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もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
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「もし学校の教師が岩崎夏海の『もしドラ』を読んだら」(2)よりつづく
《相乗効果を生み出すイノベーション》
イノベーションは組織を変え、組織の外に変化をもたらす
連携が生み出す変化
秋季大会の敗退後、程久保高校野球部は生まれ変わり、順調に実力を伸ばしてきたとはいえ、まだまだ甲子園出場という目標は遠いものでした。そこで、みなみは再び「マネジメント」にその方策を求めたのです。
「企業の第二の機能は、イノベーションすなわち新しい満足を生み出すことである。」p142
「イノベーションとは、科学や技術そのものではなく価値である。組織のなかではなく、組織の外にもたらす変化である。」p143
「イノベーションの戦略は、既存のものはすべて陳腐化すると仮定する。」「イノベーションの戦力の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを体系的に捨てることである。イノベーションを行う組織は、昨日を守るために時間と資源を使わない。昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる。」p144
つまり、みなみは、野球部と野球部をとりまく外の世界とのつながりを深め、さらに、これまでの高校野球の常識をくつがえす作戦を考え出すのです。もちろん、これらをみなみひとりがやろうとしたのではありません。外とのつながりは、野球を自分のキャリアアップのために取り組んでいた正義(まさよし)に、野球の作戦を監督の加地とマネージャーの文乃にお願いすることになります。
組織の責任者が部下に仕事の権限を委譲することをデレゲーションと言います。みなみの場合、組織の責任者というわけではありませんでしたが、成り行き上、野球部のマネージャーが野球部のマネジメントをするというはめになってしまっていました。つまり、野球部をとりまく組織との連携を正義に、甲子園に出場するための練習と特別な作戦を監督の加地と文乃にデレゲーションしたのです。
程高野球部は生まれ変わりました。
「今が成長の時なんだ。」みなみはつぶやきます。
「もしドラ」の中で最も圧巻な場面ではないでしょうか。残り数ヶ月と限られた時間のなかで、野球部とそれをとりまくものとが、どんどんビルドアップされていくのです。陸上部との合同練習で、走力のアップをはかりました。そして、正義がお膳立てした連携は、家庭科部、吹奏楽部、大学の野球部などでした。その結果、野球部だけでなく、連携したそれぞれの組織にもやる気と成果をもたらしました。
「イノベーションとは組織の外にもたらす変化である。」
まさに程高野球部とまわりの組織との間にWin&Winの関係が築かれていったといえます。
イノベーションは不可能を可能にする
練習面では、チーム制を取り入れ、お互いを切磋琢磨しました。そして、作戦面では、これまでの常識をくつがえす作戦を生み出しました。みなみは、監督の加地にこう尋ねました。
「甲子園の長い歴史の中で、それまでの常識を変え、新しい価値を打ち立てることに成功した監督はいますか?」p148
すると加地は、こう答えました。
「おれの知る限りだと、二人いる。一人は池田高校を率いた蔦文也監督で、もう一人は、取手二高を率いた木内幸男監督だ。」つまり、蔦監督は、打って打って打ちまくるというスタイルで、高校野球に「守りの野球」から「攻撃野球」という新しい常識を打ち立てました。木内監督は、それまでの「管理野球」を捨て、選手の気持ちや個性を大切にする「心の野球」を打ち立てていたということをみなみに熱心に語ったのです。それを聴いたみなみは、加地の目を真っ直ぐに見つめて言いました。
「だったら、先生が三人目になりませんか。」
加地と文乃がたてた特別の作戦とは、「ノーボール、ノーバント作戦」でした。甲子園に出場するという目標の下では、短期間にトーナメントを勝ち上がっていかなければなりません。そのために必要だったのが、この「ノーボール、ノーバント作戦」なのでした。
これ以降、程高野球部は、高校野球の世界に旋風を巻き起こしていきます。
程高野球部はどうなるのでしょう。
みなみは・・・。 夕紀は・・・。
まだ、この「もし高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を読んでいない先生方、どうぞお読みになってください。映画も良い映画です。日々の実践に役立つことが、きっとあるはずです。
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私にとってのイノベーション
私は、今から17年前の1996年、当時の学年の仲間とともに、現在の職場体験のもととなる名づけて『労働体験』というものに取り組みました。全国的に職場体験が拡がっていくきっかけとなった兵庫の「トライやるウィーク」が始まったのが1998年のことでしたから、職場で仕事を体験させるなどということは、教育の現場では「非常識」であり、全く、当時のイノベーションだったといえます。
総合的な学習の本格実施が2002年ですから、時間の制約や、子どもの活動の枠組みの制約、地域の人たちを学校へ取り込んでいくことへの教員の抵抗など、様々な困難がありました。
「先生、本気?」「子どもにさせる仕事はないよ!」と事業所の人たち・・・
「そんなことして子どもが事故にでも遭ったら誰が責任取るの?」と学校内から・・・
しかし、そんな困難を乗り越えて、実施した第一回目の『労働体験』学習は、子どもたちにとって、何ものにもかえ難い、大きく、そして深い学びを得ることができました。
そして、それだけではなく、地域の人たちに活気と元気が生まれてきたのです。
「子どもたちを地域、社会へ解き放とう!!」 これがスタートでした。この目標を実現するために達成されたものが『労働体験』だったのです。まさに、ドラッカーが語ってくれているように、組織の内部と外部に多大な成果と成長をもたらしてくれたのです。
学校はすべての人たちの幸せのために
これからの学校教育のイノベーションとは、一体何になるのでしょうか。かつて職場体験に取り組む大きなきっかけとなったのは、1995年に起きた阪神淡路大震災でした。そして今、学校教育のイノベーションを考える時に、2011年3月11日に起こった大震災の惨事のことを考えずにはおられません。
あまりもの大災害であったために、機能を果たせなかったところもありましたが、学校は避難所として、そして、それ以降は生活をする場として学校がその役割を果たしてきました。このような大災害時において、学校が地域社会の中心に位置していることをあらわします。場面が極限すぎてわかりにくいかもしれないですが、極限であるからこそその本質をあらわしているものだと思います。
そう考えると、たかだか10年しかいない学校の教員が、学校が自分のものであるかのように振るまうことは、間違っているのです。学校教育は、学校教育に関わる全ての人たちにマーケティングをほどこし、学校教育に関わる全ての人たちが「幸せに」なれる方策を打ち出さねばなりません。「学術・文化」「地域文化」「ソーシャルスキル」「ソーシャルエンカウンター」「地域振興」「地域防災」などにわたる全ての拠点としての、ハードとソフトを備えたものにならなければいけないでしょう。
もしドラ応援団
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(おわり) 2011年9月12日
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