忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

草刈りを

2005-07-21 | 日々
 田んぼが無くなって久しいが,水路は今も生きている。一面の稲田は住宅地などに変貌したが、まだしぶとく農地や空き地も残っている。
 その一つに関係する土地がありたまたま横を通ると、水路に架かる橋の片側が草で覆われ溝が全く見えなくなっていた。
 欄干のない平らな橋で、よく人や車が落ちなかったとホットする。気がついた時にと、鎌を取りに帰ってきて刈り始めた。
 草刈り機で刈るので鎌で手刈りなどほとんどしない。たまの手刈りに握る草の感触を懐かしくも感じる。右手に鎌、左手はジャンケンのグーの形に草を握る。
 刈っているのは雑草で太い茎やら小さい草と手応えも香りもバラバラ、それなのに、遠い昔の麦や稲刈りを思い浮かべて懐かしかった。
 日陰でも三十度を超えていた。日差しの下の気温はかなり有るはずでいい汗かいたが、草丈が伸びていて屈めば木漏れ日状態の場所もあり救われた。

桶つくり

2005-07-20 | 追憶
 今のわが家で木の桶や樽は、現役では一つも使用していないが、プラスチック製品にその座を譲るまで、木製品や竹製品がほとんどだった。
 米びつ、たらい、洗い物に貯蔵用にと桶も何種類もあって使い分けていた。年に一・二回真新しいきれいで香りのよい大小様々な桶を担いで売りにも来た。
 昔は各に一軒か二軒の桶屋があったくらいに、生活の必需品でもあったのだ。たがが緩んだり板も縮み腐りもする。
 多少の傷みは祖父が自分で修理していたのを、子供の頃よく見ていた。板を削ってはめ込み、切ってきた竹を割り編んでたがを造って木槌で叩きこむ。
 修理だけかと思っていたら、ある時祖父が桶を造ると言って家にある材料でほんとに大きな桶を一人で仕上げたのには感心した。
 少し表面が粗いのと水漏れを止めるのに手間取ったが、祖父の腕前も大したもんだった。桶造りの道具が一揃い家に有ることをそのとき初めて知った。 

聞けるうちに

2005-07-19 | 平和を
 昨年もらった原爆体験集に文が載っていた人のことだが、よく出会えるようになったのだけどもう話を聞ける状態ではなくなっていると残念そうな子どもからの話。
 被爆とか戦争を体験した人たちも高齢となった。二度と話が聞けなくなるということは、社会にとって大きな損失で平和への痛手ともなる。
 イラクのような海外であっても、戦争を体験した若者たちが日本にこれ以上増えて欲しくない。戦争を過去形で語れる世の中でありたい。
 聞ける時間話せる時間は、いくらでもあるようで意外に少ないものだ。聞きたい話たい気持ちも互いに気付かないまま、擦れ違いで終ることの方が多いだろう。
 
 くどいようだが今回の電話でも、子どももそうだが孫たちも、おじいちゃんおばあちゃん曾おばあちゃんたちが元気なうちに、たっぷり話しを聞かせてもらって思い出づくりをしておくようにと奨めた。私の悔いを繰り返してほしくもないし、家族の会話が増えることで得るものも大きいと思う。

茶の子

2005-07-18 | 日々
 茶の子と書かれた品が届いた。仏事に関するしきたりだろうが、誰も知らず先方に電話もしかねる。冠婚葬祭の本や辞書、ウェブサイトも探してやっと判った。
 茶菓子、仏事などの供物または配り物、などの意味を持っているらしい。同じ仏教でも宗派とか地域や家により、宗教に対する思い入れにもかなり程度の差があるようで戸惑う。
 先祖や故人を大切に想う事は、今の自分や家族の生き様に責任を持つ事でもあるのかとも思う。先日、現世利得で勧誘し組織を増やしている団体に関する本を読んだ。熱心な人達だが結果欲に弄ばれているだけで、真の心の安らぎは得られるのだろうかと疑問。組織のための信仰ならしたくない。
 意識する時いつでも、神も仏も私の心の中にある。溺れて自身を見失なわない程度の信心を続けるだけでよいと思う。手を合わせるだけでも気持ちが落ち着く。
 新しい親族ができお付き合いも変化する。仏事など不慣れに世間知らずもくっ付いて、不義理や不始末もしかねない申し訳なさばかり。

もらい物

2005-07-17 | 日々
 「きゅうりがたくさんできたから、もらってほしい・・」と遠慮がちに持ってきた。町の人だが家庭菜園ででも作ったのだろうか。
 2・3本植えただけにしては、あまり多い収穫量だ。上に伸ばすのではなく畑にわらなどを敷き茎を伸ばせて実を付けるスイカの要領で育てたら、こんなにできたと解説付き。
 こちらにしても持て余す量に用意してあった袋に小分けして、みんなに頼んで押し売り状態でなんとか全て片付けた。
 もちろん私ももらって帰った。予想していたとおり、おかげで連日きゅうり三昧になっている。大きいし曲がっていたり黄色くなりかけたものもあった。
 確かに店で買ったのより美味しかった。でも数日後、「またできたから、持ってこようか」と言われたが今回ばかりは遠慮した。他でももらって減ってもいない。
 

ニッポン!ニッポン!

