1994年4月16日 京都 帝国陸軍技術廠 某所
BETAの休眠状態を維持するために必須である、BETA用不活性化ガスを精製するには、第二計画の成果である代謝低下酵素が不可欠だ。けれど、オルタネイティブ計画絡みの物質だけに管理は厳しく、入手方法は政府が国連に申請しての購入に限られる。
そして消耗品なので例え余っていても廃棄されることはない。そもそも生物兵器開発の凍結で、少なくない犠牲を出して捕獲したBETAの余剰分を廃棄したのは、代謝低下酵素の消費量を節約するためだ。BETAは捕虜にしても維持費が嵩む金食い虫である。
もっとも、政府からしか入手できないことは確かでも、逆に政府からでさえあれば日本政府からでなくても良い。無論、その辺の金に困ってる亡命政府から買えるほど簡単ではないが、そこは蛇の道は蛇という奴で、こういう場合に都合の良い取引相手がいたりする。
オルタネイティブ計画の関係者は各派閥共に、十分な準備――詳細については議論が分かれる――が整うまでは、オリジナルハイヴに手を出さない方針だから、早期の喀什攻略を望む勢力にとっては、オルタネイティブ計画自体が目の上のたんこぶになっている。
特に喀什が自国領土に近い中東や南アジア辺りは、作戦自体が国土奪還にも繋がるし、攻略に成功しさえすれば、戦局の挽回に繋がるのは確かなので、たとえ成功の見込みはほとんど無いと言われていても、乾坤一擲みたいな願望が強くなるのも無理はない。
オルタネイティブ計画は、そういう暴発を押さえ込むための抑止力でもある。
それ故に言動を縛られていると感じる為政者も多く、計画と不可分な関係にあるバンクーバー体制に反発する軍人は無数におり、今はまだ緩い連帯ながら、数年後には『反オルタネイティブ計画派』と、呼ばれることになる集団は既に世界規模で広がっていた。
帝国内でも、政府が帝国軍施設を国連軍に開放することを“軍の切り売り”と見る向きもあり、特に統帥権の確立を旗印にしている統帥派は、当然のように反オルタネイティブ計画派と繋がりを持ち、代謝低下酵素はそちらから購入――もちろん正規価格より高く――した。
「第四計画招致の正念場だってのに、これは完全に一線を越えてますね」
「日本案に採用の芽があるとは、夢にも思っていなかったのだろうな」
統帥派だって別に馬鹿じゃないから、日本案が第四計画に採用されると判っていたら、反オルタネイティブ計画派と深い繋がりを持ったりはしなかったろう。けれど、その可能性を端から除外していたどころか、門前払い同然の扱いを受けると決めて掛かっていた。
これは帝大案が日本案に選ばれたことへの反発だけではなく、驚くべきことに防大案でも落選を前提としていた節がある。対BETA生物兵器を独自開発して帝国の切り札にすることで、他国の案が採用された状況下でも、国連軍相手に発言権やらを確保するのが狙いだったらしい。
「なんか発想が後ろ向きと言うか、"国連に日本案を採用させて他国軍を便利に使ってやる”ぐらいの気概は無いんですかね」
まずもって保身が先に立ち、挑戦しようという意思がまるで感じられない。
「大東亜戦争での敗戦以来、日本国自体が主体性を喪失した状態にあったせいもあるが、上に年寄りが多過ぎるのかも知れんな。戦時であることを口実に何時までも居座られては、人事が硬直化して敵わんよ」
現役年齢制限制を超えるようなお歴々に居残られていると、上層部の世代交代が甚だしく滞る。徐々に入れ替わってる中堅はまだしも、未だに旧時代の概念を引きずっている将官もいて、そういう人間は新機軸への理解も浅く、一から勉強し直すような意欲にも乏しい。
