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人間関係づくり・人間力育成の授業

2014年6月10日 奈良女子大学臨床心理相談センター×大志学園コラボ 第5回

2014-06-10 07:53:11 | 研修会

奈良女子大×大志学園コラボ、5回目でした。あろうことか、研修にのめり込むあまりに写真を撮るのを忘れちゃいました。もう、皆さん方の中では、子どもたちへのワークショップのシェアリングの話が出てましたし、ふり返り用紙のもとをお渡ししたくらいですから、不登校の子どもたちの支援も充実してきたことでしょう。本日のお題は「依存的から主体的」です。認知→行動→評価のスパイラルをもとに成長のプロセスをたどるわけですが、あり様の変化や成長という観点を明らかにさせてもらいました。皆さん、さすがにカウンセラーをめざしているだけあって、一段上の部分を積み上げたなかみになりましたね。ここでも、重要になるものがシェアリングです。帰りの駐車場で写真を撮りわすれたことに気づいたのですが、ふと目を横にやると、カーシェアリングの幟が・・・。車もシェアする時代なんですね。帰りにスーパー玉出で、のり弁ゲット。税込み300円以下の格安なのですが、タルタルソースもついていました。

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10 コメント

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 本日もありがとうございました。 (チェリー)
2014-06-10 19:37:00
 本日もありがとうございました。
 先週はコメントが書けなくてすみません。今日先生が言われていた、言語化をしないとイメージだけでふわっと終わってしまう、というのは本当にその通りだと思いました。しっかり振り返りをしていきたいと思います。
 今日の主体的・依存的の話ですが、わたしは少し気になることがありました。今日の授業では、皆さんは主体的は良いイメージ、依存的は悪いイメージをそれぞれ持っているようでしたし、わたしも割とそうでした。そして、わたしが主体的だなあとこれまでに思った人は、自分の意見をしっかりと持っていてリーダーシップをとってくれ、とても自分に自信のある人です。しかしその一方で、その他の人が自分の意見を言わせてもらえず(もしくは言いづらい雰囲気だったりして)我慢することになったり、はっきりと言われることで傷ついたりしたこともたくさんあるように思います。そういった場合、主体的であることが全面的に良いことなのか、わたしはわからなくなってしまいました。それは、ただ単にわたしが「主体的」な人のイメージをしっかりと持てていないのでしょうか?それともその場合には「主体的」な要素以外に、例えば「自己中心的」な要素などを併せ持っているからそう感じたのでしょうか?もし何か先生のお考えがあれば、お答えいただけると嬉しいです。
また再来週もよろしくお願いします。

(深美です・・・すみません。そういうイメージを持ってしまったことは、わたくしのもっていき方が悪かったのです。どういう事かと言えば、「主体的(具体的なイメージ)になりたい」とか「主体的(今日出してもらった具体的なイメージなど)をめざす」ということが肝心なことであって、依存的なあり様の存在を否定しているのではないのです。つまり、人間、生まれたときは全員が絶対依存の状態ですので、そこからどうなっていくか・・が問題なのです。
さらに進めますと、「しかしその一方で、その他の人が自分の意見を言わせてもらえず(もしくは言いづらい雰囲気だったりして)我慢することになったり、はっきりと言われることで傷ついたりしたこともたくさんあるように思います。」と書いておられますね。「はっきりと言って相手を傷つける」という姿は主体的な姿ではなく、攻撃的であり依存的な姿なのですね。それをどう見極めるのかは、「あなたメッセージ」で言っているか、「わたしメッセージ」で言っているのかの違いです。あなたメッセージは相手を傷つけますが、わたしメッセージは基本的には相手を傷つけません。しかし、これも相手がどうとらえるか、という相手の状態に大きく関わってきますので、相手が相当依存的な場合は、結果として「傷ついた」となるケースもあります。ねばり強い支援が必要な相手であると言えるでしょう。また、主張している人が依存的な場合は、おっしゃっている通り、相手を傷つけます。でもこのようなことも成長のプロセスのなかで起こってくることなので、成長途上の場合はいろんな問題が起こります。ただ、その結果をどう真摯にとらえて自分にかえしていくか、という発想に立てる人が主体的な人ではないでしょうか。ちなみに、わたしが今のような状態に立てたのは50歳を過ぎてからです。時間がかかるのですね。)
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深美先生 (G-RED)
2014-06-11 12:24:44
深美先生

