桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

「虚構の法治国家」を読んで

2015-05-11 | Weblog
この前、参議院議員会館で行われた、刑訴法の改悪に反対する集会のおり、元検察官の郷原信郎弁護士とお会いした。
集会後、ご挨拶したらば、国会内での予定でお急ぎの様子だったが、ご持参の書籍を渡してくださった。それが「虚構の法治国家」だった。
元裁判官で、瀬木氏と同じように裁判所を批判される森炎氏と郷原弁護士の対談形式の書籍だったが、裁判所、検察庁ともに、正義と真実を語る資格のない、退廃した組織であることと、これを正すには、検察官も裁判官も過ちを犯したらば法的な責任を負わせる法律を作るしかないことを再確認させられた。
戦争責任を逃れた検察官や裁判官が、そのまま戦後も生き残って戦前の人権感覚で「裁判」に携わって来たうことが、どうやら「今の体たらく」を作ったようだ。これは「そうだろう」と思っていた。
法務省が裁判所の上に存在した戦前と同じに、今も検察官が圧倒的に支配する法務省ゆえに、裁判官は精神的に検察に「もたれ」た判断をする、と森氏は指摘する。従って、「冤罪ではないか」と疑いながらも有罪にする、と指摘しているのには、「そこまでか!」とタメ息の思いだった。
郷原弁護士は「引き返す検察になって欲しい」と、この前の集まりでも語っておられたことを、この書籍でも言っておられるが、腐れ検察が反省するはずもなければ、事が判って引き返すはずもない。社会批判が起これば目先を誤魔化すために言葉を操り、ただ「猿の反省」ポーズを示すだけだろう。この書籍でも郷原氏は厳しく批判しているが、郵政不正事件と陸山会にあった前田検事と田代検事の「証拠改ざん事件」に対した、全く整合性のない決着こそ、検察庁の本質を顕す事実はない。
起訴したらばひたすらに有罪を求め、無実の証拠を隠すことを初め、何でも行う体質を持つ検察がゆえに、我々の冤罪もあった。そして、今も仲間が苦しめられている。
この積年の辛苦の思いを晴らすには、無実の人が受けた苦しみに等しい罪を、過ちを犯した検察官に科し、過ちを見逃した裁判官にも、それ相応の罪を科すことにしなければならない。
それで職務を果たせない検察官と裁判官は、違う職業を選べば良いだろう。