空軍パイロットからの転換が失敗に終わり、衛士への教育改革が叫ばれたとの同時に、指揮運用側もドクトリン変更に伴う再教育の必要性に迫られた結果、若手に対する再教育制度は充実した。しかし、地位もプライドも高いお偉いさんに再教育の強制は出来なかった。
兵器は交換すれば良いけれど、人はそう簡単には変われないもの。
年齢的に新しい事を覚えるのは辛いというのなら、速やかに後進に道を譲るべきであるのに、困った事にそういう時代遅れの人間ほど、引退後に自分の方針が否定されることを恐れて、地位にしがみ付くことで路線変更を抑えようとする傾向がある。
帝国軍に撃震が導入されてから20年近く経ち、押しも押されぬ戦場の主役と見做されている戦術機だが、兵種としてはまだまだ若く、中堅層ですら他科からの転属組みが多いぐらいで、上層部に戦術機畑の生え抜きは驚くほど少ない。
もちろん中には、新兵器である戦術機への造詣を深めるため、上級士官中途教育制度――資格所得のために各種学校で学び直せる制度――を利用して衛士訓練校に入校し、自ら望んで新兵と同じ操縦訓練課程を受け、正真正銘の衛士徽章を獲得した彩峰中将のような傑物もいるが。
そもそも戦術機の導入からして一悶着があり、所属兵科――機甲科に属するか戦術機甲科を新設するか――を巡る綱引きは凄まじかった。なまじ戦術機が多用途なこともあり、現在ですら運用思想面での黎明期を脱したとは言い難い。
戦術機関連は未だに、上から下まで個人の力量が物を言う段階だ。
「この際ですし、足を引っ張る人達には隠居して貰いましょう」
「どうするつもりかね?」
左近の問いかけには、武を試すような響きがある。
「招致への影響を考えれば決定まで使えないのはもちろん、その後も外患援助罪などの大事にはし難いですから、『陸軍機密費横領事件』辺りが落しどころですか。どちらにしろ私の手には余りますので、行使についてはプロに委ねるつもりです。丁度良いお土産にも成りますしね」
このカードは鋭すぎて、専門家でもなければ到底扱いきれない。
「妥当だな、帝国内のパワーバランスも多少は改善するだろう」
統帥派を叩き潰せば良いわけではなく、必要なのは適切な均衡だ。
「それにしても、よくこれだけ確たる証拠を押さえられましたね」
左近は苦笑しながら、大戦果の理由を武に説明する。
「施設の場所、研究の概要、技術責任者の名前、これだけの情報を事前に教わっていればな」
どんな隠蔽工作も、最初からそれと知っている相手には無意味だ。
「おまけに基地施設明け渡しの可能性まで聞いていれば、その隙を突くのは容易い」
榊政権は第四計画の招致に成功した場合に備え、帝国陸軍白陵基地に同計画直属の衛士訓練学校の設立を予定。帝国陸軍に対して同基地の引渡し準備を命じ、政府側は狙ってやったわけでもあるまいに、図らずも後藤部隊を隠れ家から押し出す結果となった。
「何かを失敬するのに引越し時ほど楽なものはないよ。それが夜逃げ同然なら尚更だ」
どこに重要な情報が隠されているのか、相手が自ら教えてくれる。
「あやふやな話だったので、上手く行くか不安だったんですけどね」
「なに、もう慣れた。大枠さえ教われば後はこちらで絞るさ」
なんだかんだで二人は、既に三年以上の付き合いになっている。
「ところで、今後、後藤教授が亡命する可能性ってありますか?」
ただでさえサンプル不足などで研究に限界を感じていたところに、白陵基地の接収で止めを刺された格好なのだから、引越し先の開発環境も高が知れている。後藤教授が研究を最優先に考えるならば、日本では開発が継続できないと判じて、他国に身を寄せようとしても不思議はない。
「ふむ……、一先ず未完成の兵器は置くとして、『ウイルスを特定の細胞だけに感染・死滅させる技術』は、癌治療の分野に応用できれば画期的な治療法に成り得る。これを手土産に亡命を申し出れば、どこの国でも諸手を挙げて受けいれるだろう。帝国との関係悪化を考慮しても十二分に魅力的だな」
