桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

あくまでも俺の思い

2013-02-12 | Weblog

「死刑論」について、色々と意見を書いてくれた人がいる。

俺は、たとえ死刑囚でも命ある人。犯罪は犯罪として裁きがあっても、その後の命を大事にすべきと思っている。犯罪者の命をも大事にする社会になってこそ、この世に生きる人の人権も命も大事にされるだろうと思うからだ。

「税金の無駄、死刑囚は、即、執行すべき」の意見には組みしない。

人を殺した人が悪い、被害者の気持ちを考えろ、浅原を許せるのか、と問われた。

人を殺した人が悪いなど、当たり前のことだ。考える必要もなかろう。しかし江戸時代とは違う。司法制度は復讐ではないのだ。

今、被害者が法廷に出てきて、殺せ、永久に刑務所に入れろ、と語らせているが、俺は間違っていると思う。

被害者の苦しみは、とても体験者にしか判るまい。俺は、冤罪の苦しみを知っているから被害者の体験もしているが、どのような苦しみがあったとしても「その苦しみを以て」、だから犯人は許せない、死刑だと、被害者以外が声高に叫ぶのは、何故なのか、理解できない。

自分が正義の護り手のように錯覚したいのかも知れないが、本当に必要なのは苦しむ人への癒しだろう。

愛する人を奪われた傷みは、たとえ犯罪者を殺したとて、癒されようか?殺したから殺せ!と言うのでは江戸時代の敵討ち、復讐ではないか。

どうすれば犯罪被害にあった人たちを、癒し、慰めることができるのか、社会が考え、システムとして作ることが必要だろう。

犯罪被害者を癒すシステムを構築することは、長く放置されて来て、今も満足ではない。その原因は「自己責任」として問題を放置し、赦しと癒しに無関心で来た日本国民にあると、俺は思っている。

死刑で問題を解決できる、すると思う人は、臭いモノに蓋をするだけと違うだろうか。

弱い者に過酷で、生きることの困難な社会になるのは、命が大事にされないからだ。一人ひとりの命こそ大事にし、社会として「死刑囚でも命を大事にしよう」と言う社会になってこそ、俺は人を殺す人を少なくも出来ると思ている。

麻原を許せるか、だが。 

麻原のお粗末な宗教論に惑わされた、多くの高学歴の弟子たちを思うとき、果たして麻原彰晃一人の罪だろうか、と俺は考えている。

なぜ、あそこまでの犯罪行為を許して来たのか、警備捜査当局の歪みを思うねえ。麻原彰晃には、気の毒な人と思うだけだね。俺は、人を許したり、非難したり、裁いたり出来るほどの人間ではないからね。


初午祭り

2013-02-12 | Weblog





毎年、2月11日は百里基地に反対し、土地買収に応じなかった人たちの闘いに連なる祭り日。それを初午祭りと呼んでいる。
今年も東京や埼玉からバスで参加した人たちなど、2百名くらいの人が集まり、飲んで、語って、唄って、戦争反対の意思を示して来た。
今は、茨城空港が作られ、誘導路を曲げる土地を所有する意味合いを薄められてしまったが、どんな大金にも転ばない平和への願いは、全く変わることはなく、これからも伝えられて行くことだろう。