桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

もう一丁!

2014-09-18 | Weblog
曽野・百田先生の対談で、もう1つ、書きたいことがある。
もうフラッシュ誌は捨てたので、詳しい引用は出来ないが、あの東日本大震災で避難した人たちに対して「災害報道で腹がたつのは、ひたすら援助を待っていることだ。なぜ握り飯や缶詰などを持って来ないのだ。甘えだ」と非難していたことだ。
この先生たちは、どのような大災害にあっても、常に冷静かつ理性的で動揺しない行動が出来るのだろうが、あの大地震の被害を受けて、本当に言うように行動出来るのだろうか。
真に知性と理性があるならば、あの凄まじい揺れと津波からの被害を受け、命からがらに逃げのびた人たちに対して、「甘えだ」とは、どこから言える言葉なのかと思うと、お二人の感性には、ひたすら畏れ入るばかりだ。人の痛みや苦しみを思いやる心は微塵もないらしい。
曽野綾子は「本が売れてアブク銭が入った」とも言っていたが、それは「野垂れ死にの覚悟」とか言う本だろうか。
俺は読むつもりもないが、政治に頼らずに自分の力でやれ、甘えるななどと、社会に説教する曽野綾子だ、中身は知れている。どんな人が、どんな思いで読むのか知らないが、政治権力の茶坊主となり、その庇護の下にある曽野綾子は、絶対に野垂れ死にはしない。自分を埒外に置いて高見から下々に垂れるご高説は、いかに「言うは人に依らず」とは言え、余りにも無責任な「覚悟の勧め」ではなかろうか。
仮初めにも作家たる者が、自分の思いを込めて書いた作品を、「アブク銭」と言うものかと思えば、その表現にこそ、曽野綾子自身が「アブク銭たる」無責任な中身の本だと自覚している証だろうし、本の中身を言い得て妙かも知れない。
このような政治権力におもねる口先の輩が、本来は権力環視の存在であるべきマスコミが寵児と扱い、跳梁跋扈させる時代の危うさを感じる対談だった。
両大先生は、日本人の劣化を嘆いておられるが、人の苦悩に無慈悲な両大先生の無遠慮な言動と存在こそ、天下に日本人の劣化を知らせるものはないと思うのだが、果たして曽野綾子先生の信ずる神は、どちらに軍配を上げますやらねぇ。

法制審議会要請

2014-09-18 | Weblog
今日は3回目の法制審議会要請だった。
本日、法制審議会は、先に発表した「法改正案」を採択して答申を行うことで、改めて「改悪になる答申はするな」と申し入れた。
可視化は、極一部。証拠開示もリストのみ。再審ではリストの開示もない。そんな不充分な改正なのに、「可視化すると自白をえられなくなって証拠収集が困難になる。従って、他に証拠収集手段を作る」として、警察による盗聴が自由化され、更にサーバーに忍び入って過去に遡ってメールをも盗み見すると言うのだ。俺は刑務所で手紙も面会も立ち会いや検閲で、自分の心を盗み見された。その不愉快さと不快感は耐え難かった。
それなのに、今度は警察が国民の心を盗み見すると言う。俺は絶対に嫌だ。
これだけでも許せないが、司法取引が許され、自分の罪は軽くして貰う代わりに、他人の罪を密告する制度にすると言う。過去にも、北九州の引野口事件や福井の女子中学生殺し事件などで、実際に嘘の告発によって冤罪が作られていることを思えば、今までの警察による証拠のでっち上げとは違う冤罪が、公然と作られることになる。
こんな法制審議会の答申は、絶対に認められない。