中ソ両国の核兵器使用は言うに及ばず、BETAの侵攻に原発の停止が間に合わなかった事例、劣化ウラン弾の世界規格化など、世界規模で放射性物質がばら撒かれている影響かは不明だが、世界中で癌患者は増加の一途を辿っている。
もし効果的な治療法を確立できれば、国の財源の一つに成り得るレベルだ。
特に北米大陸で戦略核の集中運用を行った米国は、政治的にも喉から手が出るほど欲しい技術だから、後藤教授が生物兵器開発の支援などを亡命の条件にしても、最大限可能な限り飲むだろう。それに完成の見込みが薄いとは言え、生物兵器の方にも見るべき点はある。
「それなんですけど、月面での運用が前提なら、どれだけ危険なウイルスでも躊躇わずに使えますよね」
月攻略作戦なら戦略兵器を使い放題というのは一般的な認識だが、核兵器は地表にいるBETAの殲滅には効果的でも、下方に対して威力が弱いという爆弾の性質だけはどうにもならず、ハイヴを攻略するのに有効な兵器とは言い難い。
そこに、効果範囲内なら地面だろうと何だろうと構わず抉り取る、G弾の圧倒的な優位性があるわけだが……、重力が地球の六分の一しかない月でG弾を使用した場合、重力異常の影響度も格段に高くなるだろうことが懸念されている。
もし月が公転軌道を外れて地球に接近して来たら、衝突回避のために月を迎撃するなんて笑えない事態になるし、逆に地球から離れて行く場合でも、潮汐力が激減して深刻な環境問題を引き起こす。
こうして並べてみると、月攻略に生物兵器というのは十分に有望だ。
「できれば、亡命は自主的に思い止まって貰いたいんですけど」
前の世界で最終的に亡命した人物だとしても、やむにやまれぬ状況に追い込まれてのことかも知れないので、そのことだけを持ってして売国奴とは断じられない。言うまでも無く、巨額の国費を費やして開発した技術の流出は見過ごせないが。
「この流れだと、後藤教授は遅かれ早かれ証拠隠滅を図る統帥派に切り捨てられる公算が高い。国外への亡命を決意するとしたらその前後だろうから……タイミングを見計らって此方で保護し、その時の条件次第と言ったところか」
かなり先になるとはいえ、帝国でも生物兵器に未来があること、元々医学博士なのだから、暫くは斯衛医務官として医学分野で実績を積み、いずれ政治環境が落ち着いたら帝国軍の軍医総監にでも推すので、それから凍結された開発計画を復活させれば良い、辺りか。
加えて、摂家が後ろ盾になれば簡単に手出しはされないし、ライバル関係だった相手の軍門に下るぐらいなら死んだ方がマシな人でも、将軍の膝下に入る形ならプライドは保てる。古来より時の権威は、寝返りの口実として便利に使れた来た実績がある。
「これで駄目そうなら、鎧衣さんの判断に任せます」
「了解した。確かに失うには惜しい人材だからな」
説得の条件には雷電と悠陽の許可が必須だし、後藤教授に対する交渉の成否は不確定だが、首尾よく運んだ場合の利益は大きい。少なくとも最悪の事態は防げそうだ。榊首相との会談前に強力なカードを得られたのも好都合なので、今回の情報交換で得たものは破格だった。
そうして武が満足していると、左近が楽しそうに語りかけてくる。
「まったく君は、神の御業か悪魔の力か……そのどちらかでも所持しているのかね?」
これだけ何度も未来を見通しているかのような依頼をしていれば、常識外の要素を疑われても仕方ない。しかし、前の世界では夕呼にした質問を武にしたと言うことは、それだけ武の能力を左近が認めている証拠でもあろう。
同時に、夕呼も武への疑惑を強くしているとの警告でもある。
