サジッタ&清史郎の部屋

相棒3頭と暮らす馬日記

OB会記念誌への寄稿-3

2005-12-22 18:23:51 | 庄原TRF
いや~、超寂しい私のブログにコメントをくれた〔源三の父〕さん(学生時代に同期の女子学生からは〔スーミン〕と呼ばれていた)に感謝の気持ちを込めて、4日間に別けてUPする予定だった【OB会記念誌への寄稿-3】も本日掲載しちゃいましょう。

寄稿-3は昭和55年全日本学生障害馬術大会についての【2回走行編】、そして明日UPする寄稿-4は昭和55年全日本学生総合馬術大会についての【Three Day Event編】に分かれています。

・・・では、前回からの続きです・・・


さて、開き直りの延長で関西学生複合馬術大会もそれなりの結果で通過し、私たちは昭和55年11月の全日本学生馬術大会へと文字通り駒を進めました。腰を痛めて障害馬から完全に馬場馬術だけで出場した田中雅行騎乗のリラを除き、障害馬術にサーデン・田部、カシオペア・阪本、ベニ-デン・松井、スコルピオ・池内の4人馬が、そして当時は3DAYで行なわれた総合馬術にはラーフィー・武田を加えた5人馬が出場しました。
 現役最後の試合となったこの競技会も色々な思いでが多く、未だに馬術を続けている私の動機のひとつでもあります。

当時の京都産業大学馬術部は全日本学生障害馬術大会で団体上位入賞の常連校で、団体優勝を狙うというのは決して夢ではなかったのです。事実2年前の吉村主将の代では2回走行初日は団体1位で折り返し、結果は優勝に届かなかったものの後輩としては大いに胸に帰するものがあったのです。
 中障害2回走行の初日、緊張の面持ちで競技場へ下見に入った私の目に入ったものは、審判席に居る懐かしい顔。私が馬術を始めた広島大学馬術部コーチの笠置氏が審判員に入っていたのです。笠置氏も下見をする選手の中に小さいころから知っている監督の息子が居るはずと探してキョロキョロしていました。審判席に向かって手を振る私に、『真剣にやれ!!』と同期生からの叱責もあり、視線を合わせることなく下見終了です。
 試合は進み、先陣を切ったカシオペア・阪本組はまさかの失権。次が私たちの出番でしたが、その日のサーデンはすばらしい集中力で準備運動の障害はかすりもせず、経験したことが無い絶好調でした。大変な手応えとともに私の脳裏に浮かんできたのは翌日の表彰式で一番高い所に立っている自分の姿で、出番前というのに頬がほころんできて仕方なく、頬の内側を歯で噛み締めて笑いをこらえるほどでした。名前のコールとともに場内へ飛び込んだ時、京都産業大学、タベ選手とコールされたのがタナベ選手と訂正されたのを聞き、審判席の笠置氏が訂正するよう放送係りに指示した事も冷静に頭の中に入って来ました。
 大半の選手がベル前にスタートラインを横切って失権する危険性を回避するため入場してすぐに敬礼したのですが(当時の障害規程は、敬礼前にスタートラインを横切るとベル前スタートで失権でした)、私は審判席真下まで行って笠置氏の視線を見ながら敬礼。その時笠置氏は眞一郎が挨拶しに来たと私の意図を汲み取ったと後日聞きました。その日の結果は3落下で、絶好調のサーデンの邪魔をしたのはやはり未熟な騎手でした。その日の僚友は、スコルピオ・池内組が2落、そしてチームの守護神的なベニ―デン・松井組はカシオペアに続き、やはりまさかの失権でした。4頭中2頭が失権で、団体入賞の夢は初日で消えたのです。
 続いて2日目。カシオペア・阪本組は2日続いての失権でしたが、ベニーデン・松井組は必ずゴールし、京都産業大学の意地を見せてくれるものと思っていました。しかし一度狂った歯車は噛合うことなく2日目も失権でした。チームを引っ張ってきたベニ-デン・松井組の失権を目の当たりにし、自分の出番に備えて地下道を潜りサーデンの元へ走った私の頭の中にあったものは、京都産業大学の看板は俺たちが守らねばならないというか、猛烈な闘争心でした。準備運動でのふざけた感情など皆無で、ただただ推進あるのみといった感情でした。サーデンの結果は-0の満点走行で、2日間トータル3落下。僚友のスコルピオ・池内は2日目も2落下で2日間トータル-16でした。10位以降の個人表彰はありませんでしたが、私が12位くらいで、池内は13位くらいでした。

【・・・、では明日の OB会記念誌への寄稿-4へ続く・・・
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OB会記念誌への寄稿-2

