「本作抜粋による粗筋」
第三話「姉妹」 家出した姉とよく食べる妹の話-3/3-
[亡き妹に会いたいために過去に戻る姉]
気がつくと、数がトレイにコーヒーカップとケトルを載せて平井の側に立っていた。
「亡くなった人に会いに行く人は、ついつい情に流されてしまい、制限時間があることを知っていても、別れを切り出すことができなくなります……」
と言って、マドラーのような棒をカップに入れ、
「これを入れておけば、コーヒーが冷める前にアラームが鳴りますので……」
と、気遣った。そして、
「ルールは?」と訊ねた。
「わかっている」と、平井はしっかり頷いた。
平井は、ただ謝りたかった。
何度も会いに来てくれたのに、邪険に扱った事。そして、旅館を継がせてしまった事。
平井が家を出た結果、久美は旅館を継ぐ羽目になった。
だが、もし、久美にも夢があったのだとしたら、その夢を断念させたのは、平井自身という事になる。そう考えれば、久美が何度も実家に戻るよう説得に来ていた理由もわかる。
平井さえ実家に戻れば、久美は自分の夢に向かって生きることができた。自由になれるのだ。
今さらではあるが、平井の後悔は、尽きることがなかった。
「コーヒーが冷めぬうちに……」
と、数は囁き、ゆっくりとカップにコーヒーを注ぎ始めた。
カップに満たされたコーヒーから湯気が立ち上る。
揺らめきは目まいのような感覚となって平井を包み込んだ。身体が立ち込めた湯気と同化する。平井の身体は、ゆっくりと上昇を始めた。
「平井さん」
揺らめく意識の中、聞きなれた声にハッとし、平井は目を開けた。
声のした方向には、エプロンを付けた計。雑誌を広げている房木がいて、平井の記憶にある、あの日の風景そのままだ。
平井は戻ってきた。久美の生きているあの日に。
平井は、落ち着くためにゆっくり深呼吸して、
「ども……」と、カウンターの中の計に挨拶した。
計は、いつもワンピースの女が座っている席の平井に挨拶されたので、戸惑いながら、
「なに……、未来から? ……なんしに来たの?」
と、過去の計は、久美が亡くなったことなどの事情も知らないので、質問もストレートである。
「ちょっと、妹に会いに」
平井は、膝の上の手紙を握った手に力が入る。
「めずらしい! いつもは隠れちゃうのに?」
「今日は……ちゃんとね」と、平井は努めて明るく返事した。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
計は、反射的に入口に向かって声をかけた。
平井は、誰が来たかは知っている。久美が三日前、この喫茶店を訪れた時間である。
だけど、平井は、久美がどんな顔になっているのか知らない。ここ1、2年は逃げてばかりいたので、まともに見た覚えがないからだ。
どんなに自分が妹の訪問を避けてきたのか、どれだけひどい仕打ちをしてきたのか改めて痛感し、申し訳なさと後悔で胸が一杯になった。
しかし、平井は、ここで泣くわけにはいかなかった。平井は久美の前で一度も泣いたことがなかったのだ。その平井が泣いていれば久美は不思議に思うだろう。
「なにかあったの?」と聞くに違いない。そうなれば、頭では「現実は変わらない」と理解していても、「事故にあうから帰りは電車にして」、「今日は帰らないで」と、言ってしまうに違わない。しかし、言ったら終わりだ。平井は、暴れ狂いそうな感情を抑えるために、大きく深呼吸をした。
「お姉ちゃん」
その声に、平井の心臓は一瞬止まりそうになった。二度と聞けないはずの久美の声である。
「やっほう……」
平井は、手をあげて指先をチロチロ振りながら、ありったけの笑顔で応えた。
「……え? あれ? 今日はどうしたの? 」
「なにが?」
「いや、ここ数年、こんなに簡単に会えたことがなかったから……」
「そうだっけ?」
平井は肩をすくめながら応えた。
久美はゆっくりと平井の座る席に近づき、
「コーヒーとトースト、あと、カレーライス、ミックスパフェいただけますか」
久美はカウンターの中にいる計に声をかけた。
「なんか、変な感じだね?」
「なにが?」
「お姉ちゃんとこうやって向かい合って座るの、なんだか久しぶりすぎて……」