制限時間までに夕呼と交渉できるだけの下地が整うかは、全て榊首相との会談に掛かっている、と言っても過言ではない。そこで左近を相手に隠し通す段階は通り過ぎたと判断した武は、秘密の堅持よりも会談の成功率を上げる方を優先したのだ。
もはや惚ける必要がなくなった武は、敢えて気軽に答える。
「どちらかと言えば後者ですが、今後ともよろしく」
「勿論だとも、頼もしい限りだ」
二人共、どんな種類の力だろうと使えるものは使う主義だ。
1994年9月11日 京都 首相官邸 総理執務室
帝国議会では現在、徴兵対象年齢の引き下げ及び、学徒志願兵の動員を可能とする法案が審議されている。新徴兵制度が施行された場合、徴兵対象年齢は18歳から40歳に、後方任務に限定した志願兵の受付開始年齢は16歳からとなる。
そんな議会情勢の最中、首相官邸にはマスコミと十数人の志願兵が集められていた。男女の内訳は半々で、女性志願兵達の年齢構成は18歳から20台半ばまでと幅広く、男性志願兵達は18歳と19歳の集団に、一人で平均年齢を引き下げる武が混じっている。
斯衛は男女ともに16歳での志願が通例だが、年齢規定が存在しないので制度的な問題はない。しかし、こうして他の志願兵と一緒に並ぶとかなり目立つ。もし武が既に実績を挙げている開発衛士でなければ、政治宣伝の意図が露骨に成り過ぎたことだろう。
榊首相と若年志願兵の対談イベント自体は、武は十数人の内の一人でしかないので、二言三言の受け答えをしただけで終わった。その後の個々人へのインタビューは、レポーターに質問される形で、志願に至るまでの経緯や意気込みなんかを語るのだが……。
やはりと言うか、当たり前のように武の来歴だけ突出している。
公式記録に記載されている文面では、夕呼に見出され帝国大学の初等部に編入、悠陽に面会した折に新概念OSのアイデアを上奏、それを元に煌武院家が製作した試作OSが技術廠で評価され、XMシリーズは戦術機用OSとして正式に採用された。
然る後、新概念OS発案の功績を煌武院家に認められ、黒の斯衛軍少尉として抜擢任官、悠陽たっての希望で近侍に取り立てられる。そして現在は、新概念OSを発案したことから適正を見込まれ、次世代の高等練習機である吹雪の次席開発衛士として技術廠へと出向している。
不知火開発に関わったのは任官前なので非公式だが、それを抜いても十分過ぎるほど異常な経歴だ。ここまで行くと完璧過ぎて反感を買いそうなので、武は小学校時代は平凡な子供だったことや、『チョップ君』に似ていると言われたことがあると答えたりして笑いを誘った。
そのせいか後日、予想以上に名前が売れてしまい驚くことになる。
武がいた小学校を取材すれば、イタズラ小僧だったのは直ぐに知れることだし、チョップ君はヘタレで有名なキャラクター。つまり悪ガキが人類の危機に一念発起して猛勉強、偉い人達に引き上げられて~と、大衆受けし易いストーリーが自然に出来上がってしまった。
それはまた別の話として、マスコミからの取材が終わった武は、首相補佐官に連れられて総理執務室へと案内された。さっきまでのは余興みたいなもので、ただ広告塔になりに来たわけではない。これからが本番だと武は気を引き締める。
――日本帝国内閣総理大臣、榊是親との会談が始まった。
【前話 国内選考秘話】 【目次】 【感想掲示板】
BETAの休眠状態を維持するために必須である、BETA用不活性化ガスを精製するには、第二計画の成果である代謝低下酵素が不可欠だ。けれど、オルタネイティブ計画絡みの物質だけに管理は厳しく、入手方法は政府が国連に申請しての購入に限られる。
そして消耗品なので例え余っていても廃棄されることはない。そもそも生物兵器開発の凍結で、少なくない犠牲を出して捕獲したBETAの余剰分を廃棄したのは、代謝低下酵素の消費量を節約するためだ。BETAは捕虜にしても維持費が嵩む金食い虫である。