2005-12-22 06:45:14 | 庄原TRF
 さて、昨日の続きです・・・。


【物言わざるは腹ふくるる技なり】
私たち13期は入学時に部員も13人でした。上級生になるにつれ退部する者も居ましたが、4回生になった時点で体を壊して馬に乗らなくなった部員を除いても7名が選手でした。その7名に担当馬を割り振るために開かれた委員会で、それぞれが乗りたい馬が合ったものの他の部員に遠慮して発言が止まってしまった時の荒木先生の言葉が、【物言わざるは腹ふくるる技なり】でした。
『貴様ら、物言わざるは腹ふくるる技なり、という言葉を知っとるか。徒然草を書いた兼好法師の言葉じゃが、人に直言などしないで黙っていれば敵を作らないことになり生活が安泰で飯に困ることが無い。つまり腹が脹れるという解釈と、人に言いたいことを言わないで腹の中に貯めていると、ストレスが溜まって腹が膨れるという解釈もある。どちらの解釈が如何とは言わないが、皆黙っていないで思うところを言いなさい。』と仰ったのです。
そこで私はもう一人の部員が上級生になるまで、さほど部活動に熱心でなかったことなどを発言し、必ず乗りこなして見せるから乗せて欲しいと発言しました。今にして思えば、この発言が私の苦しい最上級生としての日々の始まりでしたが、言ったもの勝ちで私が希望の馬に乗ることとなりました。私が乗りこなすと言った馬は、エース馬のサーデン。試合ではガンガン走る馬でしたが、練習では粘っこく、特に障害飛越はハミ受け・推進とテンションのコントロールが出来ない私には苦痛で、しかも踏み切り位置をしばしば間違えて先跳びしハミを外すから、馬は辛かったと思います。
5月の産大大会は障害が低かったから何とかなったものの、6月の関西学生馬術大会は馬に助けられての入賞。その後の月例大会では競技会で初の反抗を経験するし、どん底でした。担当コーチの山脇氏には申し訳ないし、部員の視線も厳しい。サーデンには乗りたいが、チーム全体のことを考えると自分はサーデンにふさわしく無いとの思いが有りました。
【人間万事塞翁が馬】
 全日本学生大会の予選会である8月の関西学生馬術大会のエントリーを決める委員会では、もう一人の部員からサーデンに乗りたいとの意見が出て、私もこれ以上はダメだと思ったし、同級生も田部では無理との意見でした。最後に私の意見を求められた時は『何も言うことはありません。』としか言えませんでした。しかし全く予期していなかったことに村田澄男コーチから『サーデンは田部で行きます。色々と意見はあるでしょうが、この議論は打ち切ります。』と発言があり、私のエントリーが決まりました。針の筵とはこのことで、委員会後に私に声を掛けてくる同期は居ませんでした。
 そんな思いで出場した試合でしたが、競技会場の阪神競馬場へ入厩する前夜、調子の悪い肢の確認のため飼い付け直後の馬房に不用意に入ってジャックポットという馬に右手中指と薬指を思いっきり咬まれ、中指は3針、薬指も1針縫う怪我を負ってしまいました。当時は現地で伝貧検査を行なう検疫があったため競技開始は3日後という幸運にも恵まれましたが、それでも右手の感覚は手綱を握るには程遠かったです。準備運動は最悪で、それでも馬に助けられて2日間を2落・2落の-16で走行。しかしチームは京都大学、同志社大学に続いての団体3位で、全日本学生への出場は団体1位に与えられる5頭ではなく4頭という惨敗でした。チームに対する責任が果たせなくて非常に申し訳なく、敗戦の責任を一人強く感じました。
 公式日程が終了し、馬だけ京都に帰して選手権予選のために上級生だけが阪神競馬場に居残った夜、同級生と一緒に居られず一人で仁川駅前の焼き鳥屋でビールを飲むうちに私がサーデンに乗っていたのでは馬事公苑で勝てないという思いが強まりました。これ以上チームに迷惑は掛けられないから潔くサーデンから身を引こうと決め、雨の中をトボトボと厩舎へ帰りました。涙が流れて、守衛所の前は笠を低く差して通り過ぎ、宿舎で同級生に、迷惑を掛けたけど今回の試合でサーデンから下りますと伝えた後は泣いてしまって言葉になりませんでした。
 京都に帰って山脇コーチにサーデンから下りさせてくださいとお願いし、何となく肩の荷が下りてほっとしていた時、山脇コーチから報告を受けられたのか村田澄男コーチから一緒に飲もうとお誘いがありました。難しい話もしないで、同期の池内と3人で飲むうちに、村田コーチが荒木先生の家へお邪魔しようと言い出されました。
 突然の来訪にも先生は迷惑そうな顔もされず、馬場では見せられない表情で雑談してくださいました。その時荒木先生は、手元の本を取り上げ、『貴様ら、人間万事塞翁が馬という言葉を知っとるか。』と物語の謂れを話してくださり、『田部は馬で苦労しとるが、このことは貴様の将来で役に立つことがあると思うぞ・・』とだけ仰いました。技術的な話は一切なし、無理だから下りろとも、もっと頑張ってみろとも仰らなかったのです。
 何となく開き直った気持ちになって、もう一度サーデンに乗せて欲しいと言ったとき、反対する同級生はいませんでした。

 もう一つ荒木先生の言葉が大きく影響し、指導的な立場になった私が広島大学馬術部の教え子に荒木先生の言葉そのままを伝えて、その学生の人生の大きな転機になった言葉がありますが、これは和駿第三號にとっておきます。


【・・・・、ではまた明日
コメント (3)
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