桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

神田明神

2011-01-07 | Weblog
今日は事務局会議。まだ松の内だが、社会は普通に動き始めていて、殆んど正月気分は消えている。
東京の事務所はお茶の水駅に近く、神田明神も近いが、今まで参詣したことがなかった。時間が出来たので思い立ち、行ってみた。
外は風も強くて寒い。早足で行ってみると、境内が黒い色の人たちばかり。華やいだ色は一つもない。正月の神社とは思えない異様さだった。
神田明神は商売の神様、大黒さま、恵比寿さまが祭神で会社関係者が揃ってお詣りに来ていたのだ。
余りの寒さに預かって行ったお賽銭を箱に投じ、祈ろうかと思ったが、何を祈るかも思わない無念無想と言うか、たた両手を合わせただけだった。
こんな参詣、何の意味があったやら。

好き嫌い

2011-01-07 | Weblog
俺は好き嫌いが多い。子供のころなど、ネギの白い部分も食べなかったが、刑務所暮らしのお陰で、その好き嫌いも大分改善された。とは言え、俺の食べ物観には、好き、普通、どっちでもない、嫌い、食べられない、と、5段階の感覚がある。
この感覚に付いては、これまでに連れ合いに嫌味を言われたりしたが、食べられない物以外は、必ず食べている。当たり前だが、これが連れ合いは、少し違う。
今朝は好物の雑煮。望んで作って貰ったが、カボチャが入っていた。醤油味に甘いカボチャ、俺の食感にはミスマッチで「カボチャは入れない方が良かった」と言ったが、椀に入った物だから食べた。
今年の餅は、かなり腰があり、昔の味を思い出させる美味さだし、もう少し食べたい思いで完食した。そして、暫くしてフッと気付くと、連れ合いの椀には食べ残したカボチャが残っていた。聞けば美味くないと言う。
俺は食べ物の好き嫌いに敏感で、細かく差を示すが、食べるということでは、拘りなく食べている。その俺の感覚を「理解できません」などと言う連れ合いは、無造作に食べ物を残す。
この差は何だろうと考えた朝だった。

2011-01-07 | Weblog
塀の中にいたときは暦に敏感だった。体温しか新しい温かさのない独房では、何よりも寒さは大敵だった。だから、温かい春を待ち望み、1日ごとに暦を確かめ、夜明けの時刻や日差しの長さを計りながら過ごしていた。
身体的には厳しい体験だったが、風の中に含まれり香りにまで、季節を感じて生きていた月日は、人間としては豊かな思いを味わったように感じる。
寒い朝は、すぐにストーブ、空調、日差しさえも自由に味わえる生活は、人としては当たり前なのだろうが、何かを失っていることだけは確かだ。
今朝は、殊の外に冷えて、さぞや獄にある仲間は寒かろうと思ったらば、1日も早く仲間にも自由を取り戻したいと思ったし、そのために俺の為すべきことを果たさなければならないとも思った。
今日から活動が始まる。冤罪を作る検察の横暴を食い止める俺の闘いが始まる。