おはようございます。

ふ、と思ったのですが、昨日のお話しでは、攻撃的―受動的/攻撃的―受動的の話を学校の生徒にあてはめたものでしたが、家庭に当てはめても昨日のような図になるのでしょうか。家庭といってもいくつかの形がありますからいくつかのパターンができそうな気もしますが。

(深美です・・・どこにでもあてはまります。学校であれ、職場であれ、サークルであれ、とにかく人が集まって、ひとつの枠組みのなかに人々が位置づけられれば、グループ形成を行うということです。いわゆる仲良しグループや、無原則なグループは、依存的なグループを形成しやすいですね。学校におけるいじめ、職場におけるいじめ、地域におけるいじめ、みなメカニズムは同じですね。)
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昨日のワークもありがとうございました。 (シータ)
2014-06-11 15:32:40
昨日のワークもありがとうございました。
振り返りを行い、それをシェアするということについて、子どもの頃を振り返ってみますと、私はそれが苦手な方だったなと思います。楽しかったことや良かったことよりも、失敗や後悔の方に目を向けてしまいがちになり、くよくよしてしまう自分を抱えなければならなくなるからです。「振り返る」ことは、それに慣れていないうちはとても勇気のいることなのかもしれません。子どもたちと振り返りを行い共有するときは、それを次の活動へとうまく繋げていけるように十分に配慮する必要があるように感じました。

(深美です・・・そうですか。ネガティブな枠組みだったのですね。でもくよくよすることはありません。ポジティブな枠組みに意識すれば代えることができるからです。ネガティブな枠組みに囚われると、相手もネガティブに見てしまいます。相手の欠点ばかりが気になるのですね。先日研修の最中に忘れていた言葉を思い出しました。「反動形成」です。反動形成は攻撃的になってしまうことが特徴なのですね。最近は、整形外科でも認知行動療法を扱う医者が増えているそうです。原因不明の腰痛の8割は、この認知行動療法で治るといいます。日々、日記のようなものをつけ、その中にある自分自身のネガティブな枠組みをチェックし、ポジティブな枠組みに書き換えるのです。ただそれだけです。三ヶ月ほど続けると、ネガティブな枠組みの文章が減っているのですね。不思議ですね。認めて意識化し、言語化すれば人間は自然とポジティブになれるようにできているのです。)
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 主体的、依存的の意味は私もイメージをつかんだ... (やまちゃん)
2014-06-11 19:07:21
 主体的、依存的の意味は私もイメージをつかんだだけなので、後でゆっくり言語化された本を読んでおきます、と書こうと思ったのですが、みんなのコメントを読んで予定変更します。
 主体的・依存的の後ろにどういう言葉が続くと自分なりの理解ができるか考えました。「態度・行動様式」はどうでしょう。「自我」にすると格好良いな。昨日2人で話しあうときに、主体的のイメージの中には自己中心的な側面は無く、自分と周囲の人との関係性や距離を保つことができる人を前提としました。もし、主体性・依存性とすると、一人の中に同時に存在していても良いように思います。実在する私は、主体的でありたいと願いますが、決して一面的ではないと思います。自分の中に両方あるから仕方なしに物ごとを考えるのだな、と思いました。楽ではないです。

(深美です・・・「態度・行動様式」、いいのじゃないですか。具体的な表れと言うことですから。ちなみにわたしは、そういうことを含めて「あり様〈よう〉)と呼んでおります。主体的な人「自己中心的な側面は無く、自分と周囲の人との関係性や距離を保つことができる」、そのとおりだと思いますよ。主体的な人は自己中心的ではありません。ちなみに、積極的であるとも言い切れません。ひとつの側面です。このような部分が世間では誤解を招いている部分でもあります。「唯我独尊」と言えば「自分勝手」と解釈されることがありますが、ほんとは、主体的なあり様の一側面なのですね。
主体性と依存性の共存、もちろんふつうにあることです。でも、それは「成長過程」であることを理解しなければいけません。もっと、もっと成長できるということです。)
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深美先生 (たっきー)
2014-06-12 11:11:50
深美先生

