後天の物をさがす場合は、苦にせず気楽に、
有意義なさがし方を、というような話をいたしました。
今回は先天の、無形のものについて考えてまいりましょう。
おしなべて、さがすという行為は、現在無いと思うので起こります。
自分がその物事を得ていないと思っている、又は嘗て得ていたが失った
と認識している場合。そして得る必要性を感じるから、さがすのですね。
幸せを象徴する青い鳥を捜して諦めて帰ると家に居たという話があります。
悟りを求める善財童子も、すでに文殊菩薩に出会っているのに遠回りをして
出発点に戻ってきたとか。最初から直観的にゴールへ往けば簡単ですのに。
探し物があまりにも身近に普通に存在すると、気付き難いのかもしれません。
先天炁はどこにでも存在しますが、自己の真霊として確保しないと他人事です。
炁を自由に頂き活用する修養方法を実行して、初めて真実の存在になります。
炁を直接のエネルギー源としない限り、後天の生物にとって食物を探すのは、
生涯の重要な仕事になります。探して手に入れようとして、得られない苦悩や
得ているらしい者に対する嫉妬、憎悪、敵意などが発生し波及してゆきます。
有形と言えない無形のもので最も基本的な物、最小単位、ルーツである物が
先天炁という名で呼ばれていますが、先天炁はどこにでも存在しています
と謂われても、手に取れず、目で見えず、鼻で匂うこともできません。
自己自身の中にも存在しているはずです。けれど、一般には、それを
さがして手に入れる必要を感じている人も少なく、その方法を知る人、
実行する人も少なく、まして善い結果を得る人は非常に希な現状です。
先天炁を希望通りに得る事ができる方法を理解し十分に体得するならば、
他のいかなる有形の物も無形の物も、無理なく得る事ができるでしょう。
そして、得ない方が善いものは、意識せずとも自然に避けられるでしょう。
自己固有の真霊は、先天炁と後天気の両方でできています。そして現在の
ほとんどの人の真霊は、長年の後天消耗生活のうちに摩耗して薄くなったり、
特定の消費癖の為にいびつな形になったり、スカスカになったりしています。
道院に伝わる修養は、先天炁を自己の真霊として固定して、光の粒の密集した
円霊の状態に回復するのが主な目標です。後天気の方は、外部への流出倹約と
内部への意識集中に由り供給できるものですから、先後天の材料は揃います。
この場合、捜す努力や技術などは一切必要ありません。材料の先天炁は常に
無限に存在しています。後天気は自己の意識集中と継続、習慣化の問題です。
失った霊の所在を捜す必要はない、という由は経典にも明記されています。
為すべき事は、炁が自動的に自然に入ってくる状態を設定するだけです。
具体的に自分の容器を感じて意識の線を繋ぎ、スイッチONするだけです。
林雅志氏は「捜さずして受ける」という経典の一文が大変お好きでした。
自己の霊エネルギーが何時何処でどういう原因で失われたかを思い出したり
経緯を理解する事も無駄ではないと思います。自分のエネルギー消費の傾向や
特徴が分かれば、気を付けて制御もでき、修養にとって有益かもしれません。
けれども、自己のエネルギー消耗が起こりやすい後天有形の物事に対して、
真剣に自戒して制御するのは結構大変です。それより、大道の真理に親しみ、
誦咒したり、自身の窔を楽しく感じて修養モードになる方が早道でしょう。
そうして修養モードになれば、日常の無駄なエネルギー消費が避けられて、
真霊の消耗が最小に抑えられます。その上で、心坐や形坐に由って先天炁を
自然に頂けるようにしますと、「捜さずして受ける」を実感できるはずです。
有難い事に、適正な修養は、誰でも基本的に実行を制限されていません。そして、
それに由り炁を活用できる状態になれれば、後天の物は何も探し求める必要など
ありません。必要な実物は、即時に得られるか又は既に与えられ備わっています。
もし、広い土地や立派な家屋を所有すると管理が大変で、他者の妬みを受けたり、
資産を狙われたりもします。外見の美を追求するのも大変でしょう。何事も大変。
後天の物は、その時その時に必要な物だけ頂けるのが最適な状況だと思います。
炁も捜さなくて良い道理ですから、先天無形物も亦、探す必要は無いでしょう。
炁は沢山ありますから、誰とも争う必要は無く、他者を羨む理由もありません。
自己に必要な全てのものを頂くための僅かな努力を惜しむべきでしょうか?
