桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

ライバル!

2015-04-28 | Weblog
袴田さんが来客を相手に将棋を楽しんでいて、なかなか強いと聞いた。連戦連勝、負けたのは1度だとか言う。しかも、負けたときは「最初から仕組まれていた」と主張して、素直に敗けを認めないと言うので、ならば行って負かし、敗けを認めないときは「年間19戦も闘ったボクサーが、潔くない!敗けは認めて、そろそろ目覚めて!」と言おうと考えて、今日は浜松に来た。
対戦してみると、なかなか強い。居王と呼ばれ、王様を囲わないで闘うところに甘さを感じ、強引に攻めたが、いきなり2連敗。3連敗は出来ないと頑張り、それから4連勝したが、最後は、また角を抜かれるミスを犯して負けた。
どきどきネットでやることはあったが、将棋盤で向かい合うのは、何年振りだろうか。
いゃあ楽しかった。
弱かったらば、わざわざ行く甲斐がないと思ったが、時間の過ぎるのを忘れた3時間だった。
帰る時間が近くなり、少し話したが、この前よりは、確実に話が噛み合い、袴田さんの意識が戻りつつあるのも知り、嬉しく楽しい浜松行きになった。
次は、6月に熱海での再戦を約束して別れて来た。

「それでもボクは会議で闘う」を読んで

2015-04-28 | Weblog
法制審議会の委員をされた、映画監督の周防正行さんとは、何度もシンポジウムでご一緒した。何時も穏やかで、冷静沈着、的確に発言される方で、酒席もご一緒してるが、監督は酒は飲まれず、ノンアルコールで、俺の酔った放言を許してくれる、そもそも俺とは人間の出来が違う。
その周防監督が、法制審議会で体験されたことを書かれたのが題名の書籍で、岩波書店から発刊されたものをご寄贈頂いて読むことが出来た。
取り調べの可視化を議論した法制審議会を征していたのは、法務官僚である検察官職にある人物たちだ。法務省の課長職以上の8割は、検察官として就職した人たちが、法務省に異動して任務をこなしている。検察人事の下にある以上、検察の意向に従っているだけだし、事務方も含めて法制審議会は、法務省の意向で進められるのは必然だ。
そこに警察官僚が加わる。しかも、拳銃を持って実行捜査力を持つ警察は、その力ゆえに、法的には上位にある検察よりも、実質的には上に位置する。
冤罪を作る連中が支配した法制審議会なのだから、周防監督の「取り調べの全面可視化を!全面的な証拠開示を!」と訴える正論は、殆ど糠に釘の状態だ。
その経過を記した「それでもボクは会議で闘う」は、社会常識の通用しない裁判村の感覚に奮然される周防監督の怒りに我が怒り重なり、何度も読むのを中断しなければならなかったほどだ。
周防監督も書いているが、警察が言う「可視化すると真相の解明が行えない」とする主張は、全く納得出来ない。誰が、警察に事件の真相を解明する仕事を依頼したのだろうか?
真相の解明は裁判でこそ、なされるべきものだろう。パソコン遠隔操作事件の誤認逮捕・自白事件に対する、警視庁刑事局長舟木馨の弁明など、全く冤罪を反省しない輩の主張を読むたび、身体が熱くなるほどの怒りが沸き上がった。
警察官僚、検察官僚、裁判官僚、それに御用学者たちは、無実で拘束される痛みも苦しみも感じていない。やはり、過ちを犯したらば、それ相応の処罰を受ける法律を作る必要がある。奴らは、無責任、無処罰だから、好き勝手をするのだと、再認識した。
裁判村の異常感覚を相手に奮闘された、周防監督や村木厚子さんに、心から「お疲れさまでした」の言葉を贈りたい。
周防監督の妥協が、何を生み出すか、平然と証拠を捏造したり隠匿する警察と検察だ。その性悪を骨身に沁みて知る俺は、これからも「なおも闘う」ことで全面可視化と全面証拠開示の実現を目指すつもりだ。そして何時かは、当たり前に冤罪を作った捜査官が処罰される法律を作らせたいねぇ。

