まずは眼前に聳え立つ長大な外壁が目に入って来た。重厚な門の傍には太い側塔が設置され、左右に伸びる外壁の一定間隔置きにも、半ば壁に埋め込まれる形で外郭塔が配されている。
多数の塔には細長い穴と十字の穴が開き、前者は内部から射撃を行う為の射眼で、後者は術師用の『魔眼』と言うらしい。張り出した胸壁の出窓のような部分は、真下も安全に攻撃できる仕組みだ。
むろん外壁の最上部には、凹凸状の狭間に身を隠せる歩廊も有る。また外壁の内側には、壁から完全に独立した高層の塔が立ち並び、周囲を睥睨するかの如く起立している。
周辺の地形はと見回すと、北方に当たる右手には高嶺な山々が連峰を形成し、左手には対岸が見えないほど大きな湖が在る。かつ山手側から川が二本、湖に向かって流れ込んでいた。
その二本の川が城塞全体を挟むようになっている上に、川同士を堀で繋げることで、外壁の南北にも水掘りが張り巡らされた形になっている。見た目的には、“あみだくじ”のような感じだ。
門前の巨大な跳ね橋はマジックアイテムでもあり、緊急時には自重を軽減して、素早く上げ下げ出来る上に収納まで可能な仕掛けだとか。常時稼動型では無いので、魔晶石の消費量は最小限に抑えられる。
更に、東西の城門周辺は独立した砦にもなっていると言うか、元々は川に隣接して建設された二つの砦の間に、自然発生的に街が形成され始めたことから、砦同士を外壁で連結して城塞都市とした経緯がある。
この地理条件を見れば、イベリス軍はシセーを陥落させない限り、これ以上奥地に大軍を進められないと言うのも頷ける。ちなみに水路で補給線を繋げようとするのは、湖に強力な魔物がいて危険なようだ。
まだまだ外延部付近では、陸上は人類の勢力範囲圏内でも、水中は魔物の領域だという所は珍しくないらしい。人間が根本的に陸上生物である以上は、水中を住処とする魔物の駆逐は容易ではないのだろう。
それにローレルとイベリスと帝国、三ヶ国の国境線にもなっているシセー湖は、湖岸が極端に遠浅なので、此処で外洋船クラスの船を運用しようとすると、とんでもなく大規模な浚渫工事が必要になり非現実的だとか。
そのシセー湖の周りには、一見して水田みたいな物が並んでいる。
「あの湖畔に有るのって何ですか?」
「あれは塩田です」
田んぼにしては、遠目にも区割りが広すぎるので納得だ。
「なるほど、塩湖なんですか」
「はい。トシ様にお出しする料理にも、此処の湖塩を用いています」
良く考えて見れば、海岸に面した国が存在しないってのも凄い。
「もしかして塩は貴重品だったりします?」
「岩塩ならば、さほどでもありませんが……」
ヒスイさんの説明によると、アンスリウムに岩塩の塊がごろごろしている地域が有るから、平時には安価なソレを輸入しているらしいけど、帝国に宣戦布告して以来、貿易は停止状態みたいだ。
当然の備えとして大量の国家備蓄が有り、塩は王家の専売品なので直に暴騰とはならなくても、湖塩の産出地であるシセーが陥落するようだと、塩不足に対する不安に火が付く可能性は高いとか。
そういう訳で、シセーは軍事的にだけではなく、ローレルにとっては経済的にも要地なのだろう。イベリスとの国境に近いにも関わらず、自然発生的に大規模な街が出来たのも頷ける。
そんなことを話していると、シセーの城壁が鮮明に見えて来た。
「なんだか、ノッペリした壁ですね」
「石積みの基部に、セメントを厚く塗った物ですので」
王城の城壁と王都の外壁は詰まれた石が剥き出しで、あちらの方が威圧的だったけど、そこは見た目重視と実用重視の違いなのだろう。こちらも別に弱々しい印象を受ける訳でもないが、迫力は違う。
なんでも、魔術の《揮発》を使えば一晩でセメントが乾くので、修復が非常に容易らしい。そして意外なことに初代皇帝が発明した物という訳ではなく、セメントの技術自体は千年以上も前からあるとか。
あと《揮発》は製塩にも使うようだけど、ゲームには無かった術式だから俺は扱えない。生活全般に応用できるなら便利そうだ。もしかして勉強すれば、この世界の魔術を使えないだろうか?