皆様、どうぞご一緒に、何も捜す必要の無い修養の世界へ参りましょう。
とりあえずは、日々僅かな時間でも、静かにゆったりと
坐を楽しむ至福の時間に浸りましょう。
有意義なさがし方を、というような話をいたしました。
今回は先天の、無形のものについて考えてまいりましょう。
おしなべて、さがすという行為は、現在無いと思うので起こります。
自分がその物事を得ていないと思っている、又は嘗て得ていたが失った
と認識している場合。そして得る必要性を感じるから、さがすのですね。
幸せを象徴する青い鳥を捜して諦めて帰ると家に居たという話があります。
悟りを求める善財童子も、すでに文殊菩薩に出会っているのに遠回りをして
出発点に戻ってきたとか。最初から直観的にゴールへ往けば簡単ですのに。
探し物があまりにも身近に普通に存在すると、気付き難いのかもしれません。
先天炁はどこにでも存在しますが、自己の真霊として確保しないと他人事です。
炁を自由に頂き活用する修養方法を実行して、初めて真実の存在になります。
炁を直接のエネルギー源としない限り、後天の生物にとって食物を探すのは、
生涯の重要な仕事になります。探して手に入れようとして、得られない苦悩や
得ているらしい者に対する嫉妬、憎悪、敵意などが発生し波及してゆきます。
有形と言えない無形のもので最も基本的な物、最小単位、ルーツである物が
先天炁という名で呼ばれていますが、先天炁はどこにでも存在しています
と謂われても、手に取れず、目で見えず、鼻で匂うこともできません。
自己自身の中にも存在しているはずです。けれど、一般には、それを
さがして手に入れる必要を感じている人も少なく、その方法を知る人、
実行する人も少なく、まして善い結果を得る人は非常に希な現状です。
先天炁を希望通りに得る事ができる方法を理解し十分に体得するならば、
他のいかなる有形の物も無形の物も、無理なく得る事ができるでしょう。
そして、得ない方が善いものは、意識せずとも自然に避けられるでしょう。
自己固有の真霊は、先天炁と後天気の両方でできています。そして現在の
ほとんどの人の真霊は、長年の後天消耗生活のうちに摩耗して薄くなったり、
特定の消費癖の為にいびつな形になったり、スカスカになったりしています。
道院に伝わる修養は、先天炁を自己の真霊として固定して、光の粒の密集した
円霊の状態に回復するのが主な目標です。後天気の方は、外部への流出倹約と
内部への意識集中に由り供給できるものですから、先後天の材料は揃います。
この場合、捜す努力や技術などは一切必要ありません。材料の先天炁は常に
無限に存在しています。後天気は自己の意識集中と継続、習慣化の問題です。
失った霊の所在を捜す必要はない、という由は経典にも明記されています。
為すべき事は、炁が自動的に自然に入ってくる状態を設定するだけです。
具体的に自分の容器を感じて意識の線を繋ぎ、スイッチONするだけです。
林雅志氏は「捜さずして受ける」という経典の一文が大変お好きでした。
自己の霊エネルギーが何時何処でどういう原因で失われたかを思い出したり
経緯を理解する事も無駄ではないと思います。自分のエネルギー消費の傾向や
特徴が分かれば、気を付けて制御もでき、修養にとって有益かもしれません。
けれども、自己のエネルギー消耗が起こりやすい後天有形の物事に対して、
真剣に自戒して制御するのは結構大変です。それより、大道の真理に親しみ、
誦咒したり、自身の窔を楽しく感じて修養モードになる方が早道でしょう。
そうして修養モードになれば、日常の無駄なエネルギー消費が避けられて、
真霊の消耗が最小に抑えられます。その上で、心坐や形坐に由って先天炁を
自然に頂けるようにしますと、「捜さずして受ける」を実感できるはずです。
有難い事に、適正な修養は、誰でも基本的に実行を制限されていません。そして、
それに由り炁を活用できる状態になれれば、後天の物は何も探し求める必要など
ありません。必要な実物は、即時に得られるか又は既に与えられ備わっています。
もし、広い土地や立派な家屋を所有すると管理が大変で、他者の妬みを受けたり、
資産を狙われたりもします。外見の美を追求するのも大変でしょう。何事も大変。
後天の物は、その時その時に必要な物だけ頂けるのが最適な状況だと思います。
炁も捜さなくて良い道理ですから、先天無形物も亦、探す必要は無いでしょう。
炁は沢山ありますから、誰とも争う必要は無く、他者を羨む理由もありません。
自己に必要な全てのものを頂くための僅かな努力を惜しむべきでしょうか?
皆様、どうぞご一緒に、何も捜す必要の無い修養の世界へ参りましょう。
とりあえずは、日々僅かな時間でも、静かにゆったりと
坐を楽しむ至福の時間に浸りましょう。
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