「……」
「……」
平井の態度に、久美は何かを感じ取ったのだろう、不意に、
「ホントにどうしたの?」と、心配そうに尋ねてきた。
「なにが?」
「なんか変だよ? なんかあった?」
「別になにも……」
なんとなく会話は途切れてしまった。
平井からは話しかけられない。なぜなら、平井は、久美が現れたその瞬間から、久美を抱きしめ、「死なないで!」と叫びたい衝動を必死に抑えているからだ。喉元まで出かかったその言葉を押さえるだけで精一杯だった。
久美が言葉を選んでいる。うつむいて、頭の中で言いたいことを反芻している。もちろん、どう言えば、「平井が実家に戻ってくれるか?」ただそれだけである。なかなか言い出せないのも、ここ数年、何度も何度も平井から断り続けられたからだ。
久美が小さく息を吸い、一呼吸おいての時だった。
「帰ってもいいよ」と、平井はそう答えた。
久美はキョトンとして、「え?」と聞き返した。
「帰ってもいいよ、実家……」
平井は優しく、言葉を継いだ。
久美は「ホントに?」と、念を押してきた。
「なんにもできないよ?」と、平井は、申し訳なさそうに答える。
すると、久美は泣き出した。
「ずっと、夢だったんだから……お姉ちゃんと一緒に旅館やるの……」
と、うつむきながらつぶやき、テーブルには、大粒の涙が、ポトポトと落ちている。
平井の脳裏に、三日前に自分が言ったセリフがよみがえってきた。
「書いてあるのよ、顔に。 お姉ちゃんのせいで私はやりたくもない旅館の女将をやってるの。 お姉ちゃんさえ帰ってくれば私は自由になれる……ってね」
なのに、その妹はもういない。
平井の後悔は、さらに強くなった。死なせたくない! 死んでほしくない!
「……く、久美」
平井は漏れるような小さな声で久美の名前を呼んでいた。
(中略)
「ちょっと、トイレ」
久美はくるりと平井に背を向けて歩き出した。
平井は、心の底から悲しみ、大声で泣き叫びたかった。だが、声を出すわけにはいかない。平井は、久美、久美と肩を震わせながら、声を殺して泣いた。
ピ ピ ピ ピ……
突然コーヒーカップの中から音がした。コーヒーが冷める前に鳴るアラームだった。
平井はカップを手に取った。
(もう一度だけ久美の顔を見たい)、だが、久美の顔を見れば、きっと飲めない(少しでも永く一緒にいたいから)、帰れない(幽霊になり、約束した実家に)。
かすかに、トイレのドアの開く音が聞こえた。
平井は、その音を聞いた瞬間、一瞬にコーヒーを飲みほした。
平井にあの目まいにも似た湯気のような感覚がよみがえった。身体が湯気に包まれる。
久美がトイレから戻ってきた。
平井の意識は湯気となった揺らめきの中で、まだ、その場に残っていた。
「……あの、姉が何処へ行ったか知りませんか?」と久美が計に尋ねた。
「なんだか、急ぎの用事ができたとかで」との計の言葉に、久美の顔が曇った。
その様子を見た計に、久美に、
「大丈夫ですよ。お姉さん、約束はちゃんと守ると言っていましたから」と言った。
そして、計は湯気になった平井に向かって目配せのウインクをした。
「そうですか。じゃ、今日は帰ります……」と、久美は言って、軽快な足取りで喫茶店を後にした。
「(久美—――っっ)」
揺らめきとともに、この場から消え去る意識の中で平井はしっかりと見た。久美が約束は守ると聞いたときに見せた幸せそうな笑顔を。
[現実に戻った平井]
気がつくと、平井の前にトイレから戻ってきたワンピースの女が立っていた。
数がいて、流がいて、高竹が、そして計がいる。
平井は現実に戻ってきた。 久美のいない現実に。
ワンピースの女の「どいて」の声に、平井は慌てて席を立った。
平井は、大きく深呼吸をし、
「仕事も全然できないかもしれないけど……」
と、言いながら、手に持っていた久美からの最後の手紙を見つめて、
「……このまま帰っちゃっても……問題ないよね?」と言った。
計は大きくうなずいて、「大丈夫でしょ」と、元気に応えた。
カランコロン
平井を見送った計が、お腹を小さくさすりながら「よかったね」とつぶやいた。
終
第四話「親子」に続く
冷めないうちに…ではないのか