平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

恐れからの解放

2018-12-24 17:45:08 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年12月23日 クリスマス礼拝 杉野省治牧師
「恐れからの解放」 ルカによる福音書1章39-56節

 受胎告知を受けたマリアは妊娠初期と思われる体の危険をかえりみず、大急ぎで山里のエリサベトのもとへ行く(39節)。マリアをそのような行動に駆り立てたものは何か。一つは愛。マリアは落ち着いていない。急いでいる。36節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と知らされる。マリアは放っておけなかった。長い間「不妊の女」とさげすまれてきたエリサベトにお祝いの言葉を伝えたかった。愛は落ち着くことをゆるさない。
 
 もう一つの理由は不安。私たちは不安の中に落ち着いてじっとしていられない。38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったが、そこに不安な気持ちがあっただろうと思う。喜びがなかったとは言えないが、マリアの口から讃美の言葉が出てくるのは46節からである。マリアのエリサベトに対する挨拶には、自分の不安を正直に打ち明ける言葉が含まれていたと思う。その不安に対してエリサベトの語ったことは、マリアが体験するのは主の祝福の出来事なのだということ。不安でなかなか一歩を踏み出せない時に、一つの言葉にポンと肩を押されて、前に出られることがある。マリアの口から讃美の言葉があふれ出てくる。

 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白である。マリアの讃美で主の恵みである「偉大なこと」(49節)は複数形になっている。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたいものだ。主の恵みは、すでに起こったものもあり、これから起こるものもある。私たちはこれからの事についても確信して、讃美をもって応答できるのである。

 「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:47-48)。「目を留め」、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」である。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。思いがけない喜びがある。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるものである。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みに値するものは何もなかったのである。そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのである。

 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言います。そのマリアに神は「目を留めてくださった」のだった。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみである。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見るのである。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えない。マリアは、わが身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだった。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているのである。それこそ生の信仰告白ということができるだろう。

 クリスマスは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美すること。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。

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1 コメント

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隣人を愛せ(イリヤッドより) (かじお君)
2019-03-14 14:16:35
ユーゴスラビア連邦の崩壊による戦争で、違う民族が同じ社会の下で、銃を取り合った。
国連軍の調停ももちろんですが。

あるお父さんが同じ民族のために兵士となった。
若いお父さんだった。

ある日の作戦で、自分の民家の隣の家を攻撃した。
ところが、攻撃後に民家の中をみると、自分の妻と子供がかくまわれていた。
男は苦しんで、果てには人を殺すことを任務とする殺人鬼になった。

キリストの教え、「汝の隣人を愛せ」
これを実行していただけの隣人を殺してしまった。
それが、どんなにひどい結果を生み出すのか?

彼は閉じ込められた空気の薄くなる密閉のドームの中で、隣人のために自分が犠牲になり、はじめて「笑ってる妻子の幻」を見て、安らかに息を引き取った。

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