曽野・百田先生の対談で、もう1つ、書きたいことがある。
もうフラッシュ誌は捨てたので、詳しい引用は出来ないが、あの東日本大震災で避難した人たちに対して「災害報道で腹がたつのは、ひたすら援助を待っていることだ。なぜ握り飯や缶詰などを持って来ないのだ。甘えだ」と非難していたことだ。
この先生たちは、どのような大災害にあっても、常に冷静かつ理性的で動揺しない行動が出来るのだろうが、あの大地震の被害を受けて、本当に言うように行動出来るのだろうか。
真に知性と理性があるならば、あの凄まじい揺れと津波からの被害を受け、命からがらに逃げのびた人たちに対して、「甘えだ」とは、どこから言える言葉なのかと思うと、お二人の感性には、ひたすら畏れ入るばかりだ。人の痛みや苦しみを思いやる心は微塵もないらしい。
曽野綾子は「本が売れてアブク銭が入った」とも言っていたが、それは「野垂れ死にの覚悟」とか言う本だろうか。
俺は読むつもりもないが、政治に頼らずに自分の力でやれ、甘えるななどと、社会に説教する曽野綾子だ、中身は知れている。どんな人が、どんな思いで読むのか知らないが、政治権力の茶坊主となり、その庇護の下にある曽野綾子は、絶対に野垂れ死にはしない。自分を埒外に置いて高見から下々に垂れるご高説は、いかに「言うは人に依らず」とは言え、余りにも無責任な「覚悟の勧め」ではなかろうか。
仮初めにも作家たる者が、自分の思いを込めて書いた作品を、「アブク銭」と言うものかと思えば、その表現にこそ、曽野綾子自身が「アブク銭たる」無責任な中身の本だと自覚している証だろうし、本の中身を言い得て妙かも知れない。
このような政治権力におもねる口先の輩が、本来は権力環視の存在であるべきマスコミが寵児と扱い、跳梁跋扈させる時代の危うさを感じる対談だった。
両大先生は、日本人の劣化を嘆いておられるが、人の苦悩に無慈悲な両大先生の無遠慮な言動と存在こそ、天下に日本人の劣化を知らせるものはないと思うのだが、果たして曽野綾子先生の信ずる神は、どちらに軍配を上げますやらねぇ。
もうフラッシュ誌は捨てたので、詳しい引用は出来ないが、あの東日本大震災で避難した人たちに対して「災害報道で腹がたつのは、ひたすら援助を待っていることだ。なぜ握り飯や缶詰などを持って来ないのだ。甘えだ」と非難していたことだ。
この先生たちは、どのような大災害にあっても、常に冷静かつ理性的で動揺しない行動が出来るのだろうが、あの大地震の被害を受けて、本当に言うように行動出来るのだろうか。
真に知性と理性があるならば、あの凄まじい揺れと津波からの被害を受け、命からがらに逃げのびた人たちに対して、「甘えだ」とは、どこから言える言葉なのかと思うと、お二人の感性には、ひたすら畏れ入るばかりだ。人の痛みや苦しみを思いやる心は微塵もないらしい。
曽野綾子は「本が売れてアブク銭が入った」とも言っていたが、それは「野垂れ死にの覚悟」とか言う本だろうか。
俺は読むつもりもないが、政治に頼らずに自分の力でやれ、甘えるななどと、社会に説教する曽野綾子だ、中身は知れている。どんな人が、どんな思いで読むのか知らないが、政治権力の茶坊主となり、その庇護の下にある曽野綾子は、絶対に野垂れ死にはしない。自分を埒外に置いて高見から下々に垂れるご高説は、いかに「言うは人に依らず」とは言え、余りにも無責任な「覚悟の勧め」ではなかろうか。
仮初めにも作家たる者が、自分の思いを込めて書いた作品を、「アブク銭」と言うものかと思えば、その表現にこそ、曽野綾子自身が「アブク銭たる」無責任な中身の本だと自覚している証だろうし、本の中身を言い得て妙かも知れない。
このような政治権力におもねる口先の輩が、本来は権力環視の存在であるべきマスコミが寵児と扱い、跳梁跋扈させる時代の危うさを感じる対談だった。
両大先生は、日本人の劣化を嘆いておられるが、人の苦悩に無慈悲な両大先生の無遠慮な言動と存在こそ、天下に日本人の劣化を知らせるものはないと思うのだが、果たして曽野綾子先生の信ずる神は、どちらに軍配を上げますやらねぇ。