駄目で元々ってことで、状況に余裕が出来たら試してみるか。
「それにしても、この街が落ちるところなんて想像も出来ません。
正に鉄壁って感じで、攻める方が気の毒に思えますよ」
俺も男なので、これだけ壮大な軍事施設を見れば多少は興奮する。
「ふふ、ありがとうございます。
長年に渡り心血が注がれた、ローレル王国随一の城塞です」
はしゃぐ俺を、微笑ましげに眺めるヒスイさんは少し誇らしげだ。
「ですが、銀剣騎士団の《飛翔突撃》に対して油断は出来ません」
表情を引き締めたヒスイさんの解説によると、《飛翔》で城壁に取り付くことが可能らしい。当然、専業の魔術師が前線に飛び込むのは自殺行為だが、魔法剣士が主体の銀剣騎士団では必殺の戦術となる。
ただし、固有騎士団魔法の《魔力集中補助》で術式を維持しながら戦闘を行えるとはいえ、どうしても飛行中は無防備に近くなるので、滞空中に迎撃されれば、貴重な騎士に多くの被害が出てしまうから。
通常攻勢で十分に城兵を疲弊させてから、止めに《飛翔突撃》を行い一気呵成に陥落させるのが、城攻めに置けるイベリス軍の定石のようで、防御側は常に警戒する必要があるから集中力を削られ続ける。
それに対して万全の体制を保てるのが、おおよそ一週間とか。
「最も効果的な対策は、外壁を二重にすることなのですが……」
《飛翔》は魔力消費量の多い魔術なので、基本的に専業術師に魔力総量で劣る魔法剣士では、質の良い魔晶石を補助に使ったとしても、壁を一枚乗り越えた辺りで魔力が不足するらしい。
例え精鋭の幾人かが可能だとしても、部隊単位での行動速度は、最も速度で劣る人間が基準になるから、外壁が二枚あれば連続して破られる心配はまず無い。
しかし有効だと解っている対策だとしても、何事にもコストの問題は付いて回るようで、外壁の内側に内壁――より高いことが望ましい――を追加するのは、口で言うのは簡単でも膨大な費用が掛かる。
この辺りは既存の採石場からは遠いのもあって、北方の山岳地帯の魔物を駆逐して、近場に新しい石切り場を確保してから、内側の塔を壁で連結する計画は有っても、実施は延び延びになっているとか。
そもそも国境線の砦群を放棄して、シセーに篭城する今回の戦略がイレギュラーなだけで、普通はそちらを整備した方が効率的。救いなのは川と湖があるから、セメント用の砂利には困らないことだろう。
「守りに徹しているだけでは、神経が持たないってことですか」
「はい、将兵の士気が維持できません」
そこで俺の出番ってことになる。目前に迫る戦いに緊張感がせり上がって来るけど、ヒスイさんと一緒に生きて行く為なのだから、なんとしてでも成し遂げなければいけない。
それにしても、俺に決意を固めるなんて芸当が可能とはね……。
◇
俺達は城門前でシセー辺境伯に歓迎されシセー入りしたけど、十分に余裕を持たせた日程なので、直に敵軍が到着する訳ではなく。それまでの間に能力の最終確認が出来るのは嬉しい。
あまり派手なことは自粛したが、どの程度の射程が実際に可能なのか試したり、ヒスイさんと検討して最適な威力の見極めをしたり、撃ちはしないリハーサルで消費魔力量を調べたりした。
次に防御能力の確認では、まず俺自身の素での対術抵抗力を測ることになったのだけど、いきなり攻撃術を撃たれるなんてことはなく、ヒスイさんに睡眠誘導の魔術である《睡魔》を掛けて貰う。
「では、いきますね」
「お願いします」
回復系以外の魔法を受けるのは初めてだけど、ヒスイさんなら安心。
「睡魔っ! ……どうでしょうか?」
「んっ、なんともないです」
高位の魔術師らしいヒスイさんが、ゼロ距離――俺の頭を胸に抱えるような状態――で、魔力の九割強を使用した《睡魔》でも、全く眠気を催さなかったのだから、レジストのスキルは機能しているようだ。
「むしろ、この体勢の効果で眠くなりそうですよ」
「よかった……。眠っても、よろしいですよ」
俺は柔らかくも温かい双丘に顔を挟まれて、まるで温泉に浸かっているような極楽感に包まれていた。ヒスイさんのほっとしたような、思い遣りに溢れる声も安らぎを齎してくれる。
「少し勿体無い気もしますが、お言葉に甘えますね」
「ふふっ、たくさん甘えて下さい♪」
名残惜しくて頬を乳房に擦り付けるように動くと、くすぐったがるヒスイさんがキュート過ぎる。エロ目的ではないスキンシップなので、ほのぼのとした雰囲気でじゃれ合えるのも楽しい。
最近は性欲が十分に満たされているので、こうゆう余裕も持てる。
そうして、聖女に抱擁されながらの午睡から目覚めた後、念の為にと最低威力で各種攻撃術を撃って貰い、種類的な問題がないかも確認したのだけど、ヒスイさんに痛ましげな顔をさせてしまった……。
いくら効かないからって、撃つのも撃たれるのも気分は良くない。
この調査の結果から推定される俺の対術抵抗力は、高位魔術師が限界以上の魔力を使用した攻撃術だとしても、遠距離からなら傷付けられる心配はないし、それ以上の威力でも理論的には平気らしい。
