川柳の仲間 旬のブログ

長野県伊那市を中心にした川柳の仲間です。ややガラパゴス気味。

「旬」219号より

2018-10-15 03:14:07 | 川柳日記
こんばんは。ラッシャー木村ではありません(←誰もそんなこと思っていないよ)
今日はこのナンバーから。



さて、すっかりご無沙汰していましたが、久々のブログ更新です。
もうタイミングを完全に逸してしまったのですが、同人誌「川柳の仲間 旬」219号をダイジェストでお送りします。

 まずは同人の自由句から。

   八月のホタル  大川博幸
  ホタル火を怖るるこころ八月尽
  ホタル火が川を越えられないようだ
  ホタル火や毒薬劇薬どっち飲む

   破片  千春
  蛍の光ですか はい吐息です
  「私は葱で」丁寧に打ち明けた
  薔薇の町君の悲鳴がとどいたよ

   41.1度  小池孝一
  姿勢を正す煎べい布団所望
  托鉢の気分で風をもらい浮け
  続編やきょうも誰かが墓まいり

   夏の市  樹萄らき
  闇市で光ったものは親知らず
  闇ですからねえどの次元にします
  捨て置け 救えるほどの闇だ

   公民館の裏  桑沢ひろみ
  手をつなぐこともないけどバラが咲く
  バラ園で迎えに来ない人を待つ
  おはようってバラひきちぎり生きていく

   クールシェア  竹内美千代
  月曜から箒が重いのは何故だ
  「あなたには聴いてほしい!」がまだ言えず
  クールシェア 布団並べてうろたえる
  
   猛暑  池上とき子
  ドレミファで言えば体調「上」どのあたり
  好きな町好きなだけ歩いて日が暮れる
  暑いから暑い緑茶を飲んでいる

   禅〈ゼン・ガン〉銃  川合大祐
  電算機母の生前葬熱し
  慶喜のクローンならべ夏季五輪
  採尿で国が敗れたことを知る

   蜂の巣がある田舎
  野焼け顔親族たちの蜂が刺す
  頑固です家紋を守る老母も蜂
  青空をもらいながらも出た都会

課題句「見逃す」採点発表(上位四句)
  見逃した桜しまってある記憶  孝一/7点
  イケメンを見逃した日のきつねそば  ひろみ/7点
  たくましくなって帰ってきた微罪  博幸/6点
  蝶の羽化最終回を見逃した  千春/6点

 その他、博幸さんの「川柳8コマまんが道」。シュールな状況と個人の趣味がハイブリッドされた笑い。
 川柳鑑賞の頁「ストリーム」は今回、美千代さん。「旬」の個性的な(ばらばらな、とも言う)個性溢れる一句一句に真剣に向き合ってくれて、感謝です。
 エッセー・創作の頁は「DAN−DAN心惹かれてく」川合大祐。恥を晒してます。「最短」樹萄らき。泣けばいいのか笑えばいいのか。「邂逅」大川博幸。現代社会に対する怒り、特にエロサイトを見たくても見られないことに憤りをぶつけてます。それから千春による詩四編。この人は詩人だ。
 「旬のコーヒータイム」丸山健三は今日も通常運行です。

 そんなわけで薄い本(36頁)ながら、内容は異様に濃い号となりました。あ、いつもか。
 みなさん、実際に読んでみたいと思いませんか。ほーら、手の届く距離にありますよー。コメント欄でご連絡くださればお送りしますよー。今なら鯖の缶詰付き(噓です。ついてません)。
 という宣伝をしつつ、「旬」219号のダイジェストをお送りしました。  
 
 いつも更新怠けていてすみません。これでも忙しい身なので、怠けるときは怠けたいのです(逆ギレ気味)。
 今、朝刊がポストに入る音がしました。おはようございます。それではみなさん、またいつか〜。
(川合大祐)
 
  

  
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「旬」217号より

2018-06-13 09:53:13 | 川柳あれこれ
こんにちは。
地球は回る君をかくして回る回るよ地球は回る。更新してない間に地球回りすぎだろう(責任転嫁)。
そんなわけで、またブログ書くのさぼってました。ごめんなさい。

今日はこのナンバーから。



と、いうことで遅くなってしまいましたが、「川柳の仲間 旬」217号(2018年5月号)より、ダイジェストで。

   「鏡の国」 川合大祐
  緑川光と老いる宇宙都市
  寂聴の毛を剃る仕事歩合制
  呆然と皇帝になる月の髪
  平和都市美輪明宏の潰す蠅

   「桃色」 桑沢ひろみ
  一人夜に残酷な桃色を抱く
  たんぽぽが赤紫に塗られていく
  くちびるも爪も冷たい花の中
  みずみずしい細胞だけ上を向く

   「少子化、増動物化」 大川博幸
  学校の意識まだある校舎かな
  キツネ力尾にたくわえて狐です
  閉校や二宮金次郎像に修復の跡
  空を飛ぶ白鷺以外は 曇り

   「桜咲く」 池上とき子
  明日までは待てぬ手紙を出しにゆく
  花ぐもり今にも何か起こりそう
  結び目を探しつづけて濃く生きる
  いろいろの橋をわたって今一人