前回コメントしていたのですが確認ボタンと投稿ボタンを間違えて押してしまい、反映されていませんでした。すみません。今回も横軸関連だったのであわせて書かせて頂きます。
前回は横軸「地域性」について学び、学習の実態と地域性の関係に衝動を受けました。同じ日本においても気候や文化によって大きく教育情勢に格差があり、そういったものを理解した上で支援していかなければならないのですね。学習能力が低いからといってそこの地域性を変えるのではなく、良い方向に導いていってあげてほしいと感じました。
今回は横軸の続きの「主体的と依存的」について学び、新しい考え方だと思いました。主体的と言われ、良いイメージがありますが、悪い捉え方も考えられるのだなあと思いました。依存的であることは、受身的。また攻撃的。依存的=受身的=攻撃的の方程式は少し、ん?と思いました。受身的=攻撃的がイコールの関係だったからです。ここにモヤモヤが少し残りました。そして主体的な家庭環境で育った子は主体的に、依存的な家庭環境で育った子は依存的になり、学校現場においていじめは依存的なグループによって構成されているという事実に驚愕しました。依存的なグループには階級で分かれている故に力関係ができてしまっている。そして受身的で攻撃的の両方になる子がいて、その子たちを教師が言葉かけをして主体的な子どもを育てていくことの大切さを感じました。また反対に主体的な子が受身的・攻撃的になることもあるので、教師というのは授業だけでなく、しっかりと子どもを観察し、目的をもって支援していかなければならないし、私達も少しでも今の子ども達に伝えていきたいなと思いました。
人間関係においては、主体的な人もいて、依存的な人もいるからこそ、何か安定した関係を保っているのではないかなと思いました。皆が主体的だといさかいが耐えないかなと感じます。どちらも良い面はあると思うので、そういったところを伸ばして、悪い面はなくしていきたいなと思いました。

(深美です・・・そうですか。もったいないことでしたね。読みたかったです。さて、「依存的=受身的=攻撃的の方程式は少し、ん?」ってことでしたね。それと「皆が主体的だといさかいが耐えないかなと感じます。」ということでしたが、たぶん、タッキーさんは、主体的=主張的、積極的、と感じているのではないですか。主張的、積極的というのは主体的であることの一面ではあるのですが、主張的、積極的だからといって主体的であるとは限りません。むしろ、攻撃的な側面が前に出ている人の特徴であると言えるでしょう。大阪市長はその良い例です。主体的な人とは、ちゃんと自分自身を見つめ、自分の「身の丈」がわかっている人です。思慮深く、おとなしいように見える人でも主体的である場合がありますし、主体的な人は言葉少ないものなのです。なぜなら、言葉を選ぶ力も持っているので、あまり、余計なことを言いません。しかし、肝心なことはちゃんと主張します。結果、もめ事を起こすこともほとんどありません。今のこの社会では、多くの人が依存的な状態におかれています。それは、家や地域や社会のあり様がそうだからです。しかし、依存的なまま成長できないとすると、その人には常に「困難さ、難しさ」というものがついてまわるのです。攻撃的でもなく、受身的でもない、そういう人に成長していくことができるのに、その努力をしていないのですね。というより、そういうモデルがいなかったり、誰も導こうとしないからです。誰でも主体的になり、人間関係を調整し構築する力をもつことができるのに、その条件が極めて少ない、ってことなのですね。現に、ファシリテーションの研修を受けるには、安くて一泊二日で約3万円、企業研修であれば10数万円かかります。これって、不公平だと思いませんか。お金がある人しか、そういう機会にめぐりあえない。だから、学校や福祉に関わる人は、そういう力を養って仕事に生かしたらいいのに・・と感じているわけです。わたくしの仕事は、そのひとつです。)
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深美様 (ジョニー)
2014-06-12 11:46:00
深美様