とりあえず魔法で害される危険性は低いと思うので、次に考えるべきなのは、ゲームで魔術師殺しだった弓矢対策だ。対処する為の装備は持っているけど、実験してみないことには安心して頼れない。
ちなみに対射出武器装備と言えば矢除石シリーズで、《矢除石の札》は弓矢を逸らし、《矢除石の欠片》ならクロスボウも加わり、更に《矢除石》だと、スリングでの投石や投げ槍等の投擲全般を防げる。
そういう訳で、親衛騎士に協力して貰い《矢除石》の効能を試すことにした。鏃や穂先を外した上に狙いは左手で、もしもの為に医療班も待機していたけど、万が一の痛みを想像し易いからか魔法よりも恐い。
俺が盛大にびびっていようとも、矢も槍も明らかに不自然な軌道で逸れてくれたから、結果としては大成功だったのだけど、傍で見守ってくれていたヒスイさんには、かなり情けない姿を見せてしまった。
この手のことで幻滅されるとは思わないけど、微妙に凹む。
◇
ついにイベリス軍が到着して、シセーを包囲しようとし始めた日、俺とヒスイさんは護衛に囲まれ、シセーの目抜き通りを歩いていた。沿道には女王を一目見ようと多くの民衆が詰めかけている。
こうして並ぶと背は同じぐらいでも、寸胴の俺とは違いヒスイさんは腰の位置が高いモデル体形の上、ともすれば頼りなくも見える、か細い肩を見ていると、支えてあげたいと自然に思わせられる。
歓声に応えて軽く手を振る動作の一つをとっても、洗練された立ちい振る舞いには辺りを払う気品があり、強い意志の宿る蒼い瞳は、人々に鮮烈な印象を植え付けていることだろう。
仮面で顔は覆えても、生まれ持った麗質は到底隠し切れない。
これだけ人目を引く宝石が隣で輝いていれば、俺みたいな路傍の石には誰も目を向けないだろう。なんていうことは残念ながらなく、かなり注目を浴びてしまっている。
フードを外して、黒髪と黒目を晒しているから当然なんだが。
この場に黒の髪眼同色がいる意義は、俺が想像していた以上に大きいらしく、そこかしこで何やらか囁かれているけど、まあ意識を逸らせば気にならないし、これからのことで頭が一杯だ。いよいよ、だからね。
行進は顔見世程度で済ませ、馬車に乗り込んだ俺達は南門に向かう。
◇
長大な螺旋階段を苦労して登り終わると、そこは城門の脇に立つ側塔の屋上だった。広さは数十人が配置に就けそうなぐらいある。さすが高いだけあって、シセーの南側を一望にできる。
まず目に入ってくるのは、水平線が見えるほど広大なシセー湖だ。
その少し手前の辺りで、イベリス軍が堀や馬防柵を巡らして陣地を建設している。北から湖に流れ込む二本の川に挟まれているからか、隙間無く天幕の張られた幕舎は狭苦しそうだ。
加えて外壁との間には、両脇の川から水を引いた三重の水掘りが立ちはだかっている。外堀の二本はさほど広くないけど、内堀は跳ね橋さえ上げてしまえば、渡し板程度では届かずに簡易橋架が必要とか。
敵の進行を防ぐと言うより、足を鈍らせるのが目的の外堀は、一重目の辺りが、ロングボウと射出魔法の有効射程距離で、二重目の辺りが、クロスボウと範囲魔法の有効射程距離になっているらしい。
急流というほどでもないが、流れの在る天然の川をそのまま防壁として利用できる東西と比べ、南北の守りはどうなのかなと思ったけど、なかなかどうして防備は凝らされているようだ。
背水の陣を強制されるし、距離と幅の関係から陣地も密集せざるを得ないことを考えると、あまり選びたくはない布陣だろう。それだけ敵の兵数が多いということでもあるが……。
「敵は他の方角にも、陣地を作ってるんですよね?」
「はい。完全に包囲されています」
「よく、一方は開けて置くとか聞きますけど」
「時期を見計らっているのか、わたくしを逃さぬ為かと」
女王であるヒスイさんさえ倒せば、その時点で勝ちってことか。
「シセーを落してから、王都まで進軍して包囲戦をするとなると。
すぐ真冬に入ってしまいますから、出来れば避けたいのでしょう」
そっか、北国出身で南に進軍しているローレル軍はまだしも、北東に進軍するイベリス軍にとってみれば、なによりも雪が恐いのね。魔物が大人しい季節に国を守り易いってのは北国の利点だな。
「ローレルでは、冬将軍のことを青狼の加護とも言います。
今年は青狼が顕現したぐらいですから、雪は例年より早く深いはず。
と言うような理屈で、この配置を押し通したりもしました」
兵数が偏っていて少ない方に大将なんて、そりゃ普通は止めるか。
「わたくしにとりて、青狼の加護と言えばトシ様のことですが♪」
ずっと繋いでいる左掌は同じ温度になっていて、そこから絶大な信頼感が伝わって来る。敵軍を目前にして取り乱さないでいられるのも、ヒスイさんが与えてくれる安心感のおかげだ。