   「すぃ〜つと」 樹萄らき
  あーもーやだキミのことばのカマイタチ
  「だるまさんがころんだ」んだぞ「ころべば」
  やさしくねやさしく首を絞めて暖
  ポタポタと涙出目金から涙

   「発車オーライ」 小池孝一
  謎解きへようこそと春顔を出す
  つぶやき囁き土筆タンポポ俺はここ
  振り向いてみるとやさしいされこうべ
  どこまで納豆混ぜるの さあなあ

   「マイチョイス」 竹内美千代
  中天の月に供える歌がある
  バス電車バス徒歩駆使の夢見坂
  十二足す十足す八がフ!二時間
  祈り下手それでも祈る祈るしか

   「苺臭」 千春
  病んでいる人だがすごい苺臭
  五秒後にあなたがゆずる春画です
  恥じらって下さい洗濯機がおかわりします
  雪の音遠くで聴導犬を呼ぶ

   「よーいドン」 丸山健三
  階段を昇るリズムを温める
  拝啓と書いたら澄んだ水の音
  あぜ道がたわわと言った生きている
  若者の発芽わたしも窓を拭く

・・・いかがでしょうか。皆さん凄いですね。
川柳とは、つまるところ「愛」なのです(ホントかなあ)。
今日は別れた恋人たちもあのどれかひとつに君がいるから。
↑もうええわ。

「もっと読んでみたい」というかた、連絡受け付けています。
川柳は楽しいですぞ〜。
(川合大祐)


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2018年4月、雪もなく

2018-04-09 20:21:28 | 例会報告
Hey you!
今宵もゴキゲンなアワーのビギニングだぜ!
オープンはこのミュージックだ!



と言うところでリスナーからのホットなレターだぜ!
長野県伊那市にお住まいのラジオネーム・樹萄らきさんより。

「このところ『川柳の仲間 旬のブログ』が全然更新されてなくてさびしいです。
ていうか、今まで甘い顔してきたけれど、いい加減なにか書きやがれ」

……はい、すいません。
一月からほっぽり出してましたね。
しかもしょっぱなからナイン・インチ・ネイルズの〈Hurt〉、川柳とは何の関係もありません。
かえずがえすもすみません。
というわけでちょっと頑張ってみます。

本日(4月9日)、川柳の仲間・旬の例会がありました。

千春さんの、たとえば、
 
  陽当たり良好隠している熊本県のぱんだ

などの句をめぐって、なかなか熱い激論が交わされました。

「自分の句の世界を追求するのは悪くないと思うんだがな、読者、がどう思うかな。
俺たちみたいに数十年川柳をやってきた人間でも、意味がつかめないんだから、
川柳を知らない人が見たら、何が何だかわからないんじゃないか?」

とは、小池孝一さん。

うーん。これはどうなんでしょう。
その場では私は言えなかったけれど、川柳に「純粋読者」ってどれだけいるんでしょうか。
実作者数>実読者数であるのが、いまの川柳の現状ではないでしょうか。
それについて、憂うべき事だと、私は思いません。
ただ、「読者論」が成立しない世界なのではないかとは思います。
川柳は確かに、一時期は大衆の文芸であったのかもしれない(あくまでも、かも、です)。
しかし今、「大衆」という概念自体、タガが外れてしまった。
何か共通項を持つ人々が彼女ら彼らのみで集合する事態を、良く、「小宇宙化」などとも言われますが、その言葉にはやや疑問符を付けたいところです。

過去未来にわたって、「大衆」というものは存在したことがなかったのではないでしょうか。

何かを好きな人が、好きなコミューンを作る、これは人間が「文化」を産み出す余裕を持って以来、本来のかたちだったのではないかと思います。
それが顕在化している(ように見える)のは、逆に「小宇宙」が他の「小宇宙」と接触をはじめて、「あ、俺たちって小宇宙だったんじゃん」と意識をするようになっただけのような気がするのですよ。

まあ、これはここで論じるには壮大すぎるし、私にはそんな頭もないので、この辺で止めにしておきます。

何の話でしたっけ。

そうそう、千春さんの句をめぐってでした。

私個人としては、これは千春さんの句としては、特に優れた句だとは感じませんでした。
(と、書いたら、同居人である彼女から回し蹴りが飛んできました←噓をつくな)

