いや~、超寂しい私のブログにコメントをくれた〔源三の父〕さん(学生時代に同期の女子学生からは〔スーミン〕と呼ばれていた)に感謝の気持ちを込めて、4日間に別けてUPする予定だった【OB会記念誌への寄稿-3】も本日掲載しちゃいましょう。
寄稿-3は昭和55年全日本学生障害馬術大会についての【2回走行編】、そして明日UPする寄稿-4は昭和55年全日本学生総合馬術大会についての【Three Day Event編】に分かれています。
・・・では、前回からの続きです・・・
さて、開き直りの延長で関西学生複合馬術大会もそれなりの結果で通過し、私たちは昭和55年11月の全日本学生馬術大会へと文字通り駒を進めました。腰を痛めて障害馬から完全に馬場馬術だけで出場した田中雅行騎乗のリラを除き、障害馬術にサーデン・田部、カシオペア・阪本、ベニ-デン・松井、スコルピオ・池内の4人馬が、そして当時は3DAYで行なわれた総合馬術にはラーフィー・武田を加えた5人馬が出場しました。
現役最後の試合となったこの競技会も色々な思いでが多く、未だに馬術を続けている私の動機のひとつでもあります。
当時の京都産業大学馬術部は全日本学生障害馬術大会で団体上位入賞の常連校で、団体優勝を狙うというのは決して夢ではなかったのです。事実2年前の吉村主将の代では2回走行初日は団体1位で折り返し、結果は優勝に届かなかったものの後輩としては大いに胸に帰するものがあったのです。
中障害2回走行の初日、緊張の面持ちで競技場へ下見に入った私の目に入ったものは、審判席に居る懐かしい顔。私が馬術を始めた広島大学馬術部コーチの笠置氏が審判員に入っていたのです。笠置氏も下見をする選手の中に小さいころから知っている監督の息子が居るはずと探してキョロキョロしていました。審判席に向かって手を振る私に、『真剣にやれ!!』と同期生からの叱責もあり、視線を合わせることなく下見終了です。
試合は進み、先陣を切ったカシオペア・阪本組はまさかの失権。次が私たちの出番でしたが、その日のサーデンはすばらしい集中力で準備運動の障害はかすりもせず、経験したことが無い絶好調でした。大変な手応えとともに私の脳裏に浮かんできたのは翌日の表彰式で一番高い所に立っている自分の姿で、出番前というのに頬がほころんできて仕方なく、頬の内側を歯で噛み締めて笑いをこらえるほどでした。名前のコールとともに場内へ飛び込んだ時、京都産業大学、タベ選手とコールされたのがタナベ選手と訂正されたのを聞き、審判席の笠置氏が訂正するよう放送係りに指示した事も冷静に頭の中に入って来ました。
大半の選手がベル前にスタートラインを横切って失権する危険性を回避するため入場してすぐに敬礼したのですが(当時の障害規程は、敬礼前にスタートラインを横切るとベル前スタートで失権でした)、私は審判席真下まで行って笠置氏の視線を見ながら敬礼。その時笠置氏は眞一郎が挨拶しに来たと私の意図を汲み取ったと後日聞きました。その日の結果は3落下で、絶好調のサーデンの邪魔をしたのはやはり未熟な騎手でした。その日の僚友は、スコルピオ・池内組が2落、そしてチームの守護神的なベニ―デン・松井組はカシオペアに続き、やはりまさかの失権でした。4頭中2頭が失権で、団体入賞の夢は初日で消えたのです。
続いて2日目。カシオペア・阪本組は2日続いての失権でしたが、ベニーデン・松井組は必ずゴールし、京都産業大学の意地を見せてくれるものと思っていました。しかし一度狂った歯車は噛合うことなく2日目も失権でした。チームを引っ張ってきたベニ-デン・松井組の失権を目の当たりにし、自分の出番に備えて地下道を潜りサーデンの元へ走った私の頭の中にあったものは、京都産業大学の看板は俺たちが守らねばならないというか、猛烈な闘争心でした。準備運動でのふざけた感情など皆無で、ただただ推進あるのみといった感情でした。サーデンの結果は-0の満点走行で、2日間トータル3落下。僚友のスコルピオ・池内は2日目も2落下で2日間トータル-16でした。10位以降の個人表彰はありませんでしたが、私が12位くらいで、池内は13位くらいでした。