先日は主体的・依存的というお話であり、納得させられることが多々ありました。
しかし、一点だけ疑問に思ったことがあるのですが、日本の社会における主体的な在り方の意義についてです。
日本というのは、諺にもあるように、「出る杭は打たれる」、「長い物には巻かれろ」という社会です。
ある程度の精神力や自立心、あるいは自信があれば、打たれたとしても、他人は他人!と割りきることができるように思います。しかし、特に小学生や中学生では、周りと同じことをすることが自分の居場所の安定に繋がっているのが現状です。
そうなれば、依存的にならざるを得ない状況なのではないでしょうか。
もちろん、理想は個々が主体的に在ることですが、日本という社会が、あるいは、学校という社会がそれを許していないように感じます。
同族意識が強い日本では、主体的な人ほど叩かれる傾向があるように感じます。
叩かれないようにするには、結果が必要。
しかし、結果というのは万人が得られるものではない、そういう現実を感じ取っているからこそ、日本は受身的な人が多く、同時に、主体的な者を避難する攻撃的な人が多いのだろうな、と考えました。

他人は他人、そう私が意識できるようになったのは、つい最近のことです。
日本という社会で、このことが意識できるようになるには、ある程度の年齢や経験をしないことには意識するきっかけが掴めないように思います。(特に小学校、中学校では依存的で在ることが自分の安定につながる、出る杭は打たれるという意識があるため)
そのため、いかに低年齢のうちから主体的であることの利点を意識させられるか、そこが問題点なのかな、と考えました。
社会的・文化的な背景をもってくると、ただでさえ難しい問題が余計に難しくなるのですが、ひとつの意見として聞いていただけると嬉しく思います。

不安定な天気が続きますが、再来週も皆で元気にお会いできることを楽しみにしております。

(深美です・・・はい。おっしゃるとおりです。生活している社会、地域によって人々のあり様は規定されます。マズローの五段階欲求説でいえば、紛争地域の人々は1段目、2段目の攻防ですね。2段目の安全の欲求が満たされないからです。この国であれば、3段目より上の攻防でしょう。愛と承認、所属のレベルです。なので、成熟社会に向かっているなら4段目、5段目の人たちが次々と出現しているはずです。4段目はセルフエスティームのエスティームの段階ですから、いわゆる「幸せ」を感じている人たちです。5段目の自己実現の欲求は、ネットから引用しますと、

1.現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ
2.自己、他者、自然に対する受容
3.自発性、単純さ、自然さ
4.課題中心的
5.プライバシーの欲求からの超越
6.文化と環境からの独立、能動的人間、自律性
7.認識が絶えず新鮮である
8.至高なものに触れる神秘的体験がある
9.共同社会感情
10.対人関係において心が広くて深い
11.民主主義的な性格構造
12.手段と目的、善悪の判断の区別
13.哲学的で悪意のないユーモアセンス
14.創造性
15.文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越

ふむふむ、と納得のいく特徴です。マズローすごいです。五段階欲求説は1980年代からの脳科学の知見にも合致するなかみなので、彼の先見性はたいしたものだなぁと思います。また、機会があればやりますね。
つまり、今の日本では、第3段階目が満たされていない人が「依存的」であると言えるでしょう。割合的には多くの人がその状態に置かれています。
わたしの経験で申し訳ないのですが、叩かれて攻撃されても、自分の力を発揮し、人の話を聴き、方向性を打ち出し、賛同する人を増やしていけば、何事も克服できると経験的に感じております。
もし、そんな人が学校の先生であれば、子どもは不幸にはなりません。先生の姿を見て、「こんな人いいなぁ、自分もなれるかも・・」と感じてくれるはずです。いじめは、起こっても必ず解決できます。いじめを解決できない、と感じている人は、克服したことのない依存的な状態の人なのでしょう。そんな人こそ、さらに成長してほしいのです。ちなみに、わたしは、60歳近くなっても、日々、成長していると感じています。)