これから敵に魔術で攻撃――ぶっちゃけ大量殺人――をすることにも、あまり忌避を感じていない。土壇場で決断したと言うより、心身ともに良好な状態で、今日まで快適に過ごした過程から来る必然だ。
さて、具体的にどうするかと言えば……。
当初の計画では、敵が攻め寄せて来たところを魔力に物を言わせて範囲魔術で殲滅。って感じの想定だったらしいのだけど、別に敵が向かってくるのを待たなくても、俺の魔術は敵陣に直接届くことが判明した。
それなら戦端が開かれる前に先制で攻撃する方が、安全だし奇襲にもなる。と言うことになったのですよ。地形の関係で対陣の距離が普通より近いのもあるが、まだ射程伸長には余裕があったりもする。
やってたゲームが、『無双系』だったからなぁ……。
一口にVRMMOと言っても多種多様で、古式ゆかしいダンジョン探索モノから、広い世界を旅する奴や、対人戦を重視したモノとか、対モンスター戦に特化した奴まで内容は様々。
俺がプレイしていた『Infinity World Online』は、双方とも極端に後者よりのデザインで、その名に相応しい世界の広大さと、無限と言えるほどに湧き出すモンスターの量で知られていた。
何が広いかと言えば一番は視野で、通常は処理限界から付近の物体しか表示しない形式を打破して、視線と視力の許す限り、彼方まで見通せるシステムを実現。大軍を目視させることに成功した。
それを少数ないし単独で薙ぎ払えることから、ついた仇名は無双系。
騎士なら全方向からたこ殴りにされても重装備で耐え。重戦士なら重量武器を振り回し、周囲の敵を纏めて弾き飛ばすことで接近を防ぎ。身軽な軽戦士なら、密集する敵の間を潜り抜け、擦れ違い様に切り捨てて行く。
神術師は結界で敵の侵入を阻みながら援護を行い。精霊術師は姿を隠したまま、属性付与の矢を連射する。そして魔術師は、移動系の術で距離を空けながら、範囲魔術で敵集団を消滅させる。
とにかく派手で、対人戦時のバランスは当初から考慮されてない。
これが2Dや3Dなら直に飽きたろうが、VRだと爽快感や万能感が半端ではない。代わりにAIの個別性能が犠牲になっているけど、質より量を優先して成功したタイトルだ。
もしダンジョン等の限定空間で、歯応えの有る高度AIとの少数戦を楽しむゲームのキャラなら、戦闘の対象は精々が数十人までなので、ここまでぶっ飛んだ性能は持ってなかっただろう。
無数の平行世界の中から、最強の俺が選ばれただけのことはある。
「では、いきます」
静かに見詰める周囲の視線を感じながらも、俺は殆ど気負わずに杖を持つ右手を軽く上げた。別に杖が必須な訳でもないけど、なんとなく杖の先で目標を狙うようにする癖が付いてる。
――基礎術式《爆炎》の拡張を開始
広域殲滅に使い易いし、やはり対軍では火が有効らしい。
――基礎威力Cを一段階拡張……威力C+
レジスト貫通があるので、攻撃力自体はさほど必要ない。
――基礎射程Cを五段階拡張……射程A-
これだけ基点が遠いと、さすがに魔力を食われる。
――基礎範囲Cを四段階拡張……射程B+
天幕は密集しているし、敵陣の三分の一も含めれば十分とか。
――特殊拡張《飛火》を追加
爆心地を中心に火球が飛び散るので、延焼が期待できる。
――基礎魔力Cを十一段階拡張……魔力S-
この消費量は、魔力最優先装備時の五分の一ぐらい。
これでもう全ての準備は完了したので、後は術式を発動させれば人殺しになる訳だけど、ようやくと言った感もある。実は、さっさと片付けてヒスイさんと最後までしたい気持ちが一番強い。
最大の動機にして引き金が性欲なのは、自分でもどうかと思わないでもないが、絶対に失敗が許されない以上、動機付けは根源的な欲求の方が確実だと思う。ここ三日ほどは禁欲生活もしていた。
格好が悪かろうが、情けなかろうが、勝てなければ全てが終わる。
ヒスイさんとの生活を失う事など既に考えられない。何よりもヒスイさんが欲しい。愛情も身体も夫の座も全て独占したい。今が幸せだからこそ保身の為なら何でも出来る!
「…………爆炎っ!!」
――対術防御貫通スキル発動……貫通率98%99%92%94%99%……
俺は術式を唱えた後、直に瞼を閉じて目を右腕で覆った。
その瞬間に予てからの打ち合わせ通り、クリスティを始めとした親衛騎士達も其々の魔法を唱える。距離的に余波が及ぶ心配はないが、風圧や視線や匂いや音を完全に遮断して貰う。
何故こんなことが必要かと言えば、トラウマ化を防ぐ為だ。
記憶は五感で覚えると忘れ難く、特に匂いは何十年も劣化しないことがあると聞く。人道的には己の行いを直視すべきなのだろうけど、その上で乗り越えられる保障なんて、どこにも存在しない。
次のことを考えれば、殺戮の実感なんて薄ければ薄いほど良い。
もちろん俺に直接だとレジストしてしまうから、前方に張った魔術の障壁で風圧と視線を阻みつつ、精霊術で風やら空気やらを操ることで、匂いの分子と音波を寄せ付けない。
短時間の事とはいえ、結構な魔力を消費させてしまった。