ただ、難解な句だとは思わないのですよ。
読者と大衆はイコールではない。
けれども、「大衆」というものが存在しないと同時に、「読者」もまた存在しないのではないでしょうか?
少なくとも、川柳において「純粋な読者」というものが存在しないのならば、作者と作者同士がぶつかり合って火花を散らし、そこから新しい何かが産まれて来ると、私は確信しています。
この生産活動をもたらすならば、実作者数>実読者数という構図も、まんざら悪いものではないという気がします。
みんなが作者、それでいいのではないでしょうか。
その点から見ると、千春さんの掲句は、まだ摩擦が足りないのですよ。
帰宅と同時に、「わたし、今日の合評会で低評価だった……」と落ち込んでいましたが、そこで落ち込んでいる場合じゃない。
もっともっと火をつける句を作るんだ! 立て、立つんだジョー! みんなの頭をとことんまで悩ませろ!
別にパートナーだから言ってる訳じゃないですよ。
千春さんの句が面白くなってきたから、煽動しているだけです。

そういえば孝一さんはこんなことも言っていました。

「大きな大会に出しても、何か物足りない。
 かといって、千春ちゃんや大祐のようなマニアックな世界も何か違う。
 俺はいったい、どこを目指せばいいのか、ちょっとわからなくなってる」

孝一さんもまたひとりの作者として、模索を続けています。
みんな、がんばれ!
答えは出ないかもしれないけれど(と言うか、答えが出てしまったらそれで終わり)、問い続けることもひとつの答え!
半分、青い!
時事ネタに走ってすみません。

でも真面目な話、このブログの「読者」であるあなた、あなたはどう思います?

  一緒に泣いて啄木鳥に電話する  千春
  不死鳥の不を丹念に書いて寝る  大祐
  何もかも所詮とすれば形がつく  孝一


(文責:川合大祐)
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2018年、旬、始動。

2018-01-15 21:54:19 | 例会報告
あけましておめでとうございます。
今年も「川柳の仲間 旬」をよろしくお願いいたします。
……って、もう何回も言ってますね。

「それはそれ。これはこれ」(島本和彦『逆境ナイン』)

というわけで本日(2018年1月15日)新年になって初めての例会がありました。
その様子を簡単ながら。

〜「川柳の仲間 旬」No.215 より合評会〜

場所:伊那公民館
出席者:丸山健三、小池孝一、樹萄らき、千春、川合大祐

丸山健三作「春の出会い「銀嶺と初日の出」」への評。
  ツツツツツプライドもなく啜るそば
・この句への評価が一番高かった。
「〈ツツツツツ〉がそばを啜る擬音として使われたのは例がないのではないか」(らき)
 
「〈ツツツツツ〉という表現は、ある種のプライドを捨てなければ出来ない。まさに形式と内容が一致した句。また、〈啜る〉は〈ススル〉であり、ス、の音の連続であると同時に、漢字の啜も、〈ヌ〉の反復と読める。面白い」(大祐)

  のんびりとしてはおれない犬が飛ぶ
「ドンちゃん(健三が昔飼っていた犬)が今でも健三さんを呼んでいるのかな」(千春)

  日いちにちいちにちの飛は火と秘の非
「この〈ヒ〉に意外性と文学性がある。健三さんの挑戦心がわかる」(孝一)

・その他、〈一連の稜線を描く春の筆〉の力強さ、〈出会いとは歓喜でっかい太陽さ〉のスケールの大きさ、懐の深さを挙げる声があった。また、連作10句の頭の音を拾っていくと、一つの文章になる。こうした試みを健三はもう二年以上続けている。そんなことをしているのは日本で彼だけ、と評価が高かった。反面、今回は「ぎんれいとはつひので」になるべきところを、「ぎうれいとはつひので」になってしまったのが惜しまれる、と言う評もあった。


樹萄らき「飴売りの声」への評。
  夜明けには貧乏神とするニヤリ
「微笑、でもなく苦笑、でもなく〈ニヤリ〉であるところに、句の広がりを感じる。〈揺れている今日も明日も苦笑い〉の苦笑いと対応しているのかもしれない」(大祐)
「〈夜明けには〉が面白い。これがなければ普通の句になってしまっていた」(千春)
「らきの原点であると思う」(孝一)
「〈ニヤリ〉が面白い」(健三)

  身の丈に合った一首はどれでせう
「どれでせう、と旧仮名遣いにより、万葉古今の世界を彷彿とさせる。おそらく日本文学の財産が、一句に凝縮されているのではないか」(大祐)
「優しい感じがする」(千春)
「歴史というものを感じる」(健三)

  よーそろーおもかじいっぱい わっ どぼん
「文句なしに好き」(孝一)
「人生の価値というものだな」(健三)
「年末年始の句だから、七福神の宝船を想起させる。その船が沈没する様を、〈わっ どぼん〉という、何も言っていないのに等しい表現で表している点が凄い」(大祐)

  正座する死に神どうも頼りない
「らきさんは体が弱いけれど、死に神は憑いていなさそう」(千春)