もっとも、政府からしか入手できないことは確かでも、逆に政府からでさえあれば日本政府からでなくても良い。無論、その辺の金に困ってる亡命政府から買えるほど簡単ではないが、そこは蛇の道は蛇という奴で、こういう場合に都合の良い取引相手がいたりする。
オルタネイティブ計画の関係者は各派閥共に、十分な準備――詳細については議論が分かれる――が整うまでは、オリジナルハイヴに手を出さない方針だから、早期の喀什攻略を望む勢力にとっては、オルタネイティブ計画自体が目の上のたんこぶになっている。
特に喀什が自国領土に近い中東や南アジア辺りは、作戦自体が国土奪還にも繋がるし、攻略に成功しさえすれば、戦局の挽回に繋がるのは確かなので、たとえ成功の見込みはほとんど無いと言われていても、乾坤一擲みたいな願望が強くなるのも無理はない。
オルタネイティブ計画は、そういう暴発を押さえ込むための抑止力でもある。
それ故に言動を縛られていると感じる為政者も多く、計画と不可分な関係にあるバンクーバー体制に反発する軍人は無数におり、今はまだ緩い連帯ながら、数年後には『反オルタネイティブ計画派』と、呼ばれることになる集団は既に世界規模で広がっていた。
帝国内でも、政府が帝国軍施設を国連軍に開放することを“軍の切り売り”と見る向きもあり、特に統帥権の確立を旗印にしている統帥派は、当然のように反オルタネイティブ計画派と繋がりを持ち、代謝低下酵素はそちらから購入――もちろん正規価格より高く――した。
「第四計画招致の正念場だってのに、これは完全に一線を越えてますね」
「日本案に採用の芽があるとは、夢にも思っていなかったのだろうな」
統帥派だって別に馬鹿じゃないから、日本案が第四計画に採用されると判っていたら、反オルタネイティブ計画派と深い繋がりを持ったりはしなかったろう。けれど、その可能性を端から除外していたどころか、門前払い同然の扱いを受けると決めて掛かっていた。
これは帝大案が日本案に選ばれたことへの反発だけではなく、驚くべきことに防大案でも落選を前提としていた節がある。対BETA生物兵器を独自開発して帝国の切り札にすることで、他国の案が採用された状況下でも、国連軍相手に発言権やらを確保するのが狙いだったらしい。
「なんか発想が後ろ向きと言うか、"国連に日本案を採用させて他国軍を便利に使ってやる”ぐらいの気概は無いんですかね」
まずもって保身が先に立ち、挑戦しようという意思がまるで感じられない。
「大東亜戦争での敗戦以来、日本国自体が主体性を喪失した状態にあったせいもあるが、上に年寄りが多過ぎるのかも知れんな。戦時であることを口実に何時までも居座られては、人事が硬直化して敵わんよ」
現役年齢制限制を超えるようなお歴々に居残られていると、上層部の世代交代が甚だしく滞る。徐々に入れ替わってる中堅はまだしも、未だに旧時代の概念を引きずっている将官もいて、そういう人間は新機軸への理解も浅く、一から勉強し直すような意欲にも乏しい。
空軍パイロットからの転換が失敗に終わり、衛士への教育改革が叫ばれたとの同時に、指揮運用側もドクトリン変更に伴う再教育の必要性に迫られた結果、若手に対する再教育制度は充実した。しかし、地位もプライドも高いお偉いさんに再教育の強制は出来なかった。
兵器は交換すれば良いけれど、人はそう簡単には変われないもの。
年齢的に新しい事を覚えるのは辛いというのなら、速やかに後進に道を譲るべきであるのに、困った事にそういう時代遅れの人間ほど、引退後に自分の方針が否定されることを恐れて、地位にしがみ付くことで路線変更を抑えようとする傾向がある。