周辺環境から擬似的に隔離されたの確認してから目を開くと、瞳を潤ませたヒスイさんは、ずっと繋いでいた俺の左手を掴み変え、両手で大切に包み込むように抱き締める。
暫し見詰め合っていると、ヒスイさんの手が僅かに震えていることに気が付いた。自分のことで手一杯だった俺は、今更ながらに、初陣は自分だけではなかったことに思い至った。
「トシ様、誠心より感謝致します……。ありがとうございました」
心底から、ほっとした様子のヒスイさんを見ていると、守れたんだなぁと深い満足感を覚える。後は最後の仕上げを残すのみ、ヒスイさんは掴んでいた手を離すと、両手を俺の首筋に添えて圧迫する。
こうして気絶させて貰えば、目が覚めたころには戦況が一段落しているという寸法だ。意識が朦朧として足がふら付いたところで、俺はヒスイさんに抱き留められ、ふかふかの胸を枕にして気を失った。
最後に、ヒスイさんが出陣の号令を発したのを聞きながら……。
【前話 直轄領の夜(後) 【目次】 【感想掲示板】
多数の塔には細長い穴と十字の穴が開き、前者は内部から射撃を行う為の射眼で、後者は術師用の『魔眼』と言うらしい。張り出した胸壁の出窓のような部分は、真下も安全に攻撃できる仕組みだ。
むろん外壁の最上部には、凹凸状の狭間に身を隠せる歩廊も有る。また外壁の内側には、壁から完全に独立した高層の塔が立ち並び、周囲を睥睨するかの如く起立している。
周辺の地形はと見回すと、北方に当たる右手には高嶺な山々が連峰を形成し、左手には対岸が見えないほど大きな湖が在る。かつ山手側から川が二本、湖に向かって流れ込んでいた。
その二本の川が城塞全体を挟むようになっている上に、川同士を堀で繋げることで、外壁の南北にも水掘りが張り巡らされた形になっている。見た目的には、“あみだくじ”のような感じだ。
門前の巨大な跳ね橋はマジックアイテムでもあり、緊急時には自重を軽減して、素早く上げ下げ出来る上に収納まで可能な仕掛けだとか。常時稼動型では無いので、魔晶石の消費量は最小限に抑えられる。
更に、東西の城門周辺は独立した砦にもなっていると言うか、元々は川に隣接して建設された二つの砦の間に、自然発生的に街が形成され始めたことから、砦同士を外壁で連結して城塞都市とした経緯がある。
この地理条件を見れば、イベリス軍はシセーを陥落させない限り、これ以上奥地に大軍を進められないと言うのも頷ける。ちなみに水路で補給線を繋げようとするのは、湖に強力な魔物がいて危険なようだ。
まだまだ外延部付近では、陸上は人類の勢力範囲圏内でも、水中は魔物の領域だという所は珍しくないらしい。人間が根本的に陸上生物である以上は、水中を住処とする魔物の駆逐は容易ではないのだろう。
それにローレルとイベリスと帝国、三ヶ国の国境線にもなっているシセー湖は、湖岸が極端に遠浅なので、此処で外洋船クラスの船を運用しようとすると、とんでもなく大規模な浚渫工事が必要になり非現実的だとか。
そのシセー湖の周りには、一見して水田みたいな物が並んでいる。
「あの湖畔に有るのって何ですか?」
「あれは塩田です」
田んぼにしては、遠目にも区割りが広すぎるので納得だ。
「なるほど、塩湖なんですか」
「はい。トシ様にお出しする料理にも、此処の湖塩を用いています」
良く考えて見れば、海岸に面した国が存在しないってのも凄い。
「もしかして塩は貴重品だったりします?」
「岩塩ならば、さほどでもありませんが……」
ヒスイさんの説明によると、アンスリウムに岩塩の塊がごろごろしている地域が有るから、平時には安価なソレを輸入しているらしいけど、帝国に宣戦布告して以来、貿易は停止状態みたいだ。
当然の備えとして大量の国家備蓄が有り、塩は王家の専売品なので直に暴騰とはならなくても、湖塩の産出地であるシセーが陥落するようだと、塩不足に対する不安に火が付く可能性は高いとか。
そういう訳で、シセーは軍事的にだけではなく、ローレルにとっては経済的にも要地なのだろう。イベリスとの国境に近いにも関わらず、自然発生的に大規模な街が出来たのも頷ける。
そんなことを話していると、シセーの城壁が鮮明に見えて来た。
「なんだか、ノッペリした壁ですね」
「石積みの基部に、セメントを厚く塗った物ですので」
王城の城壁と王都の外壁は詰まれた石が剥き出しで、あちらの方が威圧的だったけど、そこは見た目重視と実用重視の違いなのだろう。こちらも別に弱々しい印象を受ける訳でもないが、迫力は違う。
なんでも、魔術の《揮発》を使えば一晩でセメントが乾くので、修復が非常に容易らしい。そして意外なことに初代皇帝が発明した物という訳ではなく、セメントの技術自体は千年以上も前からあるとか。
あと《揮発》は製塩にも使うようだけど、ゲームには無かった術式だから俺は扱えない。生活全般に応用できるなら便利そうだ。もしかして勉強すれば、この世界の魔術を使えないだろうか?