  あの人は笑顔だ何がそうさせる
「良い句」(健三)
「らきっぽくないところが良い。何か変わろうとしているのかな」(孝一)
 
・その他、〈ひとつとせ重ねていこう子守唄〉を、子守唄が必要とされない年齢になっていくのに、子守唄を重ねる矛盾が面白いとの意見もあった(作者本人からはその意図はなかったと否定された)。〈疲れてはコーヒーを飲み目をそらす〉〈揺れている今日も明日も苦笑い〉にも高い評価が。また、連作のタイトル「飴売りの声」に詩情をそそられる、懐かしさを覚える、などの高評価あり。また、〈あの人は笑顔だ何がそうさせる〉については、「樹萄らき」の作品としてはやや普通の川柳に過ぎて、この連作の中では弱いのでは、という意見もあった。


川合大祐「あしたのアシカ」への評。
  AMを飯島愛が受信する
「飯島愛というところで、この連作中では比較的読みやすかった。ていうか、他のはまるでわからん。何か言いたいのはわかるけれど」(らき)
「飯島愛って、亡くなってたの!?」(千春)

・健三、孝一からも、連作を通して、「よくわからない」という評多し。「自句自解をしてくれ」ということで、以下の通り。

  ふたりいて無意識二つ佐渡に蟻
「無意識の領域だから、つながっていないようでつながっている〈佐渡〉と〈蟻〉というモチーフを選んだ」(大祐)
  
  木隠れの森鷗外の生殖器
「鷗外の本名は森林太郎。したがって鷗外と言う名で「木」を隠すのと、鷗外作品で〈性〉をモチーフにした物のイメージをだぶらせた」(大祐)

  兵隊のひとりがおどる文具祭
「ペンは剣より強し」(大祐)

  半島に自慰くり返す医師の家
「ブラック・ジャックです」(大祐)

・なお、〈生殖器〉〈自慰〉という言葉を使っても、あまり嫌な言葉に感じないという評あり(らき)。全体として、「何故この下五なのかわからない」という評多し。まあ、いつもの大祐である。


……と、いうところで公民館の利用時間切れ。
まあ、こんな感じでいつも合評会やってます。
続きは来月の例会で。
このブログでも、できたら来月の分、報告できたらいいなあ。
できると言って下さい。やれる子だと言ってください。褒められると有頂天になって自滅するタイプです、私。
出席できなかった方の評も、もしできたらブログ上でやりますね。
今年も温かい目で見守ってやってください。
(文中敬称略・文責:川合大祐)


おまけ
今年最初の一枚。


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「旬」214号より ストリーム(その3)

2018-01-05 11:44:10 | 川柳鑑賞
これでひとまず終わりです。
ふう。

  *  *  *

動くのはひとつだけメリーゴーランド  桑沢ひろみ
 あまりにも不思議な光景であろう。
 言うまでもなく、「メリーゴーランド」の木馬のひとつだけが動くことなどありえない。しかし、ありえないことを描写するのが川柳である。そこに不思議はない。
 ここで考えたいのは、この句の主体が何か、ということである。「作者」という主体がいて、それがメリーゴーランドを見ているのか。あるいは、「メリーゴーランド」が主体で、それが動く時間を表現しているのか。
 そのどちらでもありえるような気もするし、どちらでもないような気もする。
「主体が存在しない」という情景を作り出すことができるのが、短詩型の、特に川柳の特質であるのではないか。
 そのあたりの「わからない」点で、この表現はうつくしい。うつくしく、不思議な句であろう。

「トイレ行きたい。かわりに行って?」「いいよ」  千春
 この句に関しては、私情を挟ませていただきたい。申し訳ないことに評にならない。何故かというに「いいよ」と言ったのは、私、川合大祐自身だったからである。これ、一〇〇パーセントの実話なんである。石を投げないでください。
 そんなわけでこの状況がありありと目に浮かぶのだが、少しそこから離れてみよう。「トイレ行きたい。」と言っているのは、作者と読むことができる。それはなぜか。これがこの句の「わからない」ところである。何も手がかりがないのに、なぜ読者は「トイレ行きたい」のが「千春」という作者の意思だと読むことができるのか。
「千春」という作者の名前が、テクストに作者の情報として織り込まれているからか。もっと言えば、「千春」というキャラクターが、この句の前提としてあるからと言えるかも知れない。キャラクターが句を成り立たせる、というのはあらゆる文芸作品に共通する現象なのかもしれないが、短詩型においては、川柳と短歌にそれが顕著な気がする。
 そういう意味で、この句の投げかけた問いは大きな意義があるだろう。というところで「千春」のパートナーである立場に戻ると、千春さんはこういう人なんである。

