平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

主にある平安

2018-11-06 12:07:32 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年11月4日 主日礼拝 杉野省治牧師
「主にある平安」  ヨハネの黙示録21章1-4節

 日本は高齢社会となり、最近テレビや新聞などで高齢社会に関するものを多く目にするようになった。先日もNHKの「クローズアップ現代」で遺品整理の話題を取り上げていた。お金を払って遺品整理業者に任せて片が付くようなことでもなさそうだ。形見分けだの、もったいないから売ろうとか、親しい人に使ってもらえたらとか、何かと大変そうだ。

 一方、当事者の高齢者の側からは、今、終活ということが話題になっている。どのように死を迎えるか。俳優の樹木希林さんが9月に亡くなられたが、彼女が2年前に広告で「終活宣言」をして「死ぬ時ぐらいは好きにさせてよ」というフレーズで話題になった。実際の彼女の終活は自分で事前に用意周到に準備して置いたそうだ。もちろん家族にも伝えて同意を得ていた。そうして、最後の最後まで、立派に仕事をやり通したのだった。見事、というほかない。

 先々週の新聞では「最期は好きにさせてよ」という特集が載っていた。三人の識者の意見が載っていた。「おひとりさま」で有名な社会学者の上野千鶴子さんは「おうちで死ねる社会に」と言い、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんは「自宅が幸せ」幻想では、と言うし、在宅医療に取り組む医師,遠矢純一郎さんは、死に場所、家族で話そう、と言っていて、「最期は好きにさせてよ」と言ってもそれぞれに言い分があり、なかなか難しい問題だと思った次第。

 その家族に同意を得る、または話し合っておくのに、カードで楽しくゲームをしながらやるというのがある。「もしバナゲーム」というカードだ。新聞で紹介されていて、すぐカードを購入した。最近、全国の介護施設などで広がっているカードゲームだそうだ。「余命半年」と宣告されたら何を優先して生きるか。トランプのような36枚のカードでゲームをしながら考えるのだ。自分らしい最期を迎えるため、早いうちから終末期について家族らと話し合っておくことは大切。でも、なんとなく「縁起でもない」という理由で避ける傾向がある。このカードゲームのいいところは、ゲーム感覚でそんな難しい話題を家族や友人と考えたり話し合うことができることである。

 このゲームは、カードに「誰かの役に立つ」「痛みがない」「家族と一緒に過ごす」などと書かれているので、自分にとって大事なこと、希望するカードを選ぶ。そしてなぜそれを選んだか理由を考え、家族や友人に説明し、話し合う。自分と他人との死生観や価値観の違いが分かり、大変面白いゲームだ。私たち夫婦もやってみた。まず私が自分にとってとても重要、ある程度重要、重要でないと36枚のカードを分ける。同時に連れ合いは「私がどう思っているか」を想像して、同様にカードを分ける。そして、互いの選んだ「とても重要」を比べる。私たちの場合、とても重要の10枚のうち5枚が一致した。多いと思うか少ないと思うか微妙なところ。一致したカードは、確かに日ごろ私が連れ合いに言っていたことだった。その後、なぜそれを選んだの?そんなことはあまり重要ではないよ、などと話が弾んだ。確かに楽しい。今度は子どもたちと親子の関係でやってみたい。 

 その36枚のカードの中には「祈る」「宗教家やチャプレンと会って話せる」「神が共にいて平安である」といったカードも入っている。私はもちろん3枚とも重要なことだと選んだ。その中でも特に望むのは「神が共にいて平安である」というカード。しかし、人生は自分が考えているようにはなかなかうまくいかない。クリスチャンだって同様。クリスチャンになっても、私たちの中で最高の信仰生活をしていると思っている人は一人もいないと思う。むしろこれではだめだと自分にむち打つような思いを皆持っていると思う。

 今日の聖書箇所、ヨハネの黙示録21章4節には、時の流れの終わりを「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」という言葉で締めくくられている。私たちの人生には、最後に死が待ち受けている。しかも死は、これでよしとする答えをもたらしてくれない。物事の推移に伴うあいまいさと不確実さ、そして未解決の問題は、人生につきものだ。それらをよしとする答えを持ち得ないまま終わりの幕を閉じる。それをどのように取り繕っても、肉の存在としての私たちの現実から取り去ったり、解決することはできない。だから、死を迎えるとき自分の努力で平安を得るなどということは大変難しいと言わざるを得ない。

 けれども聖書は、死が終わりを告げる時、向こう側からやっておいでになるキリストを指し示す(2~4節)。向こうからやってこられるのだ。そして、このキリストは死が残した問いのすべてを引き受けてくださるというのである。だから、そのお方にゆだねることを知る者、信頼する者は死が残す問いがあったとしても恐れない。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界をキリストに見るからである。だから平安なのだ。平安が与えられるのである。そのような平安が得られる信仰をしっかり持ち続けたいと願っている。すべてを主にゆだね、従っていく人生を全うしたいと願っている。主にゆだねよう。そして残りの人生、精一杯生きていこう。
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