帝国軍に撃震が導入されてから20年近く経ち、押しも押されぬ戦場の主役と見做されている戦術機だが、兵種としてはまだまだ若く、中堅層ですら他科からの転属組みが多いぐらいで、上層部に戦術機畑の生え抜きは驚くほど少ない。
もちろん中には、新兵器である戦術機への造詣を深めるため、上級士官中途教育制度――資格所得のために各種学校で学び直せる制度――を利用して衛士訓練校に入校し、自ら望んで新兵と同じ操縦訓練課程を受け、正真正銘の衛士徽章を獲得した彩峰中将のような傑物もいるが。
そもそも戦術機の導入からして一悶着があり、所属兵科――機甲科に属するか戦術機甲科を新設するか――を巡る綱引きは凄まじかった。なまじ戦術機が多用途なこともあり、現在ですら運用思想面での黎明期を脱したとは言い難い。
戦術機関連は未だに、上から下まで個人の力量が物を言う段階だ。
「この際ですし、足を引っ張る人達には隠居して貰いましょう」
「どうするつもりかね?」
左近の問いかけには、武を試すような響きがある。
「招致への影響を考えれば決定まで使えないのはもちろん、その後も外患援助罪などの大事にはし難いですから、『陸軍機密費横領事件』辺りが落しどころですか。どちらにしろ私の手には余りますので、行使についてはプロに委ねるつもりです。丁度良いお土産にも成りますしね」
このカードは鋭すぎて、専門家でもなければ到底扱いきれない。
「妥当だな、帝国内のパワーバランスも多少は改善するだろう」
統帥派を叩き潰せば良いわけではなく、必要なのは適切な均衡だ。
「それにしても、よくこれだけ確たる証拠を押さえられましたね」
左近は苦笑しながら、大戦果の理由を武に説明する。
「施設の場所、研究の概要、技術責任者の名前、これだけの情報を事前に教わっていればな」
どんな隠蔽工作も、最初からそれと知っている相手には無意味だ。
「おまけに基地施設明け渡しの可能性まで聞いていれば、その隙を突くのは容易い」
榊政権は第四計画の招致に成功した場合に備え、帝国陸軍白陵基地に同計画直属の衛士訓練学校の設立を予定。帝国陸軍に対して同基地の引渡し準備を命じ、政府側は狙ってやったわけでもあるまいに、図らずも後藤部隊を隠れ家から押し出す結果となった。
「何かを失敬するのに引越し時ほど楽なものはないよ。それが夜逃げ同然なら尚更だ」
どこに重要な情報が隠されているのか、相手が自ら教えてくれる。
「あやふやな話だったので、上手く行くか不安だったんですけどね」
「なに、もう慣れた。大枠さえ教われば後はこちらで絞るさ」
なんだかんだで二人は、既に三年以上の付き合いになっている。
「ところで、今後、後藤教授が亡命する可能性ってありますか?」
ただでさえサンプル不足などで研究に限界を感じていたところに、白陵基地の接収で止めを刺された格好なのだから、引越し先の開発環境も高が知れている。後藤教授が研究を最優先に考えるならば、日本では開発が継続できないと判じて、他国に身を寄せようとしても不思議はない。
「ふむ……、一先ず未完成の兵器は置くとして、『ウイルスを特定の細胞だけに感染・死滅させる技術』は、癌治療の分野に応用できれば画期的な治療法に成り得る。これを手土産に亡命を申し出れば、どこの国でも諸手を挙げて受けいれるだろう。帝国との関係悪化を考慮しても十二分に魅力的だな」
中ソ両国の核兵器使用は言うに及ばず、BETAの侵攻に原発の停止が間に合わなかった事例、劣化ウラン弾の世界規格化など、世界規模で放射性物質がばら撒かれている影響かは不明だが、世界中で癌患者は増加の一途を辿っている。
もし効果的な治療法を確立できれば、国の財源の一つに成り得るレベルだ。
特に北米大陸で戦略核の集中運用を行った米国は、政治的にも喉から手が出るほど欲しい技術だから、後藤教授が生物兵器開発の支援などを亡命の条件にしても、最大限可能な限り飲むだろう。それに完成の見込みが薄いとは言え、生物兵器の方にも見るべき点はある。