物語そしてを待ってくださるか  小池孝一
 たとえばこれは、「わからない」句として読むことはできるだろうか。
 作者は、常に「明解で深い」句を作り続ける力量を持った人である。「明解」というのは、ある程度の技量があればできるかもしれない。だが、「深い」というのはどこから来るのか。私は、「深い」とは、「わからない」部分がどこかに穴を開けている、あるいは心臓のように内蔵されているからではないかと思うのだ。
 掲出句、「物語」が何の物語であるかは、読者の読みに任せられている。ここにたとえば「あなたの人生の物語」を読み取ることも、「はてしない物語」を当てはめることも可能だろう。しかしそれは、何をもってしても、正解に辿り着くことはないのだ。逆に言えば、ありとあらゆる解が正解だから、そこに辿り着くまでの道は、無限に長い。
 だからこそ「そして」というこの句の肝である言葉が効いてくるのではないか。無限の物語の海で、一瞬の息継ぎのような「そして」。
「そしてを待ってくださるか」と作者は言う。誰に対して言っているのか、よく読めば読むほど「わからない」という事実が大きくなる。しかし、だからこそこの句には無限の広がりがあり、「深い」という重力を発生させることができると思うのだ。私はこの句に敬服している。

アートです稲穂に神が手を触れる  丸山健三
 言うまでもなく、連作の頭部を拾って行くと「あるときわこめのめし」(ある時は米の飯)になる仕掛けがしてある。
 この縛りは、時として予想外の句を産み出す。
 掲出句、一見意味が「わからない」。「アートです」と言う言葉が、句の流れから見ると、突出しているように感じられるからだ。しかし、それがゆえに、この句には、読み手の頭脳を眩惑させるような、不思議な感覚を与える力がある。
 それがなぜかと考えるに、無理がある、からではないか。自らを「あるときはこめのめし」で縛ることによって、逆にもっと自由な文芸の広がりを開拓しているのではないか。この作者が「縛り」をするようになって、実感する。
 なお余談だが、多行の冒頭、あるいは斜めを読むとひとつのフレーズになる、というのはインターネットの掲示板でもよく使われる手法である。そういった同時代性とリンクさせて考えても面白いかもしれない。

 以上のようにして読んできた。最後に断っておくが、私は「わからない」ことを否定したいのではない。「わからない」の中にどれだけの可能性があるか、そのことを読み解きたかったのだ。それが上手くいったかどうか、私のこの評自体が「わからない」ものになってしまったのではないか、おののきつつ、そこに可能性があることを願って、擱筆する。
(川合大祐)
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「旬」214号より ストリーム(その2)

2018-01-05 11:41:23 | 川柳鑑賞
そんなわけで第二部です。

  *  *  *

こつこつといつか笑える石つかむ  池上とき子
 これは、「いつか笑える/石つかむ」と読むべきなのだろうか。確かにそのほうが意味が通りやすい。ここで切ったほうが、余情も滲む印象がある。
 だが、あえて私は「笑える石」という「石」の描写として読みたい。「笑える石」とは何なのだろうと、ふと立ち止まる。いったいこの石とはどんな石なのだろうと、わからないから、読み手は想像力を試される。
 それがどんな想像なのか、ここでは書くまい。評として失格ではあるかもしれないが、私の貧しい想像力を吐露したいのではなく、「わからない」ことの可能性をこのストリームでは示したいからだ。
「笑える石つかむ」。
 このフレーズには、やはり広大なひろがりがある。それを「こつこつといつか」。この長い道のりを、幻視させられる句だと思う。

手洗いの洗濯物が手招きす  竹内美千代
 良い意味で、明解な連作である。だがここで、「わからない」というフィルターを通して見ればどうなるか。
 たとえば掲出句に何か「わからない」ところはあるだろうか。まず言えるのは、「洗濯物が手招きす」という表現だろう。洗濯物に手はない。手袋を除けばだが、いかなTシャツだろうとYシャツだろうと袖までであって、手はない。
 ここではじめて、「手招きす」の「手」とは何だろうかと考えはじめる。そこで冒頭の「手洗いの」の「手」と対応していることがあらためて大きな意味を持ってくるのだ。
「手」のリフレインによる幻惑。しかもこの句の上で、私たちが通常使う身体のパーツとしての手は言及されていない。それがなおのこと、幻としての「手」を炙り出す。
 そう考えると、この句にはもう一本、垂直に交わる線があることに気付く。「手洗い」「洗濯物」の「洗」のラインである。
 この二本の線が交叉し、しかも句として進行したとき、それは二重螺旋のような姿を現すのだった。