2005-07-16 | 平和を
 夜のテレビで、女子バレーの試合を見る。日本チームに勝って欲しいと期待するが、試合の実況放送のことばはもっと押さえてもらいたい。
 こちらも目で見て自分の感情のままに自由に応援をしたい。脇から必要以上の大きな声であおってもらう必要などなくジャマになるだけだ。
 近年対外試合のスポーツ中継を見ていて、いつも日本人の応援の方法が気になっていた。そこに演出された異様さを感じてしまうことがある。
 同じ形での自国選手だけへの応援を一斉に繰り返すのを見ると、朝鮮北部か宗教団体のマス・ゲームでも見せられているような気にもなる。
 スポーツの場を国威発揚の手段として利用しようと考えてはいないだろうか。勘繰りたくはないが、国旗君が代や教科書問題に憲法改正と、靖国系の根も・・・。ああ、スポーツを純粋に楽しみたい。

粗大ゴミに

2005-07-15 | 平和を
 立て掛けてあったリヤカーを処分した。何度も言うのに片付けないとジャマに思われていたようだが、私は聞いてはいなかった。
 できれば残して置きたかった。あのリヤカーはその人の親族の形見のような思い出の品でもあって、ずっと大事にしてきたしもちろんその人に伝えてあった。
 ある時親族の人が、路地の奥など自動車の入らない場所とかでも小回りの効き便利だからと手に入れ持ち帰ってもらったもので現役使用も十分可能だった。
 いらないのならと、小さく切断して鉄クズにしたが淋しかった。その後すぐに、あのリヤカーを使いたいとの話があったが遅かった。

 数日後のテレビで俳優の佐野浅夫さんが戦争の記憶の中で、リヤカーを戦車に見立てて爆弾代わりの座布団を背中に付けて戦車に飛びこむ、自爆テロ同様の肉薄攻撃隊と名付けた訓練を繰り返しやったと話していた。リヤカーに轢かれたら成功と言うわけだ。彼のリヤカーの思い出も淋しいようだ。 

店仕舞い

2005-07-14 | 日々
 帰宅時にふとその気になり、遠回りして本屋に立ち寄った。地元では大きな本屋なのだが、広い駐車場に車は一台も停まっていない。
 店に入っても、店長が一人店番をしているだけで他には誰もいない。大丈夫なのかと気になった。商店街にある本店は店仕舞いと聞いている。
 市に残るただ一軒の地元の本屋さんになるのか。過去には端々の小さな町にも、本を並べた店があった。交通が便利になり情報が溢れる時代となって、本離れが進むなか大型店の出店やインターネットの普及が重なったりで地元店は淘汰されていった。

 地域に密着した本屋は町の文化のバロメーターでもあり、その本屋が無くなることは町の文化を失うことにも繋がりかねない。との話を聞いた。
 この町でも村だった頃には、何軒もの本を売っている店があったことさえ忘れられようとしているのも淋しい。売ってはいても、めったに買えるものではなかったが期待があった。

子供の目は

2005-07-13 | 平和を
 【ピカドン】だれも知らなかった子どもたちの原爆体験記 50年ぶりに発見!広島の小学生が書いた15編の作文 (シリーズ子どもたちの未来のために)講談社発行
 広島市の小学校のロッカーで発見された作文集「原爆の思い出」の中から編集された本で、[文集は5~6年生の児童が4~6歳だった被爆当時の作文からなっている。]
 広島で買った本だが読み始めて、子どもや孫たちが住む町の近くの市立己斐小学校だと知り身近な気持ちで読んだ。
 [私たちは、いま一度、この手記を書いた子どもの心に立ち戻らなくてはならないのではないでしょうか。もう一度子ども時代にかえって、現代を見つめなおす必要があると思うのです。それも今すぐに。」帯にもある児童文学の那須正幹さんの解説の最後の言葉。
 作者の了解が得られたものだけの収録だが、幼い頃にあの惨劇を脳裏に焼きつけた人たちの人生とは・・・。その町で孫は7.2kgに育ったと、今日の検診の報告が先ほど入った。非戦は切実な欲求なのだ。

名産祭りに

2005-07-12 | 日々
 その町のホームページで日時を確認してから、毎年子供たちに送っている桃を買いに雨の中出かけた。会場であるはずの道の駅に到着するが、桃祭りが開催されている雰囲気はどこにもない。
 雨で延期かとも思ったが売店の小さなレジ窓口に、当日日付の入ったポスターが貼ってある。聞くとここですとの返事だが,えっ!どこ?と言いたいくらい、普段の売り場よりも桃が無い。
 開場時間からまだ三十分も経っていない。急いで別の場所に行き手に入れることはできた。小さな売り場だが、そこでは客の要望に答え追加の桃も搬入し対応していた。
 桃祭りの名に裏切られた気がした。収穫とか天気に左右されることがあるのはわかるが、同じ町内のすぐそばの売り場には桃があるのだ。
 祭り初日の朝、三十分で「もうそこにあるだけです」との言葉だけとは。その日は一日雨で翌日も雨の予報が出ていたが、祭り二日目はどうしたのだろう。
 私たちより倍以上遠くから桃を目当てに来た人たちも楽しみにしていたのにと怒っていた。どたばたして自分たち用の桃まで買いそびれてしまった。