「それなんですけど、月面での運用が前提なら、どれだけ危険なウイルスでも躊躇わずに使えますよね」
月攻略作戦なら戦略兵器を使い放題というのは一般的な認識だが、核兵器は地表にいるBETAの殲滅には効果的でも、下方に対して威力が弱いという爆弾の性質だけはどうにもならず、ハイヴを攻略するのに有効な兵器とは言い難い。
そこに、効果範囲内なら地面だろうと何だろうと構わず抉り取る、G弾の圧倒的な優位性があるわけだが……、重力が地球の六分の一しかない月でG弾を使用した場合、重力異常の影響度も格段に高くなるだろうことが懸念されている。
もし月が公転軌道を外れて地球に接近して来たら、衝突回避のために月を迎撃するなんて笑えない事態になるし、逆に地球から離れて行く場合でも、潮汐力が激減して深刻な環境問題を引き起こす。
こうして並べてみると、月攻略に生物兵器というのは十分に有望だ。
「できれば、亡命は自主的に思い止まって貰いたいんですけど」
前の世界で最終的に亡命した人物だとしても、やむにやまれぬ状況に追い込まれてのことかも知れないので、そのことだけを持ってして売国奴とは断じられない。言うまでも無く、巨額の国費を費やして開発した技術の流出は見過ごせないが。
「この流れだと、後藤教授は遅かれ早かれ証拠隠滅を図る統帥派に切り捨てられる公算が高い。国外への亡命を決意するとしたらその前後だろうから……タイミングを見計らって此方で保護し、その時の条件次第と言ったところか」
かなり先になるとはいえ、帝国でも生物兵器に未来があること、元々医学博士なのだから、暫くは斯衛医務官として医学分野で実績を積み、いずれ政治環境が落ち着いたら帝国軍の軍医総監にでも推すので、それから凍結された開発計画を復活させれば良い、辺りか。
加えて、摂家が後ろ盾になれば簡単に手出しはされないし、ライバル関係だった相手の軍門に下るぐらいなら死んだ方がマシな人でも、将軍の膝下に入る形ならプライドは保てる。古来より時の権威は、寝返りの口実として便利に使れた来た実績がある。
「これで駄目そうなら、鎧衣さんの判断に任せます」
「了解した。確かに失うには惜しい人材だからな」
説得の条件には雷電と悠陽の許可が必須だし、後藤教授に対する交渉の成否は不確定だが、首尾よく運んだ場合の利益は大きい。少なくとも最悪の事態は防げそうだ。榊首相との会談前に強力なカードを得られたのも好都合なので、今回の情報交換で得たものは破格だった。
そうして武が満足していると、左近が楽しそうに語りかけてくる。
「まったく君は、神の御業か悪魔の力か……そのどちらかでも所持しているのかね?」
これだけ何度も未来を見通しているかのような依頼をしていれば、常識外の要素を疑われても仕方ない。しかし、前の世界では夕呼にした質問を武にしたと言うことは、それだけ武の能力を左近が認めている証拠でもあろう。
同時に、夕呼も武への疑惑を強くしているとの警告でもある。
制限時間までに夕呼と交渉できるだけの下地が整うかは、全て榊首相との会談に掛かっている、と言っても過言ではない。そこで左近を相手に隠し通す段階は通り過ぎたと判断した武は、秘密の堅持よりも会談の成功率を上げる方を優先したのだ。
もはや惚ける必要がなくなった武は、敢えて気軽に答える。
「どちらかと言えば後者ですが、今後ともよろしく」
「勿論だとも、頼もしい限りだ」
二人共、どんな種類の力だろうと使えるものは使う主義だ。
1994年9月11日 京都 首相官邸 総理執務室
帝国議会では現在、徴兵対象年齢の引き下げ及び、学徒志願兵の動員を可能とする法案が審議されている。新徴兵制度が施行された場合、徴兵対象年齢は18歳から40歳に、後方任務に限定した志願兵の受付開始年齢は16歳からとなる。