太陽はガラスを通過して人に  大川博幸
はなむけを円柱形の花婿に    同
 同じ連作の中にありながら、この二句は全く違った貌を見せているように思える。
 まず後者から見ていこう。「円柱形の花婿」とは何か。その答えは句の中にない。作者が何らかの意思を持って「円柱形」と「花婿」を「の」でつないだ、その事実があるだけである。
 だが、そこに作者の意思があるということ、その存在はしっかりとわかることができる。「わからない」ことによって「わかる」ということが出来る好例と言えるだろう。
 対して、前者の句はどうか。ここで言われていることは、頭から爪先まで、事実のみである。太陽光がガラスを通過して人にあたっている、その事実だけが述べられている。
 であるがゆえに、私はこの句を読んで慄然とした。事実を述べる、そのことにのみ傾注されて、「描写」さえ放棄しているように見えたからである。なぜこれが句として成立するのか、そこに川柳の可能性という空間の凄まじさを感じたからである。
「わかる」ことによって「わからない」境地に達することのできる句と言っていいだろう。
 あまりにもこの句は「わかる」のだ。何もさえぎるものがない、ガラスを光が通過するように。と考えたところで、また慄然とする。この句の「ガラスを通過して人に」という 内容が、句のフォルムそのもので表現されている。あるいは、その逆に内容でフォルムが決定されている、それはもう、芸術ではないか。
 川柳が奴隷の韻律であった時代は終わったのだ。と言うより、奴隷の韻律であったことなど、一度たりともなかったのだ。
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「旬」」214号より ストリーム(その1)

2018-01-05 11:34:41 | 川柳鑑賞
 と、言うわけでブログ書くのも久しぶりなので、もう少しおまけ。
 「川柳の仲間 旬」215号に載せた、214号からの句評です。
 たまたま私(川合大祐)が書いたので、もう天ぷら蕎麦の天ぷらの如くどーんと載っけちゃいます。
 あくまで個人の感想で、やや暴走&迷走してますんで、読み飛ばししてくださいね。
 では、参ります。

   *  *  *

 人はどうして、他人の作品を読むのだろうか、という問いからはじめたい。
 川柳において、自分が作品をつくる動機は、何となくわかる気がする。他人に何かを伝えたいから、というのはその動機の大きなひとつであると思う。
 それならば、人が他人の作品を読むとき、他人から何かを伝えられたいから、なのだろうか。
 この点については考えてみる必要がある。他人から何かを伝達されたいなら、その「何か」を直接に訊けばよい。何故、作品という、迂遠な方法を使って「伝える」といういとなみをしたいのだろうか。そもそも、私たちは他人から何かを伝えられたいのだろうか。
 当たり前の話だが、一〇〇パーセント他人の内面がわかる、などと言うことはありえない。これは伝達方法による可否ではなく、一〇〇パーセントわかってしまった時に、他人は他人ではなく、ただの自分でしかなくなってしまうからである。
 もし仮に、あらゆる他人の内面がわかってしまったとしよう。そうなれば、そこには「自分」しかおらず、地球上に単なる一者しかいなくなってしまう。
 それは随分と孤独なことではないだろうか。
 だから、「他人」という隣人を存続しておくために、私たちは他人のことをわからないものにしておくのではないだろうか。
「わかる/わからない」というのは川柳を読む上で必ず直面する問題である。だがもしかしたら私たちは(ここで「私たち」という複数形を使うことの無神経さを許し給え)、「わからない」ことを確認するために、作品を読むのではないだろうか。
 他人が他人であること。それは自分が、他人のなかに生きていることの確認である。
 そのことを前提として、「わからない」ことを手がかりに「旬」十一月号を読んでいきたいと思う。すなわち、「わかる」句のなかの「わからない」部分を確かめてみようと試みたいのだ。

折り鶴よ解いてやろうおやすみなさい  樹萄らき
 たとえばこの句は、「わかる/わからない」の境界線上にあるように見える。折り鶴が強制されて鶴の形になっている。それを紙に戻す=解くことにより、静かな眠りに返してやる。
 という「意味」は一見して読むことができる。だが、それだけではこの句の不思議さを、魅力を読み解いたことにはならない。この句にはさまざまな「わからない」がある。それを挙げて行ってみよう。
 まず、「折り鶴よ」という呼びかけは何に向かってなされているのか。「折り鶴」に向かってだろうか。だが折り鶴という人間外のものに、「折り鶴よ」と呼びかける意味は何なのか。ここにあるのは折り鶴に呼びかけてしまう、圧倒的な孤独である。などと「わかった」ような事を言ったとしても、何故、相手が折り鶴だったのか、その理由に辿り着くことはできない。
 そして、「解いてやろう」。これは呼びかけなのかどうか。「折り鶴を解く」という行為をわざわざ言葉にする、そこに何の理由があるのだろうか。折り紙を解くという行為自体はまだ納得できる。折り鶴というものがあるひとつの強制だという視点である。だが、「折り鶴」をひとつの強制だと感じる作者のセンサーは、いったいどういう具合に世界を見ているのだろうか。ここに底知れない暗がりの、その広大さを感じる。わからないことによる、おののきと言っても良いかもしれない。
 最後の「おやすみなさい」に至って、私は途方もないものを目にしていると感じる。五七五の定型を崩しての、「おやすみなさい」である。これは何のためにある言葉なのか。確かにこれは呼びかけである。だが「折り鶴よ」「解いてやろう」とは、明らかに向ける対象が違っている。この「おやすみなさい」は誰に向かって言っているのだろうか。少なくとも「折り鶴」に向けて言っていないことだけは確かだ。ならば誰か。作者という「自分」に向けてだろうか。いや、それでは「おやすみなさい」の静謐さは説明できない。
 あえて「わかろう」とするならば、この句が「他人」に向けて開かれている句だと言える。他人が何を思っているのかわからない、そのことへの懼れがこの句の底流にある。この句自体が、「他人がわからない」という意思を表明した句と言ってもいいかもしれない。
 そのように読めるのは、この句の「わからない」ところを読もうとしたからである。「わからない」という広大な暗闇を感じさせるからこそ、様々な読みが可能になるのだ。そしてこの句は、明らかに傑作なのである。
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「旬」215号より

