『「ファーストラブ」のあらすじ』
第五章 背中合わせのモデル
[デッサン会の元生徒を探す]
私は帰宅して、主人に、「我聞さんの知り合いで、環菜さんの父親が勤めていた美術学校の卒業生っていないかな? 聖山那雄人の自宅のデッサン会に参加したいて元生徒たちとコンタクトをとれないかと思ってね」と訊ねた。
翌日の昼、我聞から友達のデザイナーの恩師が美術学校にまだ勤めていると電話があり、私は、すぐ、辻さんにも電話をかけた。その晩のうちに、我聞から紹介された柳澤先生から私にも電話があった。
翌朝、クリニックに環菜からの手紙が届いた。
【 真壁由紀先生
………。
父はどちらかと言えば私に無関心でした。一年間の三分の一は外国でした。だから一緒に生活した時間は思いのほか短かったのかもしれない、………。
一つ言えるのは、父は私の望むことや願うことは、全部否定し続けていたということです。友達関係や進学先、恋愛関係も。
真壁先生は、母が私に自己責任を強いてたと言いましたね。だけど仕方がないんです。母はむしろ可哀想なんです。母はずっと父に気を遣って遠慮していました。
たとえご飯を炊いた直後でも、父が蕎麦だと言えばすぐにお湯を沸かして、昼間はゆっくり寝たいから出て行けと言えば、無理にでも予定を入れるような母です。父に逆らえるわけがないんです。
なぜなら母は父のことが大好きだったんだから。私のことよりも。
そんな父に言いたいことも言えずに堪えてきた母が、私を好きにさせていたことは、むしろ寛大なことだと今になって気付きました。
だから母を責めないでください。私を苦しめていたのは、父なのだから。
聖山 環菜 】
[デッサン会の元生徒が告げるモデルの環菜]
双子玉川の美術学校に出向き、柳澤先生に会って、先生から聖山那雄人が目にかけていた子に電話をかけてもらい、その方の紹介で、デッサン会の元生徒だった画家が見つかった。
その画家は南羽といい、いま富山県の山奥の工房で活動されていることだった。
私は辻さんと富山の南羽さんの工房に出向き、聖山那雄人のデッサン会に参加していたと聞いて伺ったのだが、聖山那雄人さん独自の指導内容やそれ以外で記憶に残っていることがあれば聞かしてほしいと申し出た。
南羽氏はしばし沈黙してから、
『もし、自分がちゃんと対象物を見ているつもりでいるなら、今この瞬間からその10倍見ろ、と言われたのは印象に残っています』と答えた。
私は、続けて「参加していた生徒の男女比なんかは覚えていらっしゃいますか?」と訊いた。
『男です、全員、男でした』
「そのときのデッサン会の絵が残ってたりしませんか?」
『キャンバスに油絵の具で描いた作品は残ってないんです。ただ当時のスケッチブックだったら、創作のヒントになるかとも思って持ってきたかな……ちょっと探してきます』
南羽が二階から持ち降りて差し出したスケッチブックを受け取って数ページめくった辻さんが、突然奇妙な動揺を見せた。私も横からその手もとを覗き込んだ。
そこには環菜らしき少女が、体のラインがうっすらわかる程度のワンピースを着て寄りかかる姿が描かれていた。
ただし、彼女が寄りかかっていたのは、椅子の背もたれでもなければ壁でもなく、裸の男性の背中だった。二人は、背中合わせに坐り、お互いを背もたれにしていたのだ。
環菜はたしかに言っていた。―--体が重たくて、疲れる。
絵の中で薄ぼんやりと宙を仰ぐ環菜の目は、拘置所のガラス越しに見たものと全く同じだった。
ようやく辻さんが、「あの、この男性は全裸ですよね。下着なんかは……」と遠慮がちに訊ねると、南羽は、
『ヌードモデルは普通、隠さないですから。でも構図的に、そのモデルの子の視界には入らないように考慮されてましたよ。おかげで体の細部まで比較できて、パーツの大きさの違いなんかも非常に勉強になりました』と答えた。
「もしよかったら、そのスケッチブックをお借りできないでしょうか? 裁判の証拠として提出できるか、担当の弁護士を通じて掛け合ってみたいです」
南羽さんは意外なほどきっぱりと、『それは申し訳ないけどできません』、と断った。
『奥さんは旦那さんを失くして、娘さんは殺人犯になってしまうなんて、本当に気の毒だと思います。さらに、いろろいろ掘り起こして騒ぎを大きくするようなことはしたくないんです』
私は反射的に深く息を吸った。頭の中で聞いた話の絵がつながっていく。
娘が裸の男性のそばにずっと坐っているところを、普段の10倍集中する若い男たちに優しく手料理をふるまう母親ーー。これほどグロテスクなことがあるだろうか。
気まずい沈黙が続いてしまったため、辻さんが打ち切るようにスマートフォンを取り出した。
玄関で靴を履いているときに、南羽は、『僕のデッサンなんて役に立たないと思います』と重たい口を開いてこぼした。
私は、南羽さんに顔を向けてそっと告げた。
「あなたが、あのとき描いた少女を救うことになるかも知れない、重要な証拠です」
黙ってしまった彼に連絡先を手渡して、私たちは最後の会釈をして吹雪く外へ出た。
「第六章」に続く