【・・・、では明日の OB会記念誌への寄稿-4へ続く・・・】
寄稿-3は昭和55年全日本学生障害馬術大会についての【2回走行編】、そして明日UPする寄稿-4は昭和55年全日本学生総合馬術大会についての【Three Day Event編】に分かれています。
・・・では、前回からの続きです・・・
さて、開き直りの延長で関西学生複合馬術大会もそれなりの結果で通過し、私たちは昭和55年11月の全日本学生馬術大会へと文字通り駒を進めました。腰を痛めて障害馬から完全に馬場馬術だけで出場した田中雅行騎乗のリラを除き、障害馬術にサーデン・田部、カシオペア・阪本、ベニ-デン・松井、スコルピオ・池内の4人馬が、そして当時は3DAYで行なわれた総合馬術にはラーフィー・武田を加えた5人馬が出場しました。
現役最後の試合となったこの競技会も色々な思いでが多く、未だに馬術を続けている私の動機のひとつでもあります。
当時の京都産業大学馬術部は全日本学生障害馬術大会で団体上位入賞の常連校で、団体優勝を狙うというのは決して夢ではなかったのです。事実2年前の吉村主将の代では2回走行初日は団体1位で折り返し、結果は優勝に届かなかったものの後輩としては大いに胸に帰するものがあったのです。
中障害2回走行の初日、緊張の面持ちで競技場へ下見に入った私の目に入ったものは、審判席に居る懐かしい顔。私が馬術を始めた広島大学馬術部コーチの笠置氏が審判員に入っていたのです。笠置氏も下見をする選手の中に小さいころから知っている監督の息子が居るはずと探してキョロキョロしていました。審判席に向かって手を振る私に、『真剣にやれ!!』と同期生からの叱責もあり、視線を合わせることなく下見終了です。
試合は進み、先陣を切ったカシオペア・阪本組はまさかの失権。次が私たちの出番でしたが、その日のサーデンはすばらしい集中力で準備運動の障害はかすりもせず、経験したことが無い絶好調でした。大変な手応えとともに私の脳裏に浮かんできたのは翌日の表彰式で一番高い所に立っている自分の姿で、出番前というのに頬がほころんできて仕方なく、頬の内側を歯で噛み締めて笑いをこらえるほどでした。名前のコールとともに場内へ飛び込んだ時、京都産業大学、タベ選手とコールされたのがタナベ選手と訂正されたのを聞き、審判席の笠置氏が訂正するよう放送係りに指示した事も冷静に頭の中に入って来ました。
大半の選手がベル前にスタートラインを横切って失権する危険性を回避するため入場してすぐに敬礼したのですが(当時の障害規程は、敬礼前にスタートラインを横切るとベル前スタートで失権でした)、私は審判席真下まで行って笠置氏の視線を見ながら敬礼。その時笠置氏は眞一郎が挨拶しに来たと私の意図を汲み取ったと後日聞きました。その日の結果は3落下で、絶好調のサーデンの邪魔をしたのはやはり未熟な騎手でした。その日の僚友は、スコルピオ・池内組が2落、そしてチームの守護神的なベニ―デン・松井組はカシオペアに続き、やはりまさかの失権でした。4頭中2頭が失権で、団体入賞の夢は初日で消えたのです。
続いて2日目。カシオペア・阪本組は2日続いての失権でしたが、ベニーデン・松井組は必ずゴールし、京都産業大学の意地を見せてくれるものと思っていました。しかし一度狂った歯車は噛合うことなく2日目も失権でした。チームを引っ張ってきたベニ-デン・松井組の失権を目の当たりにし、自分の出番に備えて地下道を潜りサーデンの元へ走った私の頭の中にあったものは、京都産業大学の看板は俺たちが守らねばならないというか、猛烈な闘争心でした。準備運動でのふざけた感情など皆無で、ただただ推進あるのみといった感情でした。サーデンの結果は-0の満点走行で、2日間トータル3落下。僚友のスコルピオ・池内は2日目も2落下で2日間トータル-16でした。10位以降の個人表彰はありませんでしたが、私が12位くらいで、池内は13位くらいでした。
【・・・、では明日の OB会記念誌への寄稿-4へ続く・・・】