2018-01-05 11:28:48 | 川柳あれこれ
 あけましておめでとうございます。
 旧年中は諸々お世話になりました。今年もかわらぬご厚情を賜りたく存じます。
 ……というか。
 すいません!!
 すっかりサボっていて、ブログの更新してませんでした。
 楽しみにして下さっている皆さま、何卒ご容赦を。
 ちょっとギアナ高地へ修行に行っていたのです。噓です。ついでに元ネタわかる人はコメント下さい(図々しい)。

 そんなわけで、心機一転、2018年も一回目。
 同人誌「川柳の仲間 旬」1月号から、ダイジェストでお送りします。
 いいよね? 答えは聞いてない。(中途半端に古いネタだなあ)

   「春の出会い「銀嶺と初日の出」」  丸山健三
  ツツツツツプライドも無く啜るそば
  日いちにちいちにちの飛は火と秘の非

   「飴売りの声」  樹萄らき
  身の丈に合った一首はどれでせう
  よーそろーおもかじいっぱい わっ どぼん

   「愛知県立一宮高校女子バレーOG会」  竹内美千代
  タガ外れ十五のもみじ素を噴射
  ゆるまって自分のダメの吐きどころ

   「あしたのアシカ」  川合大祐
  工場に釘限りあり猫放つ
  半島に自慰くり返す医師の家

   「この一年」  池上とき子
  体力の限界で逢う好きな人
  パンの耳うたがいの目で捨てられる

   「冬の中で」  千春
  初めまして、かつおぶしがちらばった
  月焼けして暑い暑い、少し寒い

   「風邪をひく」  桑沢ひろみ
  手のひらでゆっくり熟れてゆくぶどう
  ずっと斜めでいつのかなああ不安

   「12月」  大川博幸
  ビンの中空間曲がる十二月
  猫のヒゲぬけば消えさる十二月

   「巡る」  小池孝一
  廃墟あり何と確かなあからさま
  血の色は最早これまでなり枯葉

 ……いかがでしょうか。
 贅言はいりませんね。
 みんな凄い(除く大祐)。
 でも、特に孝一さんと博幸さん、千春さんが句風の変わり目にいるようで、目が離せません。
 もちろん、ほかの人々もですよ(除く大祐←ってここ自己顕示欲)。
 
 変わらないものなんて何もない。
 変わらないように見えても、それは刻々と変貌する時代に照応してメタモルフォーゼしているから。
 ちょっと上手いこと言った? 言いましたよね。
 というわけで、反省しない当ブログ、2018年もよろしくお願いいたします。
 今年もこのノリで行きます。では、また〜。
(川合大祐)
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「旬」212号(2017年7月号)より

2017-09-03 17:02:57 | 川柳あれこれ
風が本格的に秋めいてまいりました。
お久しぶりです。皆さまいかがお過ごしでしたか?
などと、自らの怠慢でブログ更新をさぼっていた責任を、さらっとスルーするつもりでいる青二才です。
どうぞ石をお投げ下さい。
五百円玉が混じっているとなおのこと嬉しいです(おい、図々しいよ)。

さて、もうとっくに季節外れになってしまいましたが、「川柳の仲間 旬 No.212」(2017年7月号)からダイジェストでお送りします。
雑誌はもうとっくに出来ていて、実を言えば No.213 も既に発行されているのですが、こんなに遅れ遅れになったのは、やはり私の怠慢であります。
繰り返しになりますが、どうぞ石をお投げ下さい。
千円札を紙飛行機にして狙い撃ちしてくださると嬉しいです(いいかげんにしなさい)。