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深美先生 (パズー)
2014-06-13 23:59:58
深美先生


 先日の授業、ありがとうございました。

 主体性と依存性について常々思うことがあったので、それを好き放題言わせてもらえて非常にスッキリしました。スッキリしすぎて、感想があまりでてきません。すいません。勝手にスッキリしてしまっていることもすいません。

 日本において主体的に生きることの難しさ、また、それを現行の学校教育の中で育てていくことの難しさは、本当にあると思います。それについては、ジョニーさんが熱く語ってくださっていますので、譲らせていただきます。
 
 ところで、先生のジョニーさんへのコメントにありました、「叩かれて攻撃されても、自分の力を発揮し、人の話を聴き、方向性を打ち出し、賛同する人を増やしていけば、何事も克服できると経験的に感じております。」という言葉についてですが、これはすごく大きな感銘を受けました(月並みな表現で申し訳ありません)。自分はそれなりに主体的に生きてきたとは思います(もちろん、すごく依存的だった時もいっぱいありますが)し、これからもそれを変えることはないだろうな、と思います。また、いろんな人に、主体的にいきる、ということの良さを伝えていけたら、またそうすることで、少しでも多くの人が、自分が納得の行く人生を進めたらいいな、と考えています。(おこがましくない程度に、ですが・・・)。その反面、主体的にいきる、ということについては、「自分は目立ちすぎていないか、独りよがりなんじゃないか、的外れなことをいっているんじゃないか、自分がする必要はないんじゃないか、自分には何もできないんじゃないか、小さくなって生きている方がいいんじゃないか・・・」と反動で悩むことも多いです。また、色んなストレスやプレッシャーの渦中にいるであろう小中学生と接していると、この子たちに「主体的に生きや!」と伝えることがどれほど残酷なことなのだろうか・・・と尻込みをしてしまうことも多いです。というか、そんなことばっかりです。これは、ジョニーさんが書いてらっしゃることにもつながります。
 ですが、やはり、嫌なことは「いや!」と言いたいですし、いいな、と思ったことは「それいいね!」と言いたいです。変えたいものは変えたいですし、どうにかできるものは、どうにかしたいです。ここらへんに、私の主体性というよりも自己中さが染み出ているなぁ、とたまに思います。ですが、自己中でもなんでも、それで救える人がいるなら、それでもいっか!と考えてもいます。また、色んないやな思いをしても自分を貫いたことは、今の私の誇りというか、自信にもつながっていると思います。(もちろん、思い出して頭を抱え込みたくなることも多いですが・・・)先生がおっしゃる通り、いじめ防止にも役立つなら、それはもう是が非でもやらなくてはいけないことだと思います。
 そんな風に本当にできるかはわかりませんが、いつかは、「それでええんやで!」と胸をはって言えるようになりたいな、と思いました。

(深美です・・・昨日、東京へ行ってまして、なおかつ、ベロベロに酔ってましたので、お返事遅くなりました。申し訳ありません。さて、依存的と主体的の連想イメージをだしてもらっていた時点で、バズ-さんは「検討の余地ありやな」とおっしゃってましたので、たぶん、会得されているんだろうな、と感じていました。主体的であることについて、わたしは「主体的であってほしい・・」というように、お題目的に言ってしまうことは、ほとんどありません。主体的ということは、実は具体的な行動や態度として湧出するからです。わたしは「主体的」という言葉を頻繁に使われている方で「主体的な人」に、ほとんどお会いしたことがありません。お題目を頻繁に掲げることは、逆に危険なのです。依存的な自分の要素を覆い隠してしまうからです。「人権」という言葉を頻繁に使う方が人権意識が高いとは限らないことが多いことと共通性を感じます。依存的な人に、具体的な現れを言葉にしてあげて、「それは依存的ですよ」とフィードバックを返すことのほうが大切です。数少ないわたしの人生相談の経験からも、ヒットする言葉はそういう言葉です。相手が「ストンと落ちる」という感覚になることがあるのですね。そして、そういう言葉を返せる人というのは、自分自身が成長としてクリアしているということなのだと思います。わたしは、ADHD傾向がある人間ですから、人とのつながりを、そんなに重視しません。ですから、「自分勝手」とか「利己的」と感じられるケースも多かったです。しかし、人とのつながりを重視しない、ということは、まわりとの煩わしい、無駄な、あるいはマイナスの関係性を無視することができるのですね。まわりに引きずられることは、まずありません。よって、口数も少ないですけど、原則を押し通すことができます。肝心なことを端的に表現することができます。こんな自分の良さに気づいたのは、特別支援でADHDのことを学んでからです。マイナスではなく、プラスの要素であることに、はっきりと気づきました。今までの自分を、クリアに自己認知することができました。そうなると、人への配慮とか、相手の気持ちを想像するというとが、ウソみたいにできるようになったのですね。おもしろいでしょ。自己認知の力だと感じています。)
 