駄目で元々ってことで、状況に余裕が出来たら試してみるか。
「それにしても、この街が落ちるところなんて想像も出来ません。
正に鉄壁って感じで、攻める方が気の毒に思えますよ」
俺も男なので、これだけ壮大な軍事施設を見れば多少は興奮する。
「ふふ、ありがとうございます。
長年に渡り心血が注がれた、ローレル王国随一の城塞です」
はしゃぐ俺を、微笑ましげに眺めるヒスイさんは少し誇らしげだ。
「ですが、銀剣騎士団の《飛翔突撃》に対して油断は出来ません」
表情を引き締めたヒスイさんの解説によると、《飛翔》で城壁に取り付くことが可能らしい。当然、専業の魔術師が前線に飛び込むのは自殺行為だが、魔法剣士が主体の銀剣騎士団では必殺の戦術となる。
ただし、固有騎士団魔法の《魔力集中補助》で術式を維持しながら戦闘を行えるとはいえ、どうしても飛行中は無防備に近くなるので、滞空中に迎撃されれば、貴重な騎士に多くの被害が出てしまうから。
通常攻勢で十分に城兵を疲弊させてから、止めに《飛翔突撃》を行い一気呵成に陥落させるのが、城攻めに置けるイベリス軍の定石のようで、防御側は常に警戒する必要があるから集中力を削られ続ける。
それに対して万全の体制を保てるのが、おおよそ一週間とか。
「最も効果的な対策は、外壁を二重にすることなのですが……」
《飛翔》は魔力消費量の多い魔術なので、基本的に専業術師に魔力総量で劣る魔法剣士では、質の良い魔晶石を補助に使ったとしても、壁を一枚乗り越えた辺りで魔力が不足するらしい。
例え精鋭の幾人かが可能だとしても、部隊単位での行動速度は、最も速度で劣る人間が基準になるから、外壁が二枚あれば連続して破られる心配はまず無い。
しかし有効だと解っている対策だとしても、何事にもコストの問題は付いて回るようで、外壁の内側に内壁――より高いことが望ましい――を追加するのは、口で言うのは簡単でも膨大な費用が掛かる。
この辺りは既存の採石場からは遠いのもあって、北方の山岳地帯の魔物を駆逐して、近場に新しい石切り場を確保してから、内側の塔を壁で連結する計画は有っても、実施は延び延びになっているとか。
そもそも国境線の砦群を放棄して、シセーに篭城する今回の戦略がイレギュラーなだけで、普通はそちらを整備した方が効率的。救いなのは川と湖があるから、セメント用の砂利には困らないことだろう。
「守りに徹しているだけでは、神経が持たないってことですか」
「はい、将兵の士気が維持できません」
そこで俺の出番ってことになる。目前に迫る戦いに緊張感がせり上がって来るけど、ヒスイさんと一緒に生きて行く為なのだから、なんとしてでも成し遂げなければいけない。
それにしても、俺に決意を固めるなんて芸当が可能とはね……。
◇
俺達は城門前でシセー辺境伯に歓迎されシセー入りしたけど、十分に余裕を持たせた日程なので、直に敵軍が到着する訳ではなく。それまでの間に能力の最終確認が出来るのは嬉しい。
あまり派手なことは自粛したが、どの程度の射程が実際に可能なのか試したり、ヒスイさんと検討して最適な威力の見極めをしたり、撃ちはしないリハーサルで消費魔力量を調べたりした。
次に防御能力の確認では、まず俺自身の素での対術抵抗力を測ることになったのだけど、いきなり攻撃術を撃たれるなんてことはなく、ヒスイさんに睡眠誘導の魔術である《睡魔》を掛けて貰う。
「では、いきますね」
「お願いします」
回復系以外の魔法を受けるのは初めてだけど、ヒスイさんなら安心。
「睡魔っ! ……どうでしょうか?」
「んっ、なんともないです」
高位の魔術師らしいヒスイさんが、ゼロ距離――俺の頭を胸に抱えるような状態――で、魔力の九割強を使用した《睡魔》でも、全く眠気を催さなかったのだから、レジストのスキルは機能しているようだ。
「むしろ、この体勢の効果で眠くなりそうですよ」
「よかった……。眠っても、よろしいですよ」
俺は柔らかくも温かい双丘に顔を挟まれて、まるで温泉に浸かっているような極楽感に包まれていた。ヒスイさんのほっとしたような、思い遣りに溢れる声も安らぎを齎してくれる。
「少し勿体無い気もしますが、お言葉に甘えますね」
「ふふっ、たくさん甘えて下さい♪」
名残惜しくて頬を乳房に擦り付けるように動くと、くすぐったがるヒスイさんがキュート過ぎる。エロ目的ではないスキンシップなので、ほのぼのとした雰囲気でじゃれ合えるのも楽しい。
最近は性欲が十分に満たされているので、こうゆう余裕も持てる。
そうして、聖女に抱擁されながらの午睡から目覚めた後、念の為にと最低威力で各種攻撃術を撃って貰い、種類的な問題がないかも確認したのだけど、ヒスイさんに痛ましげな顔をさせてしまった……。
いくら効かないからって、撃つのも撃たれるのも気分は良くない。
この調査の結果から推定される俺の対術抵抗力は、高位魔術師が限界以上の魔力を使用した攻撃術だとしても、遠距離からなら傷付けられる心配はないし、それ以上の威力でも理論的には平気らしい。
とりあえず魔法で害される危険性は低いと思うので、次に考えるべきなのは、ゲームで魔術師殺しだった弓矢対策だ。対処する為の装備は持っているけど、実験してみないことには安心して頼れない。
ちなみに対射出武器装備と言えば矢除石シリーズで、《矢除石の札》は弓矢を逸らし、《矢除石の欠片》ならクロスボウも加わり、更に《矢除石》だと、スリングでの投石や投げ槍等の投擲全般を防げる。