馬鹿話はこのへんにして、では、会員の自由句から。

 「ムッとする」柳本々々
BSの電波ぶきみな茸飯
地下鉄でロシアの話読み終える

 「用の泡」竹内美千代
似姿が変わってネジの巻き不足
用の泡ブクブク育ち溺れさす


 「心のな闇」大川博幸
自分で闇カジノをつくったら負けつづけた
扉を開けたら暗闇だったので中に入れた


 「雨」樹萄らき
天気雨 惑星 誘惑 手毬唄
ワタシハアナタガキライデシタ デスネ


 「それぞれに」小池孝一
木洩れ陽に一人静が起立する
たまに見る子猿大きくなったなあ

 「五月晴」池上とき子
となりには優しい人が住んでいる
草を取る今日も地球の真ん中で

 「妻」川合大祐
妻さがす市場に並ぶ人の皮
妻去って吾妻ひでおを金で買う

 「松林」千春
ぷっつりと糸が切れる音 あ、きれい
ご飯のアナウンスある。泣きやむ。ふん。

 「夏トマト」桑沢ひろみ
真夜中にうっかりきゅうり切っちゃった
つぶれそうなトマトをみな持っている

 「自我意識」丸山健三
足跡を描く絵具を買いに行く
まん丸い月はいちばん甘いとき


課題句「愛着」から、私の独断と偏見で。

想い出はみんなかさぶたみんな春  孝一(5点)
愛着の鍾乳洞を抜け出そう  博幸(3点)
いいかげんもう捨てなきゃねヘビの抜け殻  らき(3点)
二束三文つらくて資源ごみに出す  美千代(2点)
黒柳徹子とコラボレーションす  々々(2点)



その他、今月のおすすめは大川博幸さんの、「ひろゆきの川柳8コマまんが道」。
絵をお見せできないのが残念ですが(現在、画像アップできるかどうか検討中)、柳本々々さんの、
 ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する
を見事にコミカライズしています。
プロレスファンの川柳人(ニッチだ……)、必見です。

と言うわけで、今号も(じゃねーよ、もう前号だよと世界の中心で叫ぶ声あり)読みどころたくさんの「川柳の仲間 旬」。
興味のある方は、コメント欄か、メールお気軽にくださいね。
9月号のダイジェストはなるべく早くアップしたいと思います。
でも、私は怠慢なので、これはもう紙幣のシャワーを浴びるしかない!(これでオカダ・カズチカを思い出すか、『カリオストロの城』を思い出すかでその人のアイデンティティーがわかる……どっちもあまり変わりませんね)。

では、再見!
(川合大祐)


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7月10日の例会

2017-07-11 04:45:05 | 例会報告
 うあああああ、とよく判らない雄叫びをあげてしましましたが、お久しぶりです。
 更新期間が大幅に空いてしまってすみません。
 帰ってきたぞおおおおおお、と、よくわからないさけび。

 とは言うものの、このブログを書くのは久しぶりなので、リハビリがてら、昨日のことなどを。

 2017年7月10日(月)、空から恐怖の大王が降って来た(噓です)。伊那公民館にて、「旬」の例会がありました。
 今回から、時間を変更して午後2時30分から5時まで。
 私が月曜休みなもので、昼間のこの時間に変更してもらったのですが、よく考えると、普通の勤務形態をしている人が入って来たら、非常に出席しにくい時間ですね。その時どうするかはその時考えましょう。明日は明日の風が吹く。無風の日だってあるけれど。

 そんなわけで例会です。同人誌「旬」の212号が出来たので(内容の抜粋はいずれ公開、する予定。ご期待しないでお待ちください)、その合評会です。
 出席者は丸山健三、小池孝一、樹萄らき、千春、私(川合)の五名。
 なので、じっくり読み解くことができました。

 らきさんの作品は…「『樹萄らき』が(良い風に)変わってきている」、「やっぱりおもしろい」などの意見が。
 孝一さんの作品は…「自然と向き合う姿勢がすばらしい」、「うまい」、「でもこの子猿はその子猿なのでしょうか」。(最後の感想、意味がわからないでしょう。ふっふっふ、次回のブログをお楽しみに)。
 大祐の作品は…よくわからないけれど千春さんが泣いてしまって、簡単に終わりました。
 千春さんの作品は…「よくここまで書いた」、「つらいときだから書ける川柳がある」、「作品として独立している」「松林の前で、それ以上はしてはいかんぞ」。(これも意味不明でしょう。次回をお楽しみに)。
 健三さんの作品は…「うまい」、「隙がない」。

 まあ、いい合評会でした、たぶん。

 で、久しぶりに夕飯でも食べようかと言うことになって、近くのファミリーレストランへ。

 こんな感じ。

  



 画像が横になってるのはご愛敬とおもってください。いや、愛敬ですむ問題じゃないんだけど。

 ともあれ、楽しい半日でした。
 いろいろあるけれど、みんな生きてゆける限り生きてゆきましょう。にんげんだもの。締めるとき相田みつをの利便性。
 それでは、また。
(川合大祐)
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