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深美先生 (パズー)
2014-06-15 19:25:20
深美先生

お返事ありがとうございます。

お返事にありました:

①「わたしは『主体的であってほしい・・』というように、お題目的に言ってしまうことは、ほとんどありません。主体的ということは、実は具体的な行動や態度として湧出するからです。・・・お題目を頻繁に掲げることは、逆に危険なのです。依存的な自分の要素を覆い隠してしまうからです。」
②「依存的な人に、具体的な現れを言葉にしてあげて、『それは依存的ですよ』とフィードバックを返すことのほうが大切です。」

の二点について、思うところがありましたので書かせていただきます。

 まずは、①について。私は、この意見に賛同です。というか共感します。なんというか、こういうこと(ここでは、主体的であること、です)は言葉にした時点で、それが死んでしまうんだろうなと考えるからです。うまくはいえませんが、「言う事によって、自分はそうしていると錯覚できる、安心できる」といった感覚でしょうか・・・。口でいうだけなら、なんとでもできる・・・と言いますか。結局は、実行していないと、意味がないのだと思います。特に、子どもは周囲の人間を、大人以上に観察している節があると思います。特に、言葉による表現が大人ほど発達していない分、その人の雰囲気や行動をすごく見ているな、と感じる時があります。そんな時、言葉でどれだけうまいこと言っても、行動と不一致を起こしていると、簡単に子どもに見放されてしまいますし、悪い場合は、「大人もしているんだから、僕たちもしていいよね」となってしまうと思います。それが、依存的な子どもの成長を助長してしまうのかな・・・と考えます。子ども達の前では(もちろん普段の生活でも、ですが)、筋を通した行動ができるようになりたいな、と思います。こういう時に、「子どもたちに恥ずかしくない生き方をする」という言葉はピッタリですね。

 次に、②についてです。①についてお話したような行動の一貫性、というか主体的に生きるにはどうするべきか?これはフィードバックが大切なんだろう、と思います。子どもたちにおけるフィードバックは、深美先生が以前授業でおっしゃられた、先生からの適切な細かいフィードバックがすごく有効なんでしょう。また、それなりに主体性が育っている子どもたち同士が、お互いに影響しあうことも、フィードバック的な作用があると思います。先生同士でしたら先生同士、臨床心理士は臨床心理士、またはこの垣根を越えた広がりがあってもいい。ここまで考えて、なんとなく、深美先生がやってらっしゃる活動の目的の一端が見えたような気がします。「フィードバックが行い易い輪を広げる」・・・先生は、「ストンと落ちる人」を増やす活動をしてらっしゃるのかもしれませんね。(的を得てないなかったら申し訳ありません。)