そういう訳で、親衛騎士に協力して貰い《矢除石》の効能を試すことにした。鏃や穂先を外した上に狙いは左手で、もしもの為に医療班も待機していたけど、万が一の痛みを想像し易いからか魔法よりも恐い。
俺が盛大にびびっていようとも、矢も槍も明らかに不自然な軌道で逸れてくれたから、結果としては大成功だったのだけど、傍で見守ってくれていたヒスイさんには、かなり情けない姿を見せてしまった。
この手のことで幻滅されるとは思わないけど、微妙に凹む。
◇
ついにイベリス軍が到着して、シセーを包囲しようとし始めた日、俺とヒスイさんは護衛に囲まれ、シセーの目抜き通りを歩いていた。沿道には女王を一目見ようと多くの民衆が詰めかけている。
こうして並ぶと背は同じぐらいでも、寸胴の俺とは違いヒスイさんは腰の位置が高いモデル体形の上、ともすれば頼りなくも見える、か細い肩を見ていると、支えてあげたいと自然に思わせられる。
歓声に応えて軽く手を振る動作の一つをとっても、洗練された立ちい振る舞いには辺りを払う気品があり、強い意志の宿る蒼い瞳は、人々に鮮烈な印象を植え付けていることだろう。
仮面で顔は覆えても、生まれ持った麗質は到底隠し切れない。
これだけ人目を引く宝石が隣で輝いていれば、俺みたいな路傍の石には誰も目を向けないだろう。なんていうことは残念ながらなく、かなり注目を浴びてしまっている。
フードを外して、黒髪と黒目を晒しているから当然なんだが。
この場に黒の髪眼同色がいる意義は、俺が想像していた以上に大きいらしく、そこかしこで何やらか囁かれているけど、まあ意識を逸らせば気にならないし、これからのことで頭が一杯だ。いよいよ、だからね。
行進は顔見世程度で済ませ、馬車に乗り込んだ俺達は南門に向かう。
◇
長大な螺旋階段を苦労して登り終わると、そこは城門の脇に立つ側塔の屋上だった。広さは数十人が配置に就けそうなぐらいある。さすが高いだけあって、シセーの南側を一望にできる。
まず目に入ってくるのは、水平線が見えるほど広大なシセー湖だ。
その少し手前の辺りで、イベリス軍が堀や馬防柵を巡らして陣地を建設している。北から湖に流れ込む二本の川に挟まれているからか、隙間無く天幕の張られた幕舎は狭苦しそうだ。
加えて外壁との間には、両脇の川から水を引いた三重の水掘りが立ちはだかっている。外堀の二本はさほど広くないけど、内堀は跳ね橋さえ上げてしまえば、渡し板程度では届かずに簡易橋架が必要とか。
敵の進行を防ぐと言うより、足を鈍らせるのが目的の外堀は、一重目の辺りが、ロングボウと射出魔法の有効射程距離で、二重目の辺りが、クロスボウと範囲魔法の有効射程距離になっているらしい。
急流というほどでもないが、流れの在る天然の川をそのまま防壁として利用できる東西と比べ、南北の守りはどうなのかなと思ったけど、なかなかどうして防備は凝らされているようだ。
背水の陣を強制されるし、距離と幅の関係から陣地も密集せざるを得ないことを考えると、あまり選びたくはない布陣だろう。それだけ敵の兵数が多いということでもあるが……。
「敵は他の方角にも、陣地を作ってるんですよね?」
「はい。完全に包囲されています」
「よく、一方は開けて置くとか聞きますけど」
「時期を見計らっているのか、わたくしを逃さぬ為かと」
女王であるヒスイさんさえ倒せば、その時点で勝ちってことか。
「シセーを落してから、王都まで進軍して包囲戦をするとなると。
すぐ真冬に入ってしまいますから、出来れば避けたいのでしょう」
そっか、北国出身で南に進軍しているローレル軍はまだしも、北東に進軍するイベリス軍にとってみれば、なによりも雪が恐いのね。魔物が大人しい季節に国を守り易いってのは北国の利点だな。
「ローレルでは、冬将軍のことを青狼の加護とも言います。
今年は青狼が顕現したぐらいですから、雪は例年より早く深いはず。
と言うような理屈で、この配置を押し通したりもしました」
兵数が偏っていて少ない方に大将なんて、そりゃ普通は止めるか。
「わたくしにとりて、青狼の加護と言えばトシ様のことですが♪」
ずっと繋いでいる左掌は同じ温度になっていて、そこから絶大な信頼感が伝わって来る。敵軍を目前にして取り乱さないでいられるのも、ヒスイさんが与えてくれる安心感のおかげだ。
これから敵に魔術で攻撃――ぶっちゃけ大量殺人――をすることにも、あまり忌避を感じていない。土壇場で決断したと言うより、心身ともに良好な状態で、今日まで快適に過ごした過程から来る必然だ。
さて、具体的にどうするかと言えば……。
当初の計画では、敵が攻め寄せて来たところを魔力に物を言わせて範囲魔術で殲滅。って感じの想定だったらしいのだけど、別に敵が向かってくるのを待たなくても、俺の魔術は敵陣に直接届くことが判明した。
それなら戦端が開かれる前に先制で攻撃する方が、安全だし奇襲にもなる。と言うことになったのですよ。地形の関係で対陣の距離が普通より近いのもあるが、まだ射程伸長には余裕があったりもする。
やってたゲームが、『無双系』だったからなぁ……。
一口にVRMMOと言っても多種多様で、古式ゆかしいダンジョン探索モノから、広い世界を旅する奴や、対人戦を重視したモノとか、対モンスター戦に特化した奴まで内容は様々。
俺がプレイしていた『Infinity World Online』は、双方とも極端に後者よりのデザインで、その名に相応しい世界の広大さと、無限と言えるほどに湧き出すモンスターの量で知られていた。
何が広いかと言えば一番は視野で、通常は処理限界から付近の物体しか表示しない形式を打破して、視線と視力の許す限り、彼方まで見通せるシステムを実現。大軍を目視させることに成功した。
