」
「どういうことだ ? 」
「さあ」
金吾の冷たい声が響いた。
「貴公の母上にでも聞かれたらいいだろう」
第三章に続く