そんな議会情勢の最中、首相官邸にはマスコミと十数人の志願兵が集められていた。男女の内訳は半々で、女性志願兵達の年齢構成は18歳から20台半ばまでと幅広く、男性志願兵達は18歳と19歳の集団に、一人で平均年齢を引き下げる武が混じっている。
斯衛は男女ともに16歳での志願が通例だが、年齢規定が存在しないので制度的な問題はない。しかし、こうして他の志願兵と一緒に並ぶとかなり目立つ。もし武が既に実績を挙げている開発衛士でなければ、政治宣伝の意図が露骨に成り過ぎたことだろう。
榊首相と若年志願兵の対談イベント自体は、武は十数人の内の一人でしかないので、二言三言の受け答えをしただけで終わった。その後の個々人へのインタビューは、レポーターに質問される形で、志願に至るまでの経緯や意気込みなんかを語るのだが……。
やはりと言うか、当たり前のように武の来歴だけ突出している。
公式記録に記載されている文面では、夕呼に見出され帝国大学の初等部に編入、悠陽に面会した折に新概念OSのアイデアを上奏、それを元に煌武院家が製作した試作OSが技術廠で評価され、XMシリーズは戦術機用OSとして正式に採用された。
然る後、新概念OS発案の功績を煌武院家に認められ、黒の斯衛軍少尉として抜擢任官、悠陽たっての希望で近侍に取り立てられる。そして現在は、新概念OSを発案したことから適正を見込まれ、次世代の高等練習機である吹雪の次席開発衛士として技術廠へと出向している。
不知火開発に関わったのは任官前なので非公式だが、それを抜いても十分過ぎるほど異常な経歴だ。ここまで行くと完璧過ぎて反感を買いそうなので、武は小学校時代は平凡な子供だったことや、『チョップ君』に似ていると言われたことがあると答えたりして笑いを誘った。
そのせいか後日、予想以上に名前が売れてしまい驚くことになる。
武がいた小学校を取材すれば、イタズラ小僧だったのは直ぐに知れることだし、チョップ君はヘタレで有名なキャラクター。つまり悪ガキが人類の危機に一念発起して猛勉強、偉い人達に引き上げられて~と、大衆受けし易いストーリーが自然に出来上がってしまった。
それはまた別の話として、マスコミからの取材が終わった武は、首相補佐官に連れられて総理執務室へと案内された。さっきまでのは余興みたいなもので、ただ広告塔になりに来たわけではない。これからが本番だと武は気を引き締める。
――日本帝国内閣総理大臣、榊是親との会談が始まった。
続く
【前話 国内選考秘話】 【目次】 【感想掲示板】
月面で生物兵器という発想はなかったですね…
私も自分のSSで月面攻略の際にどうするかを考えていましたが、G弾は月の質量や地球との位置関係から使えないだろう程度まででした
さて、榊総理とのご対面ですがどんな話になるのか楽しみにしております
作中で月攻略戦をやる予定はないので、展望止まりですけどね。
(書くとしたら外伝か裏話)
榊首相との初対面は山場ですので、気合を入れて書くつもりです。
門前払いではないでしょうか?
修正しました。
我ながら、どうやってこんな間違いしたんだろ(汗
お体に気をつけて連載頑張って下さいね(^^
1話から31話まで一息に読んでしまいました。
睡眠と仕事がおぼつきません(笑)
これからの展開がとても楽しみです。
是非続きをお願いいたします。
ただ、生存報告だけは欲しいです・・・
そして、私も待っています!
どうか生存報告をください!
生存報告だけでもお願いします
今読んでも面白いですね。
幼くして、斯衛軍に入る斬新な展開も好きでした。
いつかは、続きが読めることを期待しております。
その日までどうぞお元気で。