 抽象的な表現ばかりになってしまいました。言葉にしすぎたので、これから暫くの間は黙ろうかな、と思います。

(深美です・・・黙っていただかなくて結構ですので、どうぞ、ありのままで。ふれていただいた2点については、そのとおりです。1点目はぶれないということ。どんな局面でも戦術的な違いはあっても、コアはひとつなのです。何事にも、むやみに突進するものではありません。認知力を駆使して、最善の方法をとります。2点目につきましては、俗に言われている言葉で表すと「弱点を消す、克服する」ということです。こうすることにより、自然に主体的になります。強い人は、これを自分一人でやってしまいます。まわりの様々な要素からフィードバックを感じ、認知力をフルに発揮するということです。ですので、支援というものは、このお手伝いをすることなのですね。なので、「・・・・・は依存的に感じますよ」という言葉を使うのかな。いろいろまとめていただいて、バズ-さんのフィードバックを、さらに自分の糧としています。ありがとうございます。)
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深美先生 (キャシー)
2014-06-19 10:56:35
深美先生

先日はありがとうございました。感想が大変遅くなり申し訳ありません。
遅ればせながら投稿させていただきます。

先生のおっしゃる通り、クラスの中にいじめがあった場合、参加体験型授業をして、振り返りをしっかり行い、子どもの心をきちんと見つめていると、ひとりひとりが主体的なあり様に変化してきて、いじめが少しづつなくなっていくと思いました。

ふと、そこで私の子育てを振り返ってみたんです。
私は、主体的な生き方のできる子どもにしようと、努力してきたつもりでしたが、まだまだ中途半端な面が多々あった、今もあることに気付くことができました。

先日の授業と、そして、ジョニーさんの感想に対しての先生のコメントを読ませていただいたのがきっかけです。そのコメントは「わたしの経験で申し訳ないのですが、叩かれて攻撃されても、自分の力を発揮し、人の話を聴き、方向性を打ち出し、賛同する人を増やしていけば、何事も克服できると経験的に感じております」というものでした。

私自身、主体的でありたいと思うのですが、叩かれたり、攻撃されたりすると、すぐに引っ込んでしまう自分がありました。それは、私の生活環境への適応的な態度だと思っていましたが、依存的なあり様から主体的なあり様への成功体験の少ない私は、子どもたちのモデルにはなれていなかったと気付いたのです。きっと、独りよがりの中途半端な「主体性」をわが子に押し付けていただけだったのではないかと、反省させられました。

こんな母親ですが、わが子は、自分で考えて行動できる、主体的なあり様の人になりつつあると思います。その分、今までも、今も、確かに叩かれることが多いです。そんなわが子を見ていると、「なんでこんなにしんどい生き方をするんだろう」と、自分の中途半端な子育てを棚に上げて、思うことがしばしばでした。

でも、この子はこれでいいんだ。と思うことができました。主体的であろうとするからこうなんだ。これを支えることが私の仕事なのだと、気付きました。

社会で働くようになったわが子ですらこのようにサポートが必要なのですから、これから成長していく、まだ「力」のない子どもたちが主体的なあり様になり、その良さを体で感じるためには、サポートをする側にそれなりの覚悟が必要と感じます。

先生の授業を受け、主体的なあり様を身に着けた指導者がひとりでも多くなればいいなと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。

(深美です・・・そうでしたか。子育ては難しいですね。でも、お子様がしたいことに取り組む生き方をされているのであれば、まちがいなく大丈夫です。むしろ、「なんでこんなにしんどい生き方をするんだろう」と見えていても、ほんとうは逆なのかもしれません。やきもきするのは親だけなのかも・・。主体的なあり様というものは定番の形はありません。なぜなら、成長は無限だからです。いつまでたっても途上なのですね。そして、それが楽しい、充実したものなのです。子どもは、おしなべて依存的です。それは、子どもだからです。ただ違うのは、主体的な姿を理想とするかどうかです。そのモデルが大人であればいいのですね。)


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お返事をいただいていたのに、すっかり遅くなって... (チェリー)
2014-06-24 00:00:17
お返事をいただいていたのに、すっかり遅くなってしまってすみません。先生のお返事を読んで、きっとわたしが考えていた人もわたしも、まだまだ依存的だったんだなと感じます。主体的であるためには、自分を高く評価しすぎても低く評価しすぎてもだめで、しっかりと自分を見つめられることが大切なのかなと思いました。お返事ありがとうございました。明日も楽しみにしております。
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