それを少数ないし単独で薙ぎ払えることから、ついた仇名は無双系。
騎士なら全方向からたこ殴りにされても重装備で耐え。重戦士なら重量武器を振り回し、周囲の敵を纏めて弾き飛ばすことで接近を防ぎ。身軽な軽戦士なら、密集する敵の間を潜り抜け、擦れ違い様に切り捨てて行く。
神術師は結界で敵の侵入を阻みながら援護を行い。精霊術師は姿を隠したまま、属性付与の矢を連射する。そして魔術師は、移動系の術で距離を空けながら、範囲魔術で敵集団を消滅させる。
とにかく派手で、対人戦時のバランスは当初から考慮されてない。
これが2Dや3Dなら直に飽きたろうが、VRだと爽快感や万能感が半端ではない。代わりにAIの個別性能が犠牲になっているけど、質より量を優先して成功したタイトルだ。
もしダンジョン等の限定空間で、歯応えの有る高度AIとの少数戦を楽しむゲームのキャラなら、戦闘の対象は精々が数十人までなので、ここまでぶっ飛んだ性能は持ってなかっただろう。
無数の平行世界の中から、最強の俺が選ばれただけのことはある。
「では、いきます」
静かに見詰める周囲の視線を感じながらも、俺は殆ど気負わずに杖を持つ右手を軽く上げた。別に杖が必須な訳でもないけど、なんとなく杖の先で目標を狙うようにする癖が付いてる。
――基礎術式《爆炎》の拡張を開始
広域殲滅に使い易いし、やはり対軍では火が有効らしい。
――基礎威力Cを一段階拡張……威力C+
レジスト貫通があるので、攻撃力自体はさほど必要ない。
――基礎射程Cを五段階拡張……射程A-
これだけ基点が遠いと、さすがに魔力を食われる。
――基礎範囲Cを四段階拡張……射程B+
天幕は密集しているし、敵陣の三分の一も含めれば十分とか。
――特殊拡張《飛火》を追加
爆心地を中心に火球が飛び散るので、延焼が期待できる。
――基礎魔力Cを十一段階拡張……魔力S-
この消費量は、魔力最優先装備時の五分の一ぐらい。
これでもう全ての準備は完了したので、後は術式を発動させれば人殺しになる訳だけど、ようやくと言った感もある。実は、さっさと片付けてヒスイさんと最後までしたい気持ちが一番強い。
最大の動機にして引き金が性欲なのは、自分でもどうかと思わないでもないが、絶対に失敗が許されない以上、動機付けは根源的な欲求の方が確実だと思う。ここ三日ほどは禁欲生活もしていた。
格好が悪かろうが、情けなかろうが、勝てなければ全てが終わる。
ヒスイさんとの生活を失う事など既に考えられない。何よりもヒスイさんが欲しい。愛情も身体も夫の座も全て独占したい。今が幸せだからこそ保身の為なら何でも出来る!
「…………爆炎っ!!」
――対術防御貫通スキル発動……貫通率98%99%92%94%99%……
俺は術式を唱えた後、直に瞼を閉じて目を右腕で覆った。
その瞬間に予てからの打ち合わせ通り、クリスティを始めとした親衛騎士達も其々の魔法を唱える。距離的に余波が及ぶ心配はないが、風圧や視線や匂いや音を完全に遮断して貰う。
何故こんなことが必要かと言えば、トラウマ化を防ぐ為だ。
記憶は五感で覚えると忘れ難く、特に匂いは何十年も劣化しないことがあると聞く。人道的には己の行いを直視すべきなのだろうけど、その上で乗り越えられる保障なんて、どこにも存在しない。
次のことを考えれば、殺戮の実感なんて薄ければ薄いほど良い。
もちろん俺に直接だとレジストしてしまうから、前方に張った魔術の障壁で風圧と視線を阻みつつ、精霊術で風やら空気やらを操ることで、匂いの分子と音波を寄せ付けない。
短時間の事とはいえ、結構な魔力を消費させてしまった。
周辺環境から擬似的に隔離されたの確認してから目を開くと、瞳を潤ませたヒスイさんは、ずっと繋いでいた俺の左手を掴み変え、両手で大切に包み込むように抱き締める。
暫し見詰め合っていると、ヒスイさんの手が僅かに震えていることに気が付いた。自分のことで手一杯だった俺は、今更ながらに、初陣は自分だけではなかったことに思い至った。
「トシ様、誠心より感謝致します……。ありがとうございました」
心底から、ほっとした様子のヒスイさんを見ていると、守れたんだなぁと深い満足感を覚える。後は最後の仕上げを残すのみ、ヒスイさんは掴んでいた手を離すと、両手を俺の首筋に添えて圧迫する。
こうして気絶させて貰えば、目が覚めたころには戦況が一段落しているという寸法だ。意識が朦朧として足がふら付いたところで、俺はヒスイさんに抱き留められ、ふかふかの胸を枕にして気を失った。
最後に、ヒスイさんが出陣の号令を発したのを聞きながら……。
続く
【前話 直轄領の夜(後) 【目次】 【感想掲示板】
毎回楽しみにしています。
読者の反応が栄養源です。
毎回とても楽しく読ませていただいています。
大変だとは思いますが、お体を壊さない程度に頑張ってください。応援しています。
夏バテしないように頑張ります。
安い→易い
常用外表記ではあるが、「易い」は簡単である、という意味になる。「安い」は値段の高低のニュアンスが強いかと。
シセーを落してから、王都まで進軍して包囲戦をするとなると。
すぐ真冬に入ってしまいますから、出来れば避けたいでしょう
するとなると。→するとなると、
のほうがいいかと。文の意味的に1文のほうが解釈しやすいと思います。
易いに修正しました。
。に付いては、……を使うほどではない溜めを表したつもりなので、そのままにします。
この後の主人公と姫の続きが気になります