手段を選ばない人たち

2015-04-28 | Weblog
今回、選挙カーの運転手をして興味深い体験をした。選挙カーが擦れ違うとき、相手候補にエールを送ったり、車を停めて候補者が話しているときは、そこに来た他の候補者カーは、拡声器から声を出さないで妨害しないで通るのだ。自民党でも無所属でも民主党でも、どの候補者カーも、この暗黙のルールを守っていた。
例え主義主張は違っても、同じ政治の土俵で戦う同士への敬意なのだろうが、その「敬意」を見せない候補者カーもあった。
公明党だ。
俺の運転する候補者カーが停まり、その車上に立つ候補者が話をしていても、平然と無視して「公明党です!五十嵐ひろしです!」と、鋭い声を出し続けて通って行った。余りにも甲高い声に、公明党カーが通り過ぎるまで、車上の候補者が黙ったほどだった。
目的のためには手段を選ばない人たち、そんな感じを、改めて受けた。
創価学会は宗教的基盤が脆弱だ。確か、東京都の宗教法人しか得ていなかったはずだ。その上に、その宗教の根源である日蓮宗からは破門されてしまい、今や日蓮宗ではなくて、単に法華経を読む集団と化している。その法的、宗教的存在の脆弱さ故か、創価学会や公明党を批判する存在に対しては、実に鋭利的で悪辣な反撃をする。
聖教新聞を読めば功徳があり、創価学会の作る墓地を買えば功徳があり、財務と称する献金を、多くて出せば出すほどに功徳があるのだとか。そんなことを信じる人が多くあるのは、なぜか。巨大な宗教集団である創価学会は、俺には謎だなぁ。
その財務で得る巨額の金は無税だ。銀行を牛耳り、社会勢力としての力を拡大させる創価学会と尖兵たる公明党だが、五十嵐ひろしカーの傍若無人振りには、改めて怖い人たちだと思わされた。
民主主義政治とは、目的を行うために選ぶ手段を決めるものだ。目的のために手段を選ばない人たちほど、政治や民主主義に敵対する存在はない、と俺は思うが、この創価学会・公明党が政権与党であることも、日本の政治の悲劇だろう。かの田中角栄は、藤原コウタツ氏に対する言論弾圧を行った創価学会を評して「ヒットラーに似たる存在」と語ったことがあったが、さて、その行く末は!?

ピンチはチャンス

2015-04-28 | Weblog
俺は冤罪を体験しない自分はあり得ないと思っている。冤罪を体験したからこそ、内面的に変わったり、得たりしたことが多くて、31歳で無期懲役刑が確定したとき「これで社会で生きる俺の人生は終わった」と、目の前が暗く感じた絶望を味わったが、実は、あの絶望は希望へのスタートだった。
今になれば、その絶望から始まった希望だったと判るけども、絶望の最中は大変だった。余りにも苦しいから、俺は苦しみや悲しみを見ないで、どんな些細なことでも良いから喜びや楽しみだけを探して生きた。不思議なもので冤罪で過ごす刑務所にも、それなりの喜びや楽しみはあった。そして、何時しか俺なりに生きる意義を見つけることも出来た。人生に1度限りの今日という1日を、たとえ刑務所でも明るく楽しくやる、そんな思いだった千葉刑務所での日々は、思い返すと煌めいているようで、あのときの自分の姿を見てみたい思いになる。
ピンチはチャンス、苦しみに出会ったときこそ、何かを生み出すときなのだと思っている。
そんな俺だから原巨人に腹が立つ。
すぐに肉離れをする飽食の過ぎた阿部のひ弱な身体。ただ強振するばかりでバッティングはタイミングだと判らないらしい村田の不振。選球眼のない長野。成長し切れない坂本。主力と期待した中軸打者は、全員がダメだ。そんな今だからこそ、若手を育てるチャンスじゃないか。
不振の中軸打者ばかりでも上位で争っているのだから、3番に抜擢した橋本の大活躍のように、明日の巨人を築くために辛抱して若手を使いながら育てるのが、真の監督たる者だろう。
それなのに、またも外国人の補強だ。ピンチはチャンス、判ってないよなぁ。
原監督は、若手打者を育てたヤクルト真中監督の